はじめに
「ご主人様、私たちはイエスにお会いしたいのです。」過越の祭りのためにエルサレムに上って来た数人のギリシア人によるこの願いは、一見すると巡礼者たちのちょっとした好奇心のように見えます。彼らはガリラヤのベツサイダ出身のピリポに近づき、ピリポはそれをアンデレに伝えます。二人はその願いをイエスに伝えます。表面上は何も特別なことはありません。ところが、主の答えはすべてを一変させます。「人の子が栄光を受ける時が来た。」(ヨハネ12:23)
二人の弟子によるこの何気ない行動、師の耳元でささやかれたこの小さなひと言が、イエスの心の中に、救いの時が来たという確信を呼び起こします。私たちが日々の生活の中でとるに足りないと思っていること、たとえば友人にイエスについてひと言語ること、誰かのために祈ること、ちょっとした親切な行為であっても、それこそが神が一つのいのちを、一つの家庭を、一つの国を変えるために用いてくださるものとなり得るのです。
ヨハネ12:20-26のこの箇所で、主は私たちに三つの決定的な真理を垣間見せてくださいます。イエスは時の主であること、イエスは奪うお方ではなく与えるお方であること、そしてイエスは時を超えて私たちに永遠のいのちを与えてくださることです。この三つの真理は抽象的な概念ではありません。それらは今日、あなたがいるまさにその場所で、あなたの人生に触れてくるものです。
1. イエスは時の主です:あなたの人生は偶然ではありません
ギリシア人たちがイエスに会いたいと願ったとき、その答えは面会の予定についてではありませんでした。それは「時」についてでした。ヨハネの福音書の中で、この「時」という言葉は一本の赤い糸のように繰り返し現れます。ヨハネ2:4とヨハネ7:6で、イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と言われます。ヨハネ7:30とヨハネ8:20では、記者が「まだイエスの時が来ていなかったからである」と説明します。そしてヨハネ12:23とヨハネ17:1では、その宣言が変わります。「時が来た。」
この「時」とは、十字架と復活の時、救い主がご自分の来られた目的を成し遂げられる時です。イエスは出来事に翻弄されるお方ではありません。イエスは神の時を知っておられ、その時の中に住み、その時を治めておられます。イエスは救いの時計を司る主なのです。
あなたがここにいるのは神がそう望まれたからです
イエスが時の主であるなら、だれ一人として、本当にだれ一人として、偶然そこにいる人はいません。あなたがこの家族に、この国に、この時代に生まれたのは偶然ではありません。使徒パウロは力強くこう記しています。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神はこの良い行いを、私たちが歩むべきものとしてあらかじめ備えてくださいました。」(エペソ2:10)
エペソ2:8-10の中で、パウロは三度「良い行い」について語っています。私たちは恵みにより、信仰によって、行いによらずに救われましたが、その救いには目的があります。神が私たちを用いてくださるということです。主があなたを救われたのは、あなたを愛しておられるからです。しかしそれだけでなく、あなたを必要としておられるからでもあります。あなた以外のだれも果たすことのできない使命が、あなたの通り、あなたの職場、あなたの家庭の中に用意されているのです。
神の時は決して遅れません
多くの信者が、キリストに出会う前、あるいはキリストのもとへ立ち返る前に「時を無駄にした」ことを悔やんでいます。80歳を過ぎてから教会に戻ってきたある姉妹は、悲しげにこう言いました。「もっと早く帰ってきていれば、もっと祈れたのに、もっと仕えられたのに、もっと証しできたのに。」しかし伝道者の書3:1はこう告げています。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」
神は戦争や死別や試練を通してこの姉妹の命を長らえさせ、まさに正しい時に帰ってこられるようにされました。彼女が「無駄にした時間」と呼んでいたものは、実は「守られていた時間」だったのです。神が今日あなたに与えておられる時間は、たとえどれほど小さく、どれほど遅く感じられたとしても、あなたのうちに、そしてあなたを通して神があらかじめ備えられたことを成し遂げるために、まさに必要な時間なのです。
2. イエスは奪うお方ではなく、与えるお方です
多くの人は神を、奪い、奪い取り、制限する厳しい方として思い描いています。すべてを主に明け渡すことを恐れているのです。すべてを失うのではないかと恐れているからです。イエスは、一粒の麦のたとえによって、その誤ったイメージをただ一つの言葉で打ち砕かれます。「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12:24)
主の御手に自分をゆだねることは、自分を増し加えることです
地に落ちることを拒む麦粒は、一粒のままです。それは自分を保ちますが、やがてしおれてしまいます。落ちて、消えることを受け入れる麦粒は、三十倍、六十倍、百倍もの穂を実らせる存在となります。イエスはあなたの喪失を望んでおられません。あなたの実りを望んでおられます。イエスはあなたから奪い取ろうとしているのではなく、あなたが想像もできないほどにあなたを増し加えようとしておられるのです。
あなたが自分のいのちを、自分の時間を、自分の賜物を、自分の計画を主にゆだねるとき、あなたはそれらを失うのではありません。それらを実らせることのできる唯一のお方の御手の中に置くのです。私たちの五つのパンと二匹の魚は、私たちの手の中にある限り、だれをも養うことはできません。しかしイエスに差し出されるなら、群衆を満腹させることができるのです。
すべてをささげることへの恐れに打ち勝つ
献身することへの恐れは、神の御心を知らないところから生まれます。私たちは、自分が大切にしているものを奪い取る父を思い描いてしまいます。しかしキリストは、ご自分の御子を差し出された父を私たちに示してくださいました。「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
ご自分の御子を与えられた神が、あなたに属するものを奪い取ろうとするはずがありません。神はただ、あなたが神に信頼し、あなたのちっぽけな慎重さでは決して思い描くことのできなかった地平をあなたのために開いてくださることを望んでおられるのです。
3. イエスは時を超え、永遠のいのちを与えてくださいます
三つ目の真理は、二つ目の真理をさらに深めます。時の主であり、与えるお方であるイエスは、また死をも通り抜けられたお方です。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」(ヨハネ12:25)
「自分のいのちを愛する」とは、本当に自分のいのちを愛することなのでしょうか
「自分のいのちを愛する」とは、ここでは神が私たちに与えてくださった存在への健全な愛着を指しているのではありません。ギリシャ語の本文が示しているのは自己中心性です。すなわち、自分に集中し、傷ついた自尊心に固執し、他者を支配しようとし、絶えず自分の権利を主張する生き方です。この生き方は、一見自分を守っているように見えて、実際には自分を閉じ込め、自分を殺してしまいます。
「この世で自分のいのちを憎む」とは、この頑なな自我を手放すこと、自分自身という偶像に背を向けてキリストを迎え入れることです。そして逆説的に、そこでこそ本当の自己愛が見出されるのです。それは業績や他者の評価からではなく、神から尊厳を受け取る自己愛です。
最も大切な戒め:愛されているからこそ愛する
最も大切な戒めについて尋ねられたとき、イエスはこう答えられました。「あなたの神である主を、心を尽くして愛しなさい……そして、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(マタイ22:37-39)自分自身を愛していなければ、隣人を「自分自身のように」愛することはできません。そして、まず神に愛されることを自分に許していなければ、自分自身を本当に愛することもできません。
信仰はそこから始まります。愛されることを受け入れることです。あなたがこの愛を受け取るとき、あなたはもはや、イエスがご自分の十字架の代価によって贖ってくださった者を、つまり兄弟を、姉妹を、そしてあなた自身を、軽んじることができなくなります。あなたは相手を受け入れ、その人に価値を認めることができるようになります。なぜなら、あなたは自分自身の価値を受け入れたからです。
仕えるとは、主とともにいることです
イエスはこの箇所を一つの約束で締めくくられます。「だれでもわたしに仕えようとする者は、わたしについて来なさい。わたしのいる所に、わたしに仕える者もいるのです。だれでもわたしに仕えるなら、父はその人を大切にしてくださいます。」(ヨハネ12:26)
イエスに仕えるとは、何よりもまず仕事を成し遂げることではありません。主がおられる場所にとどまることです。喜びの中でも、疑いの中でも、主にしっかりとつかまることです。あなたはすでに、主を求め、聖書を開き、祈り、主とともに歩むことによって、主に仕えているのです。残りのこと、良い行い、実り、収穫は、主ご自身があなたを通して成し遂げてくださいます。
心に留めておきたいこと
- あなたがこの地上に、この時代に、この場所に存在していることは偶然ではありません。神はあなたのためだけの、唯一の良い行いを備えてくださっています。
- イエスは時の主です。あなたが「無駄にした時間」と呼ぶものは、守られていた時間かもしれません。
- 主はあなたから奪い取ろうとはされません。主はあなたに三十倍、六十倍、百倍の実を結ばせようとしておられます。
- 自己中心的に自分のいのちを愛することはそれを死なせ、キリストにゆだねることはそれを永遠へとよみがえらせます。
- イエスに仕えるとは、何よりもまず多くのことを行うことではなく、主とともにとどまることです。
実践的な適用
- 神が今日、まさにあなたがいるその場所であなたのために備えておられるように見える「良い行い」とは何でしょうか。
- あなたの人生のどの領域を、すべてを失うことを恐れて、まだ「地に落とす」ことを拒んでいますか。
- 今週、ピリポとアンデレがギリシア人たちにしたように、あなたが単純にイエスについてひと言語ることができる相手はだれですか。
- あなたはこの内なる耳を傾けをどこまで行っていますか。毎日、神が語ってくださる愛を受け取っていますか、それとも自分自身の基準で自分を裁き続けていますか。
- 「イエスとともにとどまる」ことは、明日のあなたの一日の中で、具体的にどのような意味を持つでしょうか。
重要な聖句
- ヨハネ12:20-26 ・ イエスに会いたいと願ったギリシア人たち、時と一粒の麦
- エペソ2:8-10 ・ 恵みによって救われ、あらかじめ備えられた良い行いのために
- ヨハネ3:16 ・ ご自分の御子を与えられた神の愛
- 伝道者の書3:1 ・ すべてのことには時がある
- ダニエル7:13-14 ・ 人の子の幻
- マタイ22:37-39 ・ 最も大切な戒め
よくある質問
ヨハネ12章の「時が来た」とは正確にはどういう意味ですか。
ヨハネの福音書において「時」は一貫して、十字架と復活の時、すなわちイエスの使命の頂点を指しています。ヨハネ11章まで、記者は繰り返し「彼の時はまだ来ていなかった」と述べています。ヨハネ12:23で、イエスは厳かに、この決定的な時が来たことを宣言されます。世のためにご自分のいのちを与えることによって、栄光を受けようとしておられるのです。
神が私のために備えてくださった「良い行い」が何であるか、どうすれば分かりますか。
それらはほとんどの場合、派手なものではありません。それらは、神があなたの道の上に置かれる出会いの中で、あなたの周りに見える必要の中で、神があなたに委ねてくださった賜物の中で、歩みながら見出されていくものです。祈り、あなたの通り、家族、職場に目を向け、あなたの前にあることから始めなさい。主は完璧な計画を探して立ち止まっている人ではなく、歩み出す人を導かれます。
死ぬ一粒の麦とは、苦しみへの招きなのでしょうか。
いいえ、これは苦しみそのものを称賛するものではありません。これは信頼への招きです。麦粒が実を結ぶために地に葬られることを受け入れるように、キリストは私たちに、自分のいのちを、計画を、恐れを主にゆだねるよう招いておられます。苦しみが道のりの一部であることはあり得ますが、強調されているのは苦しみそのものではなく、約束された実りです。
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