はじめに
新しい年の始まりには、白紙のページが開かれた本の絵とともに、こんな言葉がよく出回ります。「明日は、あなたが主人公である365ページの本の、最初の白紙のページです。忘れられない物語を書きましょう」。美しい考えですが、これは間違っています。あなたの新しい年は、白紙のページから始まるわけではありません。もし疑うなら、ビザやマスターカードがすぐにそれを思い出させてくれるでしょう。
わたしたちは変化を、刷新を、これまでとは違うものを求めます。しかし、こう言った人がいます。「愚かさとは、同じ決断を繰り返しながら、違う結果を期待することだ」。では、今年あなたの人生に本当の変化をもたらすには、どうすればよいのでしょうか。「主よ、わたしはここにいます」というメッセージの中で、ダニエル・デカリーは出エジプト記3章を開き、モーセが燃える柴のもとで神と出会った物語から、四つの段階を示してくれます。
モーセは80歳です。40年間、ミディアンの荒野で暮らし、結婚して子どももいて、義父イテロの羊飼いをしています。かつてエジプトの王子であった面影はもう何も残っていません。しかしまさにその、ありふれた日常の中で、神はモーセに出会ってくださるのです。
メッセージの構成
1. 神の臨在の中で立ち止まる
モーセは羊の群れを荒野の奥へと導き、神の山ホレブにたどり着きます。主の使いが、燃えても燃え尽きない柴の真ん中の炎の中で彼に現れます。この細部は重要です。荒野では、あの焼けつくような太陽のもとで、柴が自然発火することは珍しくありません。火はすぐに消え、あとには何も残りません。40年の間に、モーセは柴が燃えるのを何度も見てきました。しかしこの柴は燃え尽きません。そこでモーセは近づいてみようと道をそれます。
あなたが気づかないうちに、神は日々の日常の中で何度行動しておられるでしょうか。わたしたちはあまりにも忙しく、あまりにも思い煩っていて、身の回りにある神の臨在の現れを見逃してしまいます。多くの場合、わたしたちに見えているのは小さな画面だけです。ダニエルは、ディズニーワールドで、目をスマートフォンに釘付けにした十代の子どもたちを見たことを語ります。あなたは想像上の世界の中にいます。ただ顔を上げるだけでいいのです。親たちはそこで体験させるために大変な代償を払ったのに、子どもたちは自分の画面を見ているのです。
わたしたちは教会に来て、良い交わりのひとときを過ごし、友人たちに再会できて楽しく、そして本当に大切な問いから完全に逸れたまま帰っていきます。神はここにおられただろうか。神はわたしに何かを語りたかったのだろうか。わたしは「わたしはここにいます」という姿勢でいただろうか、と。ヨブ記33章はこう語ります。「神はある方法で、あるいは別の方法で語られるが、それに人は気づかない」。
ダニエルは、食料バスケットを届けた後、クリスマスの夜に家に帰る途中の出来事を思い出します。村の出口で、踏切の遮断機が下ります。三両の機関車を連ねた列車がやってきます。次々と通り過ぎ、緊張が高まります。すると突然、列車が止まり、後退し始めます。小さな車の中でひとり、AM/FMラジオがクリスマスの賛美歌を流す中、彼はなぜこれをすべて行っているのかを思い出す時間を得ました。イエスの誕生です。そして彼は神の臨在を感じました。それは燃え尽きない柴ではなく、通り過ぎない列車でした。しかし神はそこにおられたのです。
モーセが近づくと、神は彼を見て、その名を呼ばれます。あなたが神に向かって一歩を踏み出すとき、神はそれをご覧になっています。
2. 神の赦しを受け入れる
神はモーセに言われます。「ここに近づいてはならない。足からサンダルを脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる地だからだ」。そしてこう続けます。「わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れて、顔を隠します。
モーセは、ずっと前から自分の心の中に置かれていたものから逃げようとしていました。彼は自分の過ち、失敗、40年前にエジプトから逃げ出す原因となったあの罪を、ずっと背負っていたのです。彼はまだ、後に自分自身が出エジプト記34章に書き記すことになる言葉を発見していませんでした。「主、主、憐れみ深く、恵み深い神、怒るに遅く、恵みとまことに富み、幾千代にも及ぶ慈しみを保ち、不義と背きと罪を赦す方」。
神は恵みの神です。神は、わたしたちが自分自身を赦すよりも早く、わたしたちを赦してくださいます。アブラハム、イサク、ヤコブという名前を読むと、わたしたちは信仰の英雄たちを思い浮かべます。しかし彼らの人生をよく見てみると、彼らは非常に不完全な人物たちでした。それでも神は彼らを赦し、用いられました。まるで神がモーセにこう言われているかのようです。「わたしは不完全な者たちの神である。わたしはあなたの過ちを知っている。しかしわたしの恵みはもっと大きい」と。
サンダルを脱ぐことは、ひとつの象徴です。まず、サンダルはあなたが何者であるかを語ります。羊飼いは羊飼いのサンダルを履いています。神は、人々の前であなたを定義しているものを脱ぐようにと求めておられます。もしあなたが看護師なら、看護師の小さな靴を脱ぎなさい。会計士なら、その小さな靴を脱ぎなさい。家に急いで帰る母親なら、スリッパを脱ぎなさい。名前の前につく肩書きも、後につく肩書きも、学位も、称号も脱ぎなさい。ただのあなた自身でありなさい。
サンダルはまた、死んだ動物の皮からできています。これは、あなたを神から引き離す罪の象徴です。サンダルを脱ぐことは、告白の行為なのです。ヨハネの手紙一1章9節はこう明確に語っています。「もしわたしたちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方であるから、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださる」。へりくだって神の前に出なさい。あなたが持っているただひとつのものは、十字架におけるイエスのみわざなのです。
3. 恐れを認める
モーセは神に答えます。「わたしは何者でしょうか。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出すとは」。恐れが感じられます。神は、80歳の年老いた羊飼い、人脈もなく、財力もなく、名声もない人物に、いったい何をなさろうというのでしょうか。しかも何より、エジプトは彼の失敗の場所です。そこで彼は、エジプト人を殺して逃げ出すという失敗をしたのです。
別の時代の偉大な伝道者、D・L・ムーディーは、モーセの人生をこうまとめています。「最初の40年間は『わたしに何ができるだろうか』。次の40年間は『わたしには何もできない』。最後の40年間は『神に何がおできになるだろうか』」。
ダニエルは、牧師としての辞表を書いていたある朝のことを語ります。前日、彼は指導者会議で感情を爆発させてしまいました。彼はこう思っていました。「主よ、あなたは間違えられました。わたしは牧師にはなれません。気性が激しすぎます。わたしは緑の牧場で穏やかな牧者というより、耳を切り落とすペトロのほうに似ています」。すると彼は、神がこう言われるのを感じました。「ダニエルよ、あなたが完全であることによってクリスチャンであることを示すのではない。あなたが自分の不完全さをどう扱うかによって示すのだ」と。彼はその晩のうちに委員会に電話をかけ、赦しを求めました。ひとりのメンバーは、笑い転げながらこう答えました。「よう、人間の仲間へようこそ」。
ネルソン・マンデラはこう書いています。「わたしは学んだ。勇気とは恐れがないことではなく、恐れに打ち勝つことなのだと。勇敢な人とは恐れを感じない人ではなく、恐れを克服した人のことである」。どうすれば恐れに打ち勝てるのでしょうか。それは、神があなたと共におられるという確信によってです。あなたはひとりではありません。
4. 神の約束の中を進む
神はモーセに答えられます。「わたしはあなたと共にいる。そして、これがわたしがあなたを遣わすというしるしとなる。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。
神が言われなかったことに注目してください。「行きなさい、ひとりで民を解放しなさい。わたしはここであなたを待っている」とは言われませんでした。そうではなく、「わたしはあなたと共にいる」なのです。神はモーセに、ひとりでイスラエルを解放するように求めているのではありません。神の御手の中で用いられる器となるように求めておられるのです。神は、人の目に映るものを見ておられるのではありません。サムエル記上16章7節にこうあります。「人は目に映るものを見るが、主は心を見られる」。
ここで問われているのは神の民であり、神の評判であって、モーセの評判ではありません。そしてこれは、あなたにとっても同じことです。それはあなたの教会ではなく、神の教会です。それはあなたの御国でも、あなたの救いでも、あなたの評判でもありません。それは神のものなのです。神は、あなたの周りにいる苦しんでいる人々の叫びを聞いておられます。彼らは、生ける人格的な神がいることを知らないまま、宇宙に向かって語りかけています。神は、あなたに与えられた賜物と才能と人格を用いて、あなたが器となることを求めておられます。
ダニエルはさらにこう語ります。若い頃、彼はマギル大学で心理学を1年半学びました。図書館よりもバーのほうに詳しいくらいでした。ある日、彼はパーティーの後、神経心理学の中間試験を落としてしまいます。教授は、期末試験の成績を100パーセントとして数えることを認めてくれます。しかしダニエルは同じ調子を続けます。学部の廊下に成績順に張り出された結果は、こうでした。ダニエル・デカリー、7パーセント。何年も後、回心して牧師となった彼は、大学に戻る必要が出てきます。そして大学が求めるのは何でしょうか。成績証明書です。
時に神は、あなたを失敗した場所へと連れ戻します。回復させるために、修復するために、そしてご自分の計画を成し遂げるために。なぜなら、神は不完全な者たちの神だからです。
心に留めておきたいこと
- あなたの新しい年は白紙のページから始まるのではありません。本当の変化には、決意ではなく神との出会いが必要です。
- 神の臨在の中で立ち止まるとは、神がすでにあなたの周りでなさっていることに気づけるほど長く、日常から抜け出すことです。
- サンダルを脱ぐこととは、人間的にあなたを定義するもの(肩書き、学位、実績)を手放し、あなたを神から引き離しているものを告白することです。
- 恐れは、しばしば神が働こうとしておられるまさにその場所を示します。人間的に不可能なところにこそ、神の入る余地があるのです。
- 神はあなたにひとりで行動するようには求めておられません。神は、ご自分の評判のため、あなたの評判のためではなく、あなたを御手の中の器となるように求めておられます。
あなたへの適用
- 最近数週間、あなたの日常のどこで、神の臨在の現れに気づかず通り過ぎてしまいましたか。
- あなたが神の前で身につけている「サンダル」とは何ですか。神の前で自分の立場を正当化するために用いている肩書き、成功、アイデンティティは何でしょうか。
- 今日、神の赦しを具体的に受け入れるために、告白する必要のある罪は何ですか。
- 今年、神があなたに求めておられる一歩を踏み出すのを妨げている恐れは何ですか。
- あなたの過去に、失敗した場所がありますか。神はあなたに、ひとりでではなく、神と共にそこへ戻るようにと求めておられるでしょうか。
引用された聖句
- 出エジプト記3章1節から12節・モーセと燃える柴
- 使徒言行録7章22節から29節・エジプト人のあらゆる知恵を教え込まれたモーセ
- ヨブ記33章14節・神は語られるが、それに人は気づかない
- 出エジプト記34章6節から7節・主、憐れみ深く恵み深い神
- ヨハネの手紙一1章9節・もしわたしたちが自分の罪を告白するなら
- サムエル記上16章7節・主は心を見られる
- エフェソの信徒への手紙2章8節から9節・あなたがたは恵みによって救われている
よくある質問
なぜ神はモーセにサンダルを脱ぐように求められたのですか。
聖書において、神がそこに現れることで地面は聖なるものとなります。サンダルを脱ぐことは、神の聖さの前でのうやうやしさの表れです。ダニエル・デカリーはそこに、さらに二つの象徴を見出しています。サンダルはモーセの職業と社会的アイデンティティを思い出させるもの(「ただのあなた自身でありなさい」)であり、また死んだ動物の皮でできており、神から人を引き離す罪を象徴しています。したがって、サンダルを脱ぐことは、告白とへりくだりの行為となるのです。
モーセが神に答える「わたしはここにいます」とはどういう意味ですか。
「わたしはここにいます」(ヘブライ語で「ヒネニ」)は、単なる呼びかけへの応答ではありません。それは全面的な備えを表しています。「わたしはここにいます。あなたのご用に応じます」ということです。アブラハムも神に対してこの言葉を用い、モーセもまた同様です。神の前で「わたしはここにいます」という姿勢に立つことは、議論する前にまず聞くこと、すべての詳細を知る前に使命を受け入れることを意味します。
ある召しが本当に神から来ているかどうか、どうすれば分かりますか。
ダニエル・デカリーは印象的な基準を示しています。神が求めておられることを前にして恐れを感じないなら、それはまだ神から本当に聞いていないのかもしれません、と。恐れのある場所こそ、しばしば神が働こうとしておられる場所です。なぜならそこでは、神の資源が必要とされるからです。本物の召しはあなたの手に負えないものであり、あなたを「わたしはあなたと共にいる」という約束へと立ち返らせます。
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