はじめに
その日曜日の朝、キャシー牧師の教会には、招かれた一人の兄弟が来ていました。エヴリー教会の長老、ダニエル牧師です。同じ教会連合(UAPM)に属する仲間の牧師でした。彼がその日携えてきたのは、終わりの時についての講演ではありませんでした。テモテへの第一の手紙から取られた、とてもシンプルな、まるで点滅する警告灯のような、一つの警鐘でした。「御霊は、後の時代になると、ある人々が惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われて、信仰から離れ去るとはっきり言っておられます。」
彼の心に留まったのは、「はっきりと」という小さな副詞でした。御霊が語ると言われる箇所で、この言葉が使われているのは聖書全体でここだけです。これは単なる注意喚起ではありません。まるで警告灯が点滅し、誰かがあなたの前で手を挙げて「聞いてください、これから話すことはあなたの命に関わることです」と言っているようなものなのです。
そして御霊があなたに、情報とお知らせ、頼んでもいないのにスマートフォンを通して入り込んでくる様々な影響で満ちあふれたこの時代を生きるあなたに伝えたいのは、こういうことです。道を外れてしまう本当の危険があり、そしてそれを救う訓練がある、ということです。この教えの良い知らせは、その訓練が決して重荷にはならないということです。それは神への誠実な愛着の道であり、神を中心に据えた人生であり、日ごとに鍛えられていく本物の信仰、まさに鍛錬される体のようなものなのです。
この記事の構成
- 御霊ははっきりと語られる:見逃してはならない合図(1節)
- 危険:神が造られた良いものを拒むこと(2〜3節)
- 神が造られたものはすべて良いもの、感謝して受け取るなら(4〜5節)
- 救う訓練:態度、養い、選別、敬虔(6〜8節)
- 生ける神に置く希望(9〜10節)
1. 御霊ははっきりと語られる:見逃してはならない合図(1節)
ダニエル牧師はテモテへの第一の手紙4章を開き、まずその背景を丁寧に説明しました。この手紙は、パウロが自分の育てた若い弟子テモテに宛てて書いた書簡です。教えを与え、励まし、教会を建て上げるための指針を伝えるためのものでした。テモテは若いですが、神への熱い思いを持ち、すでに積極的に働いています。パウロは彼を愛していました。だからこそ、彼に警告を与えたのです。
「御霊は、後の時代になると、ある人々が惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われて、信仰から離れ去るとはっきり言っておられます。」「はっきりと」という言葉は、御霊が語られる場面において、聖書全体を通してここにしか出てきません。他の箇所では、御霊は強調したり、警告したり、励ましたりします。しかしここでは、御霊はさらに念を押しているのです。まるでスポットライトを当てるかのように。
これには二つの意味があります。まず、パウロがこれから語ることは、彼個人の意見ではないということです。それは御霊が教会に、そしてあなたに与えられたメッセージなのです。次に、これはあなたに警戒を促すメッセージだということです。見過ごしてはいけません。これから読む内容は、命に関わる大切なことに触れています。
2. 危険:神が造られた良いものを拒むこと(2〜3節)
告げられている危険は二重です。まず、信仰から離れ去る人々がいるということです。ダニエル牧師はこう強調します。「イエスを受け入れた人であっても、信仰から離れてしまうことがあり得るのです。誰にも起きてほしくないことですが、これは私たち全員がこの危険と無関係ではないということを意味しています。」それは道路を走るのに似ています。規則を守らなければ、その結果を自分が受けることになります。クリスチャンであっても、しっかりと根を張っていても、注意を怠れば、この危険にさらされてしまうのです。ヘブル人への手紙11章6節は私たちにこう思い起こさせます。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
そしてもう一つ、さらに気づきにくい危険があります。「惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われる」ことです。牧師ははっきりと言いました。「これはサタン、その名は敵対者という意味を持つ者の常套手段です。私たちに嘘をつき、私たちを迷わせ、あるいは単に神が語られることに対して耳を閉ざさせてしまうのです。」
具体的には、この悪霊の教えは、パウロが描く二つの形を取ります。結婚を禁じることと、神が造られた食物を断つよう命じることです。ダニエル牧師は、この二つの例だけにとらわれないようにと促します。パウロがここで描いているのは、より一般的な姿勢です。それは、神が定め、良いものと宣言されたものを拒む態度です。結婚は、神が創世記の初めから制定されたものです。神はアダムとエバを創造し、二人を結び合わせました。結婚を禁じるということは、神が定められたものに逆らうことなのです。そしてこの原理は、神が創造の中に良いものとして置かれたすべてのものに当てはまります。
3. 神が造られたものはすべて良いもの、感謝して受け取るなら(4〜5節)
パウロは続けます。「神が造られたものは、すべて良いものであって、感謝して受けるなら、何一つ捨てるべきものはありません。神のことばと祈りとによって、それはきよめられるのです。」
ダニエル牧師はこの節を長く取り上げました。神があなたのために造られた良いものは、様々なものであり得ます。学業、仕事、家族、共同体、分かち合う食事、教会での楽しいひとときなどです。牧師はその朝ふるまわれた菓子パンや、時々教会で分かち合われる愛餐について触れました。あなたには、こうしたものを喜ぶ権利があります。むしろ、感謝して受け取る務めさえあるのです。
これらのものを聖なるものとするのは、それ自体の性質ではありません。神のことばと祈り、言い換えれば、それを造り与えてくださった方への感謝の心です。もちろん知恵は必要です。聖書はぶどう酒に酔ってはならないと語り、食事は節度をもって取るべきものです。しかしこの箇所が本質的に伝えていることは明らかです。神があなたの人生に置かれた良いものから、あなたを引き離そうとする者たちに耳を傾けてはいけません。それらを受け取り、味わい、感謝しましょう。
4. 救う訓練:態度、養い、選別、敬虔(6〜8節)
ここでダニエル牧師はメッセージの後半部分、救う訓練へと話を進めます。彼はテモテへの第一の手紙4章6〜8節から四つのポイントを引き出しました。
感謝の態度。4節にこうあります。「感謝して受けるなら」と。ダニエル牧師はユーモアを込めてこう挑発します。「私たちフランス人は、正直、不平を言う民族です。私も例外ではありません。文化がどうであれ、感謝の文化を育てることは大切です。特に神に対しての感謝です。」科学者の中には、神を創造主として認めつつも、遠く離れた存在だと考える人がいます。しかし聖書はまったく逆のことを語っています。神はあなたを決して見捨てたりはせず、あなたの人生に働き続けておられます。もし神がなさっていることを見る力を養わなければ、それを見逃してしまうでしょう。それどころか、何もかもが当然のように受け取り、神がどれほど偉大で、力強く、威厳に満ちた方であるかを決して測ることのない、神の子になってしまうかもしれません。
良い養い。6節にはこうあります。「このことを兄弟たちに教えるなら、あなたはイエス・キリストの良い教職者であって、信仰と正しい教えのことばによって養われた者です。」ダニエル牧師は親の例を挙げます。子どもを正しく養うのは容易なことではありません。お菓子やポテトチップス、加工肉は勝手に食が進みますが、それでは体は養われません。バランスの取れた食事を用意するには、努力が必要です。あなたの魂も同じです。SNSや通知、動画を通して絶えず取り込んでいるものは、決して無害ではありません。良い養い、信仰と正しい教えのことばが必要なのです。
俗世の作り話への厳しい選別。7節にはこうあります。「俗悪で愚かな作り話を退けなさい。」牧師はこう説明します。大切なのは、ある訳にあるような「年寄りじみた」という言葉ではなく、「俗世の作り話」だということです。根拠のない、あるいは単なる嘘であるようなことが、あなたの頭の中にどれほど残っていますか。その中には、育った環境から受け継いだものもあるでしょう。大人になるということは、誇張されたもの、間違っていたもの、ずれていたものを見極め、それを手放すことでもあります。今日、あなたの中を絶えず通り過ぎていく様々な影響の中で、この批判的なまなざしは欠かせません。
日々の敬虔の鍛錬。7節の後半と8節にこうあります。「むしろ敬虔を求めて自分を訓練しなさい。肉体の鍛練は少しは益になりますが、敬虔は今のいのちと後に来るいのちとの約束を持っているので、すべての点で有益です。」
ダニエル牧師は一年前から週に二回走り続けており、ハーフマラソンの準備をしたこともあります。運動の価値をよく知っている人です。しかしパウロはこう言います。運動は少しの益しかない、と。それは有益であるという意味です(だから運動をやめる必要はありません)が、敬虔の益と比べれば、比べものにならないということです。運動はあなたの体に働きかけますが、敬虔はすべて、今の人生と、その先の人生に働きかけるのです。
敬虔、ギリシャ語で「エウセベイア」とは、神への深い敬意、神への誠実な愛着、神のみこころに沿った人生、自分の選択において神を喜ばせようとする姿勢、神を中心に据えて生きること、本物の信仰を育てることです。そしてそれは、運動と同じように実践されるものです。音楽や料理、絵画、彫刻と同じように、定期的な鍛錬なしには進歩できません。むしろ後退してしまいます。
具体的に、牧師は三つの訓練を挙げました。
- 神のことばを読み、思い巡らし、実行に移すこと。聖書研究や礼拝は貴重ですが、自宅でも、自分だけの静かな時間の中でも実践しましょう。
- 絶えず祈ること(テサロニケ人への第一の手紙5章17節)。これには習慣や目安となる時間が必要です。習慣はあなたの敵ではありません。夫婦関係と同じように、信仰においても長く続けていくための支えとなるものです。
- 兄弟姉妹との交わりの中にとどまること。共に忍耐し、互いに愛し合い、互いに心を開くこと。これはキャシー牧師が締めくくりに語ったことでもあります。
ダニエル牧師は自分自身を例に挙げました。「今週、走りに出たくない日がありました。それでも、気が乗らない時でも、天気が悪い時でも、自分に走ることを課すようにしています。良いことに、二回目からのほうが楽になるのです。そうでなければ、毎回が初めての時のようになってしまいます。神のことばも同じです。継続しなければリズムを失い、やる気もなくなり、その間に道を見失い、つまずき、神から離れてしまうことがあるのです。」
5. 生ける神に置く希望(9〜10節)
この箇所は、厳かな宣言で締めくくられます。「これは確かなことばであり、そのまま受け入れるべきものです。私たちは、生ける神、特にすべての人、とりわけ信者の救い主である神に望みを置いているので、労苦し、奮闘しているのです。」
なぜ敬虔を鍛えるのでしょうか。それは何かの項目にチェックを入れるためでも、模範生になるためでも、律法主義のためでもありません。生ける神に希望を置いているからです。この道の先に待っているのは、ある業績ではなく、ある方だからです。そしてその方に、あなたはすでに毎朝、みことばと祈りの中で出会っているのです。
ダニエル牧師は最後に、マタイの福音書11章28〜30節でイエスが語られたたとえで話を結びました。あなたがキリストのくびきを負う日、それはさらなる重荷ではなく、やさしくて軽いくびきであり、あなたに責任と目的、訓練を与え、あなたを前へと進ませてくれるものです。あなたを疲れさせるのは敬虔ではありません。結局あなたを空っぽにするのは、敬虔の欠如なのです。
まとめのポイント
- 「はっきりと」は御霊がめったに使わない言葉です。この言葉が使われる時は、耳を澄まさなければなりません。しっかりと根を張っているあなたであっても、道を外れる危険は現実のものです。
- 敵の戦略は、神が造られた良いものからあなたを引き離すことです。結婚や食物を拒むことは、より大きな姿勢の一つの表れです。それは、神が定められたものに逆らうことです。
- 神が造られたものはすべて良いもの、感謝して受け取ることによって。あなたの感謝は付け足しの心の余裕ではなく、受け取ったものを聖なるものとするものそのものです。
- 敬虔は、体のように鍛えられるものです。感謝の態度、良い養い、俗世の作り話の選別、日々の鍛錬。実践しなければ、後退してしまいます。
- 運動は少しの益しかありませんが、敬虔はすべてに益があります。それは今のいのちと、来るべきいのちの約束を持っています。
- あなたを動かす力は、生ける神に置く希望です。業績ではありません。キリストのくびきはやさしくて軽いのです。
あなた自身への問いかけ
- 今日、あなたの頭の中を最初に満たしているのは何ですか。神のことばですか、それともスマートフォンの通知ですか。今週から変えたいことは何でしょうか。
- あなたは神への感謝の姿勢の中にいますか、それとも何もかもが当然だと思う不平の姿勢の中にいますか。今週、神があなたに与えてくださった具体的な恵みを三つ挙げてみましょう。
- 育った環境や周囲から受け継いだ「俗世の作り話」の中で、今もあなたが抱えていて、神との歩みを妨げているものは何でしょうか。
- 聖書を読む決まった時間、日々の祈り、分かち合いのグループなど、あなたの生活の中に聖なる習慣として根付かせたい具体的な訓練は何でしょうか。
- あなたの希望は本当に生ける神の中にありますか、それとも自分自身の霊的な実績の中にありますか。もしキリストへの完全な信頼があったなら、あなたの信仰の生き方はどう変わるでしょうか。
引用された聖句
- テモテへの第一の手紙4章1〜10節 ・ メッセージの中心テキスト
- ヘブル人への手紙11章6節 ・ 信仰がなければ神に喜ばれることはできない
- 創世記1〜2章 ・ 創造の時に定められた結婚
- テサロニケ人への第一の手紙5章17節 ・ 絶えず祈りなさい
- マタイの福音書11章28〜30節 ・ わたしのくびきはやさしく、わたしの荷は軽い
- マルコの福音書14章22〜25節 ・ 礼拝冒頭で朗読された聖餐の箇所
よくある質問
6月7日の日曜日、誰がメッセージを語りましたか。
語ったのはダニエル牧師で、エヴリー教会の長老であり、キャシー牧師の招きで来られました。彼の教会とパリ13区の教会は、同じ連合、UAPMに属しています。彼は家族(妻のスアさんと子どもたち)と共に来られ、自身の教会ではバプテスマの学び、教育チーム、家庭集会を担当しています。
「御霊ははっきりと言っておられる」とは、具体的にどういう意味ですか。
「はっきりと」という言葉は、御霊が語られる箇所と結びついて使われるのは、聖書全体の中でこの節だけです。他の箇所では、御霊は強調したり、警告したり、励ましたりします。しかしここでは、御霊はスポットライトを当てています。それはあなたに、「これから話すことは命に関わることだから、見過ごさないでください」と伝える点滅する警告灯なのです。
敬虔とは、実は律法主義を装ったものなのでしょうか。
いいえ、違います。敬虔、ギリシャ語で「エウセベイア」とは、神への深い敬意、神への誠実な愛着、神へと向けられた人生のことです。それは項目にチェックを入れることではありません。アスリートが自分の体を鍛え、音楽家が自分の楽器を磨くように、生きた関係を育てることなのです。そしてパウロは、あなたを動かす力は生ける神に置く希望であって、あなた自身の実績ではないと明言しています。
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