はじめに
私たちクリスチャンの歩みには、一つの錯覚がつきまとうことがあります。それは、自分たちが住んでいる領域を、スイスのように中立な場所だと思い込んでしまうことです。しかし霊的な次元においては、何一つ中立なものはありません。世界には、ただ神を信じ、イエス・キリストを宣言しているという理由だけで迫害され、投獄され、殺されているクリスチャンたちがいます。それを見るだけで、私たちが本物の戦いの中にいることが分かります。パウロははっきりとこう言っています。天にある所での戦いがあるのだと。
けれども、あなたが直面している最大の戦いは、あなたの外にあるのではないかもしれません。それはあなたの内側にあります。あなたの肉に対して、あなたの思いに対して、落胆、疑い、偽り、非難に対しての戦いです。だからこそイエスは、あなたに一つの力強い道具を与えてくださいました。それが神の御言葉です。エペソ人への手紙6章17節は、それを「御霊の剣」と呼んでいます。これは象徴的な飾りではありません。敵があなたを打ち倒すために用いるすべてのものに、あなたが打ち勝つことのできる武器なのです。
この記事の構成
1. あなたは中立な領域に生きているのではない
最初のステップは、戦いの現実を認めることです。もしあなたが中立な泡の中に生きていると思っているなら、打撃が来たときに丸腰のままでいることになります。聖書はこの真実を隠していません。戦いがあり、それには霊的な側面があり、あなたはそれを無視することができません。敵は角と三又の槍を持って現れる必要はありません。一つの思いを差し込み、疑いを煽り、嘘を提案し、非難を思い出させるだけで十分なのです。そして、あなたの手に武器がなければ、その打撃は的中してしまいます。
戦いを認めることは、あなたを偏執的にするのではありません。あなたを明晰にするのです。それは、頭を通り過ぎていくものを受け身のまま被るのではなく、御言葉を取るための備えとなります。
2. 御言葉は御霊の剣である
パウロはエペソ人への手紙6章で、クリスチャンの武具のすべてを挙げています。しかし、唯一の攻撃用の武器が、御霊の剣、すなわち神の御言葉です。それ以外のもの、腰の帯、胸当て、盾、かぶとは、あなたを守るためのものです。御言葉は、打ち返し、退けるためのものです。
イエス御自身が荒野で試みられたとき、悪魔と議論することも、哲学的な話をすることもしませんでした。イエスは「〜と書いてある」と応じられました。それが神の御子の方法であったなら、なおさらそれはあなたの方法であるべきです。手にした御言葉は、頭の中に持っているだけのアイデアではありません。それは、偽りが打ちかかってくるとき、落胆が訪れるとき、非難があなたのテーブルに着こうとするときに、すぐに使える答えなのです。
3. 赦し、日々の戦場
敵が特に巧妙な仕方で攻撃してくる戦線があります。それは赦しです。ここでこそ、御言葉はあなたの日常生活における武器になります。パウロがコロサイの教会に手紙を書いたのは、教理的な混乱の中でのことでした。人間の教えと律法主義の名残があり、人々にこう考えさせていました。「もし私が赦すなら、神は私を赦してくださる。もし私が赦さないなら、神は私を赦してくださらない」。言い換えれば、最初の一歩を踏み出すのは人間の側だ、というわけです。
恵みはその逆を語ります。「神があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」。最初の一歩を踏み出されたのは神です。先に赦してくださったのは神です。あなたはその赦しに応答するのであって、自分の赦しによってそれに値するようになるのではありません。
「赦し」という言葉は、「行かせる、解き放つ、解く」という意味を持っています。それは忘れることではなく、何も起こらなかったかのように振る舞うことでもありません。それは怨みの鎖を断ち切り、あなたの心を憎しみ、怒り、復讐心から解放する自由の行為です。それは、牢獄にいながら、そこから出ることを決めるようなものです。赦さないことを選ぶとき、あなたは独房に留まり続けます。しかも一人ではなく、あなたを傷つけた相手と一緒にです。その相手はすでにすべてを忘れているかもしれないのに、昼も夜もあなたの頭の中を占め続けるのです。
4. 苦々しさ、毒された根
赦さないまま放置しておくとき、単なる悲しみよりも深い何かがあなたの内に生まれる危険があります。それが苦々しさです。ヘブル人への手紙12章15節はまさに、「苦い根が生えて悩ませることのないように、それによって多くの人が汚されることのないように」と語っています。
この根は、都合の良い土壌を見つけると深く入り込み、抜き取ることが難しくなります。それはあなたの魂を傷つけ、すり減らし、分裂させ、あなたの平安と人間関係を壊します。それが汚してしまう「多くの人」とは誰でしょうか。その節自体がこう語っています。「神の恵みから漏れる」人々だと。神の恵み、愛、赦しを経験したことのない人は、赦すことがより難しく、より容易に人を傷つけてしまうのです。
痛みがあまりに大きく、一人で背負いきれないとき、答えは、まっすぐに神のもとへ行くことです。自分にはできないと、誠実に告白することです。「クリスチャンだから赦さなければならない」ではなく、「神が私を赦してくださったから、私は赦す」という告白です。そこから聖霊が、その痛みが神の平安に置き換わるまで、日ごとに傷を癒やし始めてくださいます。
5. 七を七十倍、無慈悲な僕のたとえ
ペトロはうまく振る舞っているつもりでイエスのもとに来ます。当時のラビの教えでは、三度まで赦すべきだとされていました。ペトロはそれを上回り、「七度まで赦すべきでしょうか」と尋ねます。イエスの答えは彼を揺さぶります。「七度までではない。七を七十倍するまでです」。計算してみれば490になります。しかし、そのメッセージは算数ではありません。人生において、私たちは何回赦したかを数えることなどできないということです。ある時点で、数えることをやめてしまうのです。それは「常に」ということなのです。
では、なぜ私たちは、日曜学校の頃からこの教えを知っているのに、赦すことにこれほど苦労するのでしょうか。一つには高慢のためです。もう一つには、赦しは決して即座に訪れるものではなく、時間が必要であり、状況によっては本当に複雑だからです。しかし何よりも、私たち自身がどれほど赦されたかを理解していないからです。
それを説明するために、イエスは無慈悲な僕のたとえを語られます(マタイの福音書18章23〜35節)。ある王が、一万タラント(現在の価値で約2億2千万フランに相当する莫大な金額)の借金を負っている僕に返済を求めます。僕は懇願し、王は憐れみに動かされて、その借金の全額を免除します。ところが、その僕は外に出るとすぐに、百デナリ(現在の価値で約9千フランに相当)を借りている仲間に出会います。彼はその仲間の首を絞め、懇願を聞き入れず、牢に投げ込ませます。王は彼を呼び戻し、こう言います。「悪い僕よ、私はお前の莫大な借金を免除してやったのに、お前はわずかな借金を免除してやれなかったのか」。
ここで一つ注目してほしいことがあります。この様子を見ていた他の僕たちは、憤りと悲しみを覚えました。あなたの周りにいる人々は、あなたが思う以上に、あなたの矛盾に気づいているのです。
6. 惜しみなく赦され、赦すために召されている
このたとえは、あなたの救いそのものについて語っているのではありません。救いはすでに無償で、完全に受け取ったものです。しかし、その教えは変わりません。私たちは皆、自分では支払うことのできない罪の負債を負っていました。誰もそれを支払うことはできませんでした。イエスが私たちの代わりに来てくださり、十字架に上られ、私たちのために死んで、負債の全額を支払ってくださいました。あなたは惜しみなく、無償で、完全に赦されたのです。
神があなたにしてくださったように、あなたも他の人にすることが求められています。神はあなたの莫大な借金を免除してくださいました。あなたは、人があなたに対して負っているわずかな借金を免除することができます。そして覚えておいてください。回心する前、誰もが「結局のところ、自分は良い人間だ」と思いがちです。ボランティア活動をし、貧しい人々を助け、災害の被災者のもとへ駆けつける、立派な人々もいます。神はそのことについて彼らに報いてくださるでしょう。しかし御言葉が教えているのは、あなたが赦された罪とは、何よりもまず神からの分離だということです。アダムの性質が人の内に入り込み、罪を犯すように仕向けるのです。
ガラテヤ人への手紙5章にある肉の業のリストは長く続きます。姦淫、みだらな行い、汚れ、放縦、殺人、まじない、偶像礼拝、怒り、争い。しかしパウロはローマ人にこう言っています。あなたは罪に対して死んでいるのだと。そしてコロサイ人には、イエスが「もろもろの支配と権威との武具を解いて取り、これを公然とさらしものにして、彼らに勝利を得られた」(コロサイ人への手紙2章15節)と語っています。イエスは、それらがあなたの上に持っていた権威と力を取り除いてくださいました。そして今、あなたが結ぶ実は御霊の実です。愛、喜び、平安、寛容、慈愛、善意、誠実、柔和、自制。あなたは赦され、そして和解させられたのです。
7. 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」
赦しは福音の細部ではありません。福音の核心です。神の赦しは、人間が変わる前にすでに訪れていました。イエスは十字架の上で赦されました。十字架の後にではありません。それはルカの福音書23章34節に見ることができます。十字架にかけられている間、その下では大勢の人々がイエスを罵っていました。「お前がキリストなら、十字架から降りて自分を救ってみろ。お前がイスラエルの王なら、自分を救ってみろ」。苦々しい言葉です。それでもイエスはこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」。
彼らは本当に自分が何をしているのか分かっていなかったのでしょうか。彼らは自分が一人の人間を十字架に釘付けにしていることは知っていました。しかし、その十字架の上に「誰が」いるのかは知りませんでした。その十字架の上には、恵みが、主が、救い主がおられたのです。イエスは彼らを、血に飢えた凶暴な殺人者として見られたのではありません。罪と偽りの犠牲者として、羊飼いのいない羊として見られたのです。
この「彼らは知らない」という言葉は、「かわいそうに、彼らには分からなかったのだ」という意味ではありません。これは、彼らが神の愛を知らない、神の恵みを知らない、神の赦しを一度も経験したことがない、ということを意味しています。そしてこの「彼らは知らない」という言葉は、あなた自身のためにも役立ちます。それは、あなたが憎しみ、恨み、侮辱、怒りの虜にならないための、あなたの自由のために役立つのです。神の赦しを経験した者だけが、本当の意味で他者に恵みと赦しを与えることができるのです。
覚えておきたいポイント
- あなたは中立な霊的領域に生きているのではありません。本物の戦いがあり、それはあなた自身に関わっています。
- 神の御言葉は御霊の剣であり、あなたの武具の中で唯一の攻撃用の武器です。
- 赦しは、敵があなたを攻撃してくる主要な戦線の一つです。それを拒むことは、あなたを傷つけた相手と共に牢獄に留まり続けることを意味します。
- 苦々しさは深く入り込む毒された根であり、多くの人を汚します。それを抜き取ることができるのは神の恵みだけです。
- あなたは莫大な借金(一万タラント)を赦されました。だからこそ、他の人の「百デナリ」を免除することができます。
- イエスは十字架の上から、人間が変わる前にすでに赦しておられました。恵みの論理においては、赦しは悔い改めに先立つのです。
自分への適用
- どの霊的な戦線において、あなたはまるで領域が中立であるかのように振る舞っていますか。どこで、御言葉を手に取らないまま打撃を受け続けていますか。
- 落胆、疑い、非難の次なる思いに応えるために、今日暗記できる聖句は何ですか。
- あなたの頭の中で、あなたと一緒に独房に留まっている人はいませんか。何が、その人を行かせることを妨げていますか。
- 苦々しさの根が深く入り込む前にそれに気づくことができていますか。それとも、すでに根付いてしまってから気づいていますか。
- もしあなたを傷つけた相手を、イエスが十字架のふもとの群衆を見られたように、「彼らは自分が何をしているのか知らない」というまなざしで見るとしたら、その人のためのあなたの祈りはどう変わるでしょうか。
引用聖句
- エペソ人への手紙6章17節「救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」
- コロサイ人への手紙3章13節「互いに忍び合い、もし互いに不満に思うことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも赦し合いなさい。」
- ヘブル人への手紙12章15節「だれも神の恵みに欠けることのないように、また苦い根が生えて悩ませることのないように、それによって多くの人が汚されることのないように気をつけなさい。」
- マタイの福音書18章21〜35節限りない赦しと、無慈悲な僕のたとえ。
- ルカの福音書23章34節「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです。」
- ガラテヤ人への手紙5章19〜23節肉の業と御霊の実。
- コロサイ人への手紙2章15節「もろもろの支配と権威との武具を解いて取り、これを公然とさらしものにして、彼らに勝利を得られた。」
- ローマ人への手紙5章11節「わたしたちの主イエス・キリストによって、今すでにこの和解を得させていただいたのである。」
FAQ
どのような意味で、神の御言葉は「武器」なのですか。
エペソ人への手紙6章で、パウロはクリスチャンの武具のすべてを挙げています。「御霊の剣」と呼ばれる御言葉を除いて、そのすべては防御用のものです。御言葉だけが唯一の攻撃用の武器です。それは人を傷つけるためのものではなく、敵があなたを弱らせようとして送り込む嘘、非難、思いを退けるためのものです。イエス御自身も、荒野で試みられたとき、「〜と書いてある」と言って誘惑に応じられました。
もし私が赦さなければ、神は私を赦してくださらないのですか。これはどう理解すればよいですか。
律法はこう言いました。もしあなたが赦すなら、神はあなたを赦してくださる、と。恵みはその逆を語ります。神があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい(コロサイ人への手紙3章13節)。最初の一歩を踏み出されたのは神です。あなたが他者を赦すことは、神の赦しを得るための条件ではなく、あなたがすでに十字架の上で無償で受け取った赦しへの応答なのです。
傷があまりに深く、本当に赦すことができないとき、どうすればよいですか。
できたふりをしないでください。神のもとに行き、自分一人ではできないと誠実に告白してください。聖霊は、あなたに歯を食いしばることを求めておられるのではありません。あなたの痛みを御自身のもとに持って来ることを求めておられるのです。日ごとに、聖霊はその傷の中で働き、その痛みが御自身の平安に置き換わるまで働いてくださいます。赦しは悪を正当化するものではなく、過去を消し去るものでもありません。しかし、あなたを傷つけた相手と共にあなたを閉じ込めていた牢獄を打ち砕くのです。
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