はじめに
クーデターで倒された中東のある王が、こんな言葉を残したと言われています。「この地上に最後まで残る王は五人だろう。イギリスの王と、トランプの四人の王だ。」荻野倍弘牧師は、それが誰の言葉だったかはもう思い出せないと打ち明けます。けれども、この逸話から牧師はある発見をしました。トランプの四つのマークのなかで最強のスペードの王は、ダビデ王がモデルだと言われているのです。
この小話から始まるメッセージは、2026年9月27日に沼津シオン・キリスト教会で語られました。取り上げられるのは、ダビデの血筋に連なるまったく別の王、ユダの王マナセです。列王記下21章10-17節歴代誌下33章10-17節、題は「マナセの罪と悔い改め」です。
牧師は三つの点を挙げます。周りにいる人は人生に大きく影響すること、マナセの真実な悔い改めは、私たちの想像を超えて赦してくださる神を現していること、そして罪に満ちた世にあって、クリスチャンはとりなす者の心を失ってはならないことです。
メッセージの流れ
1. ユダを滅ぼした王
- およそ3000年前、イスラエルはダビデ、そしてその子ソロモンのもとで黄金時代を迎えます。ソロモンの富は今も語り草です。王国はガリラヤ湖からベエルシバ、さらにその先にまで広がりました。
- 晩年のソロモンは神の前に罪を犯し、信仰から離れてしまいます。王国は二つに分かれ、北がイスラエル、南がユダとなり、ユダではダビデの子孫が王位を継ぎました。
- 北王国は紀元前721年にアッシリヤに滅ぼされます。南王国はマナセの父ヒゼキヤのような良い王もいてなお持ちこたえますが、紀元前586年にバビロンに滅ぼされます。これがバビロン捕囚です。
- まことの神を信じていた民が、なぜ滅ぼされたのでしょうか。牧師によれば、その原因は、滅亡の数十年前に王となったマナセにさかのぼります。列王記下21章10-17節がその要約です。「ユダの王マナセがこれらの憎むべき事を行い、彼の先にあったアモリびとの行ったすべての事よりも悪い事を行い、またその偶像をもってユダに罪を犯させたので」(列王記下21章11節)。
- 1-9節には彼の行いが詳しく記されています。父が壊した高き所を建て直し、バアルの祭壇を築き、アシェラの像を造り、天の万軍を拝み、さらに主の宮の二つの庭にまで祭壇を築きました。
- 「主の目の前に悪を行った」という表現は、2、6、9、11、15、16節に繰り返されます。牧師は読み方の鍵を教えます。同じ章、あるいは数章のなかで繰り返される言葉は、その箇所のキーワードだというのです。ひとことで言えば、マナセは「悪い者」です。
2. 十二歳の王と周りの人々
- それでも牧師は、あえて問いかけます。悪いのは彼ひとりなのでしょうか。彼の行いが悪いのはもちろんです。しかし「マナセは十二歳で王となり」ました(列王記下21章1節)。今で言えば、小学校高学年の子どもです。
- そんな年齢の王が、父の神を捨ててバアルに仕えると宣言したなら、まっすぐな心の大人たちが止めるべきでした。「イスラエルの歴史を見なさい。まことの神に従うなら試練はあっても、神は助けてくださる。モーセ、ヨシュア、ダビデ、そしてあなたの父ヒゼキヤの生涯を見なさい。」
- どうやら、誰もそのように語らなかったようです。牧師はむしろ、彼の若さにつけ込む側近たちを想像します。「お父上は立派な方だったが、あの神は安息日だの要求だの、窮屈でならない。国は平和なのだから楽しもう。政治は我々に任せなさい。」聖書にこうした言葉は記されていない、と牧師は断りますが、結果ははっきりしています。国は道を踏み外したのです。
- 対照的な例が、マナセの孫ヨシヤです。「ヨシヤは八歳で王となり」ました(列王記下22章1節)。さらに幼かった彼も、操られてしまってもおかしくありませんでした。それでも彼は民の信仰を立て直し、本物の改革、ほとんど信仰復興と呼べる働きをなし、優れた統治の才を見せました。最期は悲劇的でしたが。
- そこから教訓が引き出されます。周りにいる人は大きな影響を与えます。あなたは毎日、どんな大人、どんな友人、どんな先輩と過ごしていますか。教会では、どんな兄弟姉妹と、どんな牧師のもとにいますか。「これを言うと自分の首を絞めることになるので、あまりきびしい目で見ないでください」と、牧師は笑顔で語ります。それでも、ひとつの悪い一歩が、国や教会を滅ぼすことがあるのです。
- 反対に、試練の時代にあっても、信じる者たちが主に信頼し、素朴に、温かく主を礼拝するところには、主が生き生きと働かれ、心を同じくする兄弟姉妹や牧師との出会いを与えてくださいます。
- そこで牧師は、教会、職場、家庭、学校のために祈ることを勧めます。自分自身が地の塩、世の光として生き、そこに心を同じくする指導者や仲間を神が起こしてくださるよう願うのです。「生ける主は、この祈りに答えてくださいます。」
3. マナセの真実な悔い改め
- 第二の点は、マナセが心から悔い改めたということです。歴代誌下33章の記述は、まったく別の顔を見せます。主はマナセに語りかけますが、彼は耳を貸しません。そこでアッシリヤの王の軍勢の将たちが、彼をかぎで捕え、青銅のかせにつないで、バビロンに引いて行きます(歴代誌下33章10-11節)。牧師は、この出来事は一般に彼の晩年のこととされている、と述べます。
- 「彼は悩みにあうに及んで、その神、主に願い求め、その先祖の神の前に大いに身を低くして、神に祈ったので、神はその祈を受けいれ、その願いを聞き、彼をエルサレムに連れ帰って、再び国に臨ませられた。これによってマナセは主こそ、まことに神にいますことを知った」(歴代誌下33章12-13節)。
- 帰国した彼は、外壁を築き、堅固な町々に軍長を置き、主の宮から異邦の神々と偶像を取り除き、主の祭壇を築き直して、ユダにイスラエルの神に仕えるよう命じます(14-16節)。
- 「身を低くする」という動詞は、12節と19節に出てきます。「神などいない、自分の人生の神は自分だ」と言って生き、神さえも自分の意のままにしたくて偶像を選んだ人が、180度向きを変えたのです。彼は救われ、癒され、国全体が造り変えられました。
4. 我に返った息子
- 牧師はこの物語を、放蕩息子のたとえ(ルカによる福音書15章11-32節)と重ねます。日本の作家、芥川龍之介は、これを短編小説の傑作と見ていました。
- 父を軽んじる息子が、財産の分け前を求め、遠い国へ行って、すべてを使い果たします。友だちと思っていた者たちは、彼を豚の世話に送り出します。豚はイスラエルの人々にとって汚れた動物で、おまえはもう仲間ではないと告げるのに等しい仕打ちです。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと願いますが、誰も何も与えてくれません。
- どん底に落ちた彼は、帰ることを決意します。「もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」。待っていた父は、遠くから彼を見つけ、走り寄って抱きしめます。最後まで言わせることなく、着物を着せ、指輪を手にはめさせ、祝宴を開きます。
- たとえの核心は、息子が「我に返り」、身を低くして父のもとへ帰るその瞬間です。同じことがマナセにも起こりました。
5. 想像を超えて赦してくださる神
- 「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう」(詩篇130篇3-4節)。
- 牧師が心に留めてほしいと願うのは、次のことです。聖書の神が神であるゆえんは、人間や人間が造る偶像とは違って、赦すことのできる無限の愛と心の広さを持っておられる点にあります。
- 牧師は率直に打ち明けます。人間としては、どうしても赦せないことがある、と。「しかし、神は人ではありません。」聖書の神は、私たちにはできない赦しをなさいます。それは人間の想像をはるかに超えています。私たちが思い描ける範囲に収まる神なら、私たちを超えることはできないでしょう。
- その証拠が十字架です。神の御子は神としてのあり方を捨て、地上で33年の苦難の生涯を送り、愛した十二弟子のひとりに裏切られ、十字架の上での最初の言葉は、自分を釘付けにする者たちのための祈りでした。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書23章34節)。
- イエスは私たちの罪と神の裁きを負われました。しかし物語はそこで終わりません。三日目によみがえり、死と悪魔に勝利し、今は神の右の座にあって、私たちのためにとりなしておられます(ローマ人への手紙8章34節)。
- 弟子たちとともに四十日を過ごしたのち、イエスはオリーブ山から天に昇られます。取り残されることを恐れるペテロやヨハネたちに、聖霊によって彼らのうちに帰ってくると約束しておられました。十日後のペンテコステに、聖霊が彼らに降ります。今日も、あなたが心を開くなら、聖霊はあなたのうちに住み、道を教え、守り、助けてくださいます。
- マナセの物語は、旧約聖書のなかですでに、イエスにおいて差し出されるこの赦しと救いの望みを告げています。
6. 預言者のまなざしと祭司のまなざし
- これほど美しい物語が、なぜ列王記にはないのでしょうか。歴代誌は、サムエル記や列王記とほぼ同じ時代を扱いながら、別のまなざしで歴史を見ています。
- サムエル記と列王記は、預言者の目で歴史を見ます。牧師はここで日本語の言葉遊びをします。これは未来を言い当てる「予言者」ではありません。牧師が子どもだった頃に話題になった「ノストラダムスの大予言」のようなものではなく、神の言葉を「預かった」人のことです。このまなざしは、罪をはっきりと名指しし、糾弾し、悔い改めへと導きます。
- 一方、歴代誌は祭司の目で歴史を見ます。祭司は罪人に代わっていけにえをささげ、その人のために赦しを求めました。とりなしのまなざしです。
- クリスチャンには預言者の役割があります。神の前でも人の前でも正しく生き、地の塩、世の光として、正しい道を示すことです。しかしそれ以上に、祭司の役割があります。他の人のために祈り、慰め、励まし、神の前に担い、そして自分自身が十字架でのイエスのとりなしによって救われたことを感謝することです。
- 牧師は慎重に、笑顔を交えて、個人的な印象を語ります。教会に緊張が生じるとき、それは牧師が祭司であるよりも預言者として立っているからかもしれない、と。イエスは世をさばくためではなく(ヨハネによる福音書3章17節)、祭司としてとりなすために来られたことを忘れてはなりません。
7. 同情してくださる大祭司
- 第三の点は、罪が人間の世界に染み込んでいるということです。だからこそ、主の御心を自分の心とすることで、とりなす者の心を失ってはなりません。
- ヘブル人への手紙4章14節から5章10節でメッセージを結びます。「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(ヘブル人への手紙4章15-16節)。
- 大祭司は、無知な人や迷っている人に対して優しくあることができます。自分自身も弱さを身に負っているからです。キリストは、この栄誉を自分で得られたのではありません。神が、メルキゼデクの位に等しい大祭司と宣言されたのです。彼は多くの苦しみによって従順を学び、すべて彼に従う者に対して、永遠の救の源となられました(ヘブル人への手紙5章8-10節)。
- イエスはあなたのためにとりなしておられます。本当に同情してくださり、ご自身も試みにあい、苦しまれ、そのなかであなたに限りない愛を注ぎ続けておられます。あなたを永遠に救ってくださり、あなたが神の国に入る日に、そのすべてが真実であったと確かめるでしょう。
- 牧師はメッセージを祈りで結びます。
心に留めたいこと
- 周りにいる人は大きな影響を与えます。十二歳で王となったマナセは、正してくれる人がいないまま道を踏み外し、八歳で王となったヨシヤは、民の信仰を立て直しました。
- 教会、家庭、仕事、学校のために祈りましょう。そこに心を同じくする指導者や仲間を、神が起こしてくださるように。
- 最悪の王でさえ、神の前に身を低くしたとき赦されました。真の悔い改めとは、完全に向きを変えることです。
- 人間にはできない赦しを、神はなさいます。自分を十字架につける者たちのために祈られたイエスの十字架が、その証拠です。
- クリスチャンは、預言者のように真理を語るよう召されています。しかしそれ以上に、大祭司であるイエスにならって、祭司のようにとりなすよう召されています。
個人的な適用
- 今、あなたの人生に最も影響を与えている人は誰ですか。その人たちは、あなたをどこへ導いていますか。
- 今週、どの場所(教会、家庭、職場、学校)のために祈れますか。そこに心を同じくする人を神が起こしてくださるように。
- 「自分の人生の神は自分だ」と、まだ言ってしまう領域はありませんか。あなたにとって本当に向きを変えるとは、どういうことでしょうか。
- 神の赦しは、あなたにとっても、自分で自分を赦せないことについてさえ、十分に大きいと信じていますか。
- 他の人の罪に向き合うとき、あなたは裁く人の側に立つでしょうか、それともとりなす人の側に立つでしょうか。責める代わりに、誰のために祈れるでしょうか。
引用された聖句
- 列王記下21章10-17節
- 列王記下21章1-9節
- 列王記下22章1節
- 歴代誌下33章10-17節
- ルカによる福音書15章11-32節
- 詩篇130篇3-4節
- ルカによる福音書23章34節
- ローマ人への手紙8章34節
- ヨハネによる福音書3章17節
- ヘブル人への手紙4章14節から5章10節
よくある質問
なぜマナセはユダ最悪の王とされるのですか。
列王記下21章によれば、マナセは高き所を建て直し、バアルと天の万軍のために、主の宮のなかにまで祭壇を築き、主が滅ぼされた諸国民よりも悪いことを行いました。荻野牧師は、「悪を行った」という表現がこの章で繰り返されており、それがこの箇所のキーワードだと指摘します。牧師にとって、マナセはユダ滅亡の原因です。
神はマナセを赦されましたか。
はい。歴代誌下33章は、バビロンに捕らえられたマナセが神の前に深く身を低くして祈ったことを伝えています。神はその願いを聞き入れ、彼をエルサレムに連れ帰られ、マナセは主こそまことの神であることを知りました。荻野牧師は、ここに旧約聖書の時代からすでに、イエスにおいて差し出される赦しの予告を見ています。
なぜ列王記はマナセの悔い改めを語らないのですか。
荻野牧師は、列王記が預言者の目で歴史を見ており、罪を糾弾して悔い改めを呼びかけるのに対し、歴代誌は祭司の目で、罪人のためにとりなすまなざしで見ていると説明します。どちらのまなざしも必要ですが、イエスは世をさばくためではなく、とりなすために来られました。
メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。