はじめに
「あなたはどの奉仕をしていますか?」教会の大会などで、「どちらの教会から来ましたか?」の次に聞かれるのがこの質問です。答えはすぐに出てきます。子どもの教会、ホームグループ、映像チーム、賛美、ドラム、ギター、受付。
オーストラリアのHope Church Perthで説教しているPaulは、このメッセージで「Way(道)」シリーズを締めくくります。これまでの週は、イエスと共にいること、そしてイエスがなさることを行うことについて語られてきました。今回は聖書の学びというより、振り返りに近い「軽めの話」だと、連休明けのメッセージの冒頭で伝えています。
彼の問いは、組織図よりも深いところに届きます。あなたは、なぜ今の奉仕をしているのでしょうか。「もちろんキリストのためです」という決まり文句ではなく、正直な答えです。その答えを探すために、Paulはぶどうの木と格子垣(トレリス)のたとえを用い、さらにマタイの福音書28章の大宣教命令へと進みます。
メッセージの流れ
1. 奉仕は教会のスケジュールだけではない
- 奉仕と聞くと、まず教会が組織しているもの、つまり子ども、青年、ホームグループ、音響・技術、賛美、受付を思い浮かべます。
- しかし、キリストに仕える奉仕は、この一覧に収まるものではありません。「私の奉仕は、職場の同僚にキリストを伝えることです」「私の奉仕は、街で出会う貧しい人を助け、食べ物を届け、台所を手伝うことです」という声も増えています。
- 「それも奉仕です。」説教者は、一人ひとりにこの問いを心に留めるよう求めます。自分はどんな奉仕をしているのか、そしてなぜそれをしているのか。
2. ぶどうの木と格子垣
- ローレンス牧師の紹介で、Paulはトニー・ペインとコリン・マーシャルの著書The Trellis and the Vine(格子垣とぶどうの木)に出会いました。格子垣とは、ぶどうの木がよじ登るための骨組みのことです。
- Paulは自宅の写真を見せます。植物が登ってくれることを期待してBunningsで買った、美しい格子垣です。ところが植物が選んだのは壁でした。格子垣は空っぽのままでした。
- ぶどうの木は奉仕の中心です。イエス・キリストの福音を広め、人生が変えられるのを見て、人々が神の力によって成熟していくのを見ること。これが、ぶどうの木を植え、水を注ぐということです。
- けれども、ぶどうの木には支えが必要です。みんなで聖書を学ぶには、最低限、場所と、それを整える人が必要で、ときには部屋の予約も要ります。オンラインで聖書を読む端末を持てない人にみことばを届けるには、聖書が必要で、そのための資金が要ります。こうした運営やリーダーシップが格子垣です。
3. 格子垣が場所を占領するとき
- 十年ほど前、教会は格子垣に偏っていた、とPaulは見ています。リーダーチーム、役員会(オーストラリアでは法律で義務づけられています)、次から次へと続く行事、建物のための募金などです。
- その結果、ぶどうの木の働きがほとんど残っていない教会もあります。みことばは日曜の説教か、週に一度、二週間に一度、月に一度の学びだけになります。さらに悪いことに、みことばの話すらせず、交わりだけが目的になってしまうこともあります。
- すると、ぶどうの木の働きはごく少数の人に集中し、ほかの全員は格子垣を回すのに忙しくなります。「母の日の準備をしなければ、あれもこれも準備しなければ」と。そして、なぜ奉仕をしているのかを見失っていきます。
- さらに悲しいことに、多くの牧師は人々がキリストのもとに来て成長するのを見たいと願っていますが、ぶどうの木の働きのすべてと、格子垣の大部分を同時に担っています。羊の群れを養いながら、次の役員、資金、リーダーを探さなければならないのです。
- 逆に、若い世代は反対の極端に傾きがちだとPaulは感じています。「私はぶどうの木の働きだと思えることだけをしたい。役員会は組織的すぎて、仕事みたいだから嫌だ。」彼のメッセージは特定の世代を責めるものではありません。どちらも大切で、どちらも軽んじてはならないのです。
- なぜ格子垣のほうが楽に見えるのでしょうか。ぶどうの木の働きには時間がかかります。祈り、神に耳を傾け、神について語ることです。
- Paulは二つの問いを投げかけます。母の日の飾りを買うのと、まだ話したことのない隣人にキリストを伝えるのと、どちらを選びますか。将来の建物の床材を決める会議と、意図的に罪を繰り返している兄弟を訪ねて戒める面会と、どちらを選びますか。
- 私たちの多くにとって、格子垣のほうが簡単に思えます。だからこそ、それに没頭するあまり、なぜそれをしているのかを忘れてしまう大きな誘惑があるのです。
4. 大宣教命令は遠くの宣教だけの話ではない
- 1792年、宣教師ウィリアム・ケアリーは、Paulによれば当時のキリスト教世界に革命を起こした書物を出版しました。『異教徒の回心のために手段を用いるキリスト者の義務についての考察』です。彼は今日、近代宣教の父と呼ばれています。
- 当時は、福音を宣べ伝えに行けという命令は最初の使徒たちだけに向けられたものだと考えられていました。ケアリーは、マタイの福音書28章が今日に至るまで、すべてのクリスチャンに当てはまることを示したのです。
- では、大宣教命令は世界宣教だけに限られるのでしょうか。多くの教会はそのようにしか適用しません。「行けないなら、宣教のために献金する」と。Paulはそれが間違いだとは言いませんが、それ以上のものがあると語ります。彼は自分自身にも語りかけていると認めています。長年、彼にとって大宣教命令とは、宣教に出かけることを意味していたからです。
5. 「わたしはいっさいの権威を授けられた」:18節という土台
- 「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイによる福音書28:18-20、口語訳)
- 私たちは19節ばかりに目を向けて、18節がなければ19節はないことを忘れがちです。18節がなければ、「私はイエスに従い、イエスのようになりたい」と答えても、「それはなぜ?」という問いが残ったままです。
- ガリラヤの山で、弟子たちは十字架につけられたイエスを見、そして復活されたイエスを見ました。イエスが「いっさいの権威を授けられた」と言われたとき、彼らの心にはダニエルの幻が響いたかもしれません。人の子が雲に乗って来て、主権と栄光と国を受け、すべての民が彼に仕える。その主権は永遠である、という幻です(ダニエル書7:13-14)。
- 死者をよみがえらせ、病人を癒やし、悪霊を追い出し、水をぶどう酒に変え、罪を赦してこられた彼らのラビは、ご自分が預言された人の子であり、神の子であり、本質的に神であることを悟らせてくださいます。
6. 弟子をつくること、すべての奉仕の中心
- 読むと「行け」が中心の言葉のように見えます。しかしギリシア語の本文では、中心となる動詞は「弟子をつくりなさい」だ、とPaulは説明します。行くこと、バプテスマを授けること、教えることは三つの分詞で、弟子づくりが行われる手段です。
- バプテスマは、イエス・キリストの権威のもとに入る変化、悔い改めを表します。教えるとは、弟子がラビから学ぶように、イエスがなさることを行うことです。
- 弟子づくりの形はいつも同じではありません。十年前のHope Perthでは、まず「Foundations of Faith」のコースを使った一対一の面会が思い浮かべられていました。しかし、ぶどうの木が育つにつれて、それを支える格子垣も変わらなければなりません。
- 映像チームなら、スライドが間に合うようにするだけではありません。あなたは弟子をつくっています。キーボードなら、ただ正しい音を探すだけではありません。チームの誰かがキリストにあって成長するのを見たいのです。受付での笑顔とあいさつは「格子垣にすぎない」のです。
- リーダーに向けて、Paulは一つの道筋を示します。人々を既存の奉仕に当てはめるのではなく、人々の賜物に応じて奉仕が芽生えるようにするのです。十年から十五年前、教会には盛んなダンスチームがありました。今も踊る人はいますが、再開のために立ち上がる人はいません。「もし私にダンスをしてくれと頼むなら、福音は前に進めません。」
- 彼の若手社会人のグループで、ある姉妹が、公園で出会ったお母さんたちを自宅に招き、子どもたちの誕生日をアニメーターと一緒に祝いたいと願いました。教会とまったく関係のない人たちを迎える大きなパーティーです。「これこそがクリスチャンの奉仕です。」
7. 三つの落とし穴と、一人ひとりへの呼びかけ
- あるクリスチャンは、組織し、行い、行い、また行い続け、神に仕える中心である弟子づくりを忘れてしまいます。
- あるクリスチャンは、あらゆる仕組みを警戒します。「キリスト教の中心は福音を広めることで、私がしたいのはそれだけです。」けれども、使徒パウロでさえ、働きの中に一種の仕組みを持っていました。危険なのは格子垣そのものではなく、そこに固まってしまい、奉仕は必ずこの形で回すものだと思い込むことです。
- さらに、大宣教命令のことをまったく考えない人もいます。「私はキリストを受け入れた。救われた。それで終わり。」もしあなたがそうなら、説教者は祈ること、聖書を読むことを勧めています。キリストを受け入れることは「道の終わりではなく、ほんの始まりにすぎません」。
- 弟子をつくるとは何かを知るには、イエスを見てください。イエスは「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と言われ(マタイによる福音書4:19、口語訳)、弟子たちを訓練し、ご自身を現し、そして彼らを遣わして世の終りまで他の人を弟子にさせました。
- Paulは、弟子づくりについての賛美歌は少ないと認め、「I Have Decided to Follow Jesus」を思い起こしています。弟子づくりは教えることだけではなく、イエスと共にいること、イエスに似ること、イエスがなさったことを行うことを、意図をもって誰かに伝授することだからです。
要点
- 格子垣(仕組み、運営、行事、会計)は役に立ちますが、それはぶどうの木、つまりキリストのもとに来て、キリストにあって成長する人々の人生を支えるために存在します。
- 大宣教命令の中心となる動詞は「弟子をつくりなさい」です。行くこと、バプテスマを授けること、教えることは、その手段です。
- すべては18節にかかっています。イエスがいっさいの権威を授けられたから、私たちは弟子をつくります。イエスがどなたかを抜きにしては、弟子づくりに意味はありません。
- どんな奉仕であっても、その中心は誰かがキリストにあって成長するのを見ることです。それは職場でも、自由な時間でも、家で子どもたちと過ごすときにも当てはまります。
- キリストを受け入れることは道の終わりではなく、「ほんの始まりにすぎません」。
自分への適用
- 今あなたはどんな奉仕をしていますか。そして、正直に言って、なぜそれをしていますか。
- あなたの奉仕で、すべての時間を格子垣に費やしていませんか。それとも、キリストにあって成長するよう具体的に助けている人がいますか。
- 隣人にキリストを伝えることと、実務的な作業をこなすことのどちらを、より多く選んでいますか。
- 神はあなた、またはグループの誰かに、既存の枠の外で奉仕となりうるどんな賜物を与えておられますか。
- 「行い、行い、また行い」続けて、疲れや渇きを感じていませんか。王の王に仕える喜びと特権を取り戻すには、何が必要でしょうか。
引用した聖書箇所
よくある質問
キリスト教の奉仕において、ぶどうの木と格子垣は何を表していますか。
ぶどうの木とは、福音を広め、変えられた人生が成熟へと成長するのを見ることです。格子垣とは、それを支える仕組み、つまり場所、会計、運営、役員会、行事のことです。どちらも必要ですが、格子垣はぶどうの木のために存在します。
マタイの福音書28章の大宣教命令の中心となる動詞は何ですか。
説教者によれば、ギリシア語の本文で中心となる動詞は「行きなさい」ではなく「弟子をつくりなさい」です。行くこと、バプテスマを授けること、教えることは三つの分詞で、弟子づくりが行われる手段です。そしてすべては18節にかかっています。天においても地においても、いっさいの権威がイエスに授けられたのです。
技術チームや受付で奉仕しているとき、どのように弟子をつくれますか。
Paulは、目に見える奉仕は格子垣にすぎないと答えます。映像チームなら、スライドが間に合うようにするだけではありません。キーボードなら、正しい音を探すだけではありません。受付なら、笑顔だけで満足するわけではありません。どの奉仕でも、目標は誰かがキリストにあって成長し続けるのを見ることです。