はじめに
あなたにも、こんな瞬間があったのではないでしょうか。神様との間で力強い出来事、勝利、祝福された奉仕、聞かれた祈りを経験したばかりなのに、その数時間後、たった一つの言葉、たった一つのまなざし、たった一つの脅しだけで、すべてを手放してしまいそうになる瞬間です。あなたは疲れ果て、意気消沈し、神様に自分をこの舞台から下ろしてくださいと願いたくなるほどになってしまいます。
まさにこれが、列王記第一19:1〜8で預言者エリヤに起こったことです。そしてこれはまた、まもなく処刑されようとしていた使徒パウロが、若き弟子テモテのうちに起こらないようにと願って、こう書き送ったことでもあります。「神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊です」(テモテ第二1:7)。
2025年10月5日のこの礼拝は、テモテ第二1:6〜10を中心に展開されます。そこでは聖霊が、再び燃え立たせるべき賜物、かき立てるべき火、あなたの内側のすべてが消え入りそうなときにあなたを立ち上がらせる力として描かれています。
本文の構成
1. 偉大なしもべでさえ打ちのめされる
カルメル山でバアルの預言者たちに対して輝かしい勝利を収め(列王記第一18章)、二年半に及ぶ日照りが彼の祈り求めた雨によって終わりを迎えた後、エリヤはイゼベルからたった一つの脅しを受けます。たった一つです。そして彼は逃げ出します。
彼は荒野の中を歩き、えにしだの木の下に座り込み、こう言います。「もう十分です。主よ、今、私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていないのですから」(列王記第一19:4)。
彼が言っていることをよく見てください。「私は先祖たちにまさっていない。」彼は祈り、神様に語りかけていますが、その根底では自分を比較しているのです。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、ダビデと。彼の祈りは単なる疲れではありません。それは裏返しになったプライドであり、神様が見えなくなってしまうほどに傷ついた自尊心の一つの形なのです。
聖書の中で三人の偉大な人物が、神様に自分を死なせてくださいと願いました。エリヤ、モーセ、そしてヨナです。誤解しないでください、ヨナは時に戯画化されるような、失敗した預言者ではありません。イエス様ご自身が、三日後にご自分がよみがえられることを告げるために、ヨナを例として用いられました(マタイ12:38〜41)。神様が力強く用いられたこの三人の男たちもまた、すべてをやめてしまいたいと思うほどの限界点を経験しているのです。
これを心に留めてください。打ちのめされることは、あなたが間違った場所にいるという意味ではありません。それは時に、不思議なことに、あなたが用いられているしるしなのです。
2. 神はあなたを脇に置かれない:あなたのためにパンを備えられる
これこそが、この箇所の中で最も心を揺さぶられる部分です。神様はエリヤに説教をなさいません。「しっかりしなさい」とも言われません。神様はまず彼を眠らせます。それから御使いを遣わし、彼に触れさせてこう言わせます。「起きて食べなさい」(列王記第一19:5)。
エリヤが目を開けると、枕元に「焼き石で焼いたパン菓子と水の入ったつぼ」がありました。彼は食べ、飲み、また横になります。二度目に御使いが戻ってきてこう言います。「起きて食べなさい。あなたの行く道が長すぎるから」(列王記第一19:7)。
神様はエリヤに必要なものを備えてくださいます。ちょうど良い分量を、ちょうど良いタイミングで、非難することなく。二年前、日照りの間、この同じ神様はすでにからすを遣わして、川のほとりでエリヤを養っておられました(列王記第一17章)。神様はからすによって、御使いによって、メッセージを送ってくれる兄弟によって、病院に届けられる一皿の料理によって、備えてくださいます。方法は変わっても、神様の真実さは変わりません。
もし今日あなたがこの言葉を聞いているなら、心に留めてください。主はあなたを見捨てず、あなたを拒まれません。あなたが限界に達しているとき、神様はこれから先の道のためにあなたに必要なものを備えてくださっているのです。
3. エリヤは新しい使命を受ける:彼はまだ終わっていない
このパンと水の力を得て、エリヤは四十日四十夜歩き、神様の山であるホレブ山にたどり着きます。そこはモーセが律法の板を受け取った場所です。それはシナイ山であり、アブラハムがイサクを献げたモリヤの山と同じ山です(創世記22章)。
そしてそこで、神様は激しい風の中にも、地震の中にも、火の中にも現れられません。神様は「かすかな、ささやくような声」の中に来られます(列王記第一19:12)。これはまさに、みことばを通して語られる聖霊の姿そのものです。
そして何よりも、15節から、神様はエリヤに新しい使命を与えられます。ハザエルに油を注ぐこと、エフーに油を注ぐこと、後継者エリシャに油を注ぐことです。言い換えれば、あなたが生きている限り、神様にはまだあなたのための計画があるということです。明日の朝、起き上がる理由があるということです。あなたの家庭でも、あなたの地域でも、あなたの職場でも、あなたの教会でも、他の誰もあなたの場所を占めることはできません。
4. かき立てるべき神の賜物:力、愛、慎み
テモテ第二1:6に戻りましょう。「私があなたに手を置いたことによってあなたのうちにある神の賜物を、再び燃え立たせるように、私はあなたに思い起こさせています。」賜物はひとりでに消えることはありませんが、燃えさしの下でまどろんでしまうことがあります。パウロはテモテに、その火を再び燃え立たせるようにと求めているのです。
この賜物とは聖霊のことです。そしてパウロはその三つの特徴を、ひと息に描き出します。力、愛、慎み(あるいは「自制」)です。ガラテヤ5:22では、御霊の実は単数形で名付けられています。「実」であって「実り」ではありません。この唯一の実とは愛であり、この愛から、喜び、平安、寛容、親切、誠実、柔和、自制が生まれてくるのです。
5. 流れるところどこにでもいのちを与える川
エゼキエル47:1〜12を見てみましょう。神殿の敷居から一筋の水が流れ出し、次第に大きくなって川となり、それが通るところではどこでも「生きるものはみな生き返る」(9節)のです。この川は聖霊の姿を表しています。
御霊があなたのうちに住まわれるとき、良くなるのはあなただけではありません。あなたが住む家、あなたが歩く地域、あなたが教える学校、あなたが働く職場、あなたが仕える教会、そのすべてが、あなたを通して流れる川によって潤されます。あなたは自慢したり、自分の役割を誇張したりする必要はありません。あなたを通して働いておられるのは神様なのです。
6. 恥じないように、そして一人で留まらないようにという招き
「ですから、私たちの主について証しすることを恥じてはいけません。主の囚人である私のことも恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私とともに苦しみを受けてください」(テモテ第二1:8)。
パウロは殉教を数週間後に控え、獄中からこの言葉を書いています。彼はテモテに一人で英雄的であれと求めているのではありません。彼は、二人が神様の力によって、共に福音の重荷を担っていることを思い起こさせているのです。
マタイ11:28〜30でイエス様が語られたことを思い出してください。「疲れた人、重荷を負っている人は、みな私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。」くびきの片側にはイエス様がおられます。もう片側には、あなたの教会の兄弟姉妹、あなたが知らないうちにあなたのために祈っている人々がいます。あなたは一人で担っているのではありません。あなたには居場所があり、家族があり、民があるのです。
心に留めておきたいこと
- 霊的な勝利の後に打ちのめされることは、歩みの終わりではありません。それは時に、神様が用いておられる人のしるしです。エリヤ、モーセ、ヨナもそこを通りました。
- 神様は、あなたが限界にあるときに説教をなさいません。まずあなたを眠らせ、それからあなたに必要なパンと水を備えてくださいます。
- 息のある限り、神様にはあなたのための使命があります。あなたの場所は他の誰にも占めることができません。
- 聖霊はしばしば、劇的な出来事の中ではなく、かすかな、ささやくような声の中に現れられます。聖書を開き、短い一言を祈ってください。神様はあなたに語りかけてくださいます。
- 受け取った賜物はまどろんでしまうことがあります。みことばを規則正しく読むことによって、それを再び燃え立たせてください。一日五章読めば、一か月で詩篇全体を読み終えることができます。
あなた自身への適用
- ここ数週間、私の内なる火に吹きつけてきたものは何でしょうか。誰かとの比較でしょうか。批判でしょうか。積み重なった疲れでしょうか。
- 一日のどの時間に、えにしだの木の下のエリヤのように立ち止まり、神様が備えてくださるもの、すなわち五分間のみことばや短い祈りを、いただくことができるでしょうか。
- 私は、自分の教会と家庭における自分の場所を、他の誰も占めることができないと本当に信じているでしょうか。そのことは、今週私がどう生きるかに、どんな違いをもたらすでしょうか。
- 私はどこかで、イエス様について証しすることを恥じていないでしょうか。誰に対して、なぜでしょうか。
- 私の周りで、今、一人で歩んでいる人は誰でしょうか。今週、私はその人にとっての「備えられたパン」に、どうすればなれるでしょうか。
引用された聖句
- テモテ第二1:6〜10 · 神の賜物を再び燃え立たせる:力、愛、慎み。
- 列王記第一17章 · からすによって養われるエリヤ。
- 列王記第一18章 · カルメル山のエリヤ。
- 列王記第一19:1〜8 · えにしだの木の下のエリヤ、御使い、パンと水。
- 列王記第一19:12 · かすかな、ささやくような声。
- 創世記22章 · 山の上のアブラハムとイサク。
- マタイ11:28〜30 · イエス様とともに担うくびき。
- マタイ12:38〜41 · ヨナのしるし。
- ヨハネ15章〜17章 · 慰め主である聖霊。
- ガラテヤ5:22〜23 · 御霊の実。
- エゼキエル47:1〜12 · 神殿から流れ出る川。
よくある質問
クリスチャンがうつや意気消沈を経験することは深刻な問題なのでしょうか
いいえ、それはあなたの信仰を揺るがすものではありません。聖書はこの点についてとても率直です。エリヤ、モーセ、ヨナは神様に死を願いましたが、神様は彼らを退けられませんでした。神様は彼らを養い、再び立ち上がらせ、使命を与え直されました。もしあなたが今そのただ中にいるなら、必要な医療的、牧会的な助けを求めてください。そして、神様はあなたの崩れ落ちる姿を恐れておられないことを思い出してください。
私の人生の中で、聖霊の賜物をどう再び燃え立たせればよいでしょうか
教会の中で受け取るみことば(説教、礼拝)を通して、個人での規則正しい聖書の通読を通して、そして祈りを通してです。具体的な習慣として、一日五章の詩篇を読めば一か月で百五十篇すべてを読み終えられますし、一日一章の箴言を読めば一か月でこの書を読み終えられます。まずは福音書から始めましょう。ルカかマルコが、再出発するには最も取り組みやすいでしょう。
なぜこの箇所は「慎み」ではなく「自制」について語っているのでしょうか
テモテ第二1:7のギリシア語は、訳によって「慎み」「自制」「思慮分別」などと訳されます。その意味するところは同じです。自分の思いと感情を治めることのできる、落ち着いて明晰な霊のことであり、それは人を麻痺させるパニックや臆病さとは正反対のものです。それは恐れの霊とは正反対のものなのです。
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