神に仕えるために油を注がれる 見えない存在から抜け出し、リバイバルの器となる

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神に仕えるために油を注がれる 見えない存在から抜け出し、リバイバルの器となる

モントリオールのICC(インパクト・センター・クレティエン)教会における、トニー・チバング牧師の説教より。

はじめに

あなたのために開かれている季節があります。神があなたの心を満たすだけで満足し、あなたが日曜日を踊って過ごし、何事もなかったかのように家に帰るだけでは終わらせない季節です。神がご自分の霊をあなたの上に注がれるのは、あなたが仕えるためです。あなたが出て行くためです。あなたが闇の中の光となるためです。

日曜日、ICCモントリオールに招かれたトニー・チバング牧師は、心をかき乱し、そして目を覚まさせるほどの熱意をもってこのメッセージを語りました。あなたは神に仕えるために油を注がれているのです。長椅子を温めるためではありません。肩書きを集めるためでもありません。あなたの地域が滅びゆく中で見えない存在のままでいるためでもありません。あなたが受けている油注ぎには行動が必要であり、その行動は、神があなたの心の中に置こうとしておられる一つの重荷から始まります。

この記事は、この説教の要点をまとめ、それをあなた個人への招きとして受け取ることを提案するものです。

記事の構成

  1. すべては渇きから始まる
  2. 神があなたの心に置かれる重荷
  3. 油注ぎには行動が必要である
  4. 初代教会のように油注ぎを守る
  5. 見えない存在から抜け出し、光となる
  6. 肩書きを手放し、魂の重みを担う

1. すべては渇きから始まる

神があなたに、ご自身の臨在について、御霊について、見出すまで神を探し求めることについて、ますます語りかけてこられるとき、それは偶然ではありません。トニー牧師は率直にこう語ります。それは、神が悪魔の業を打ち砕き、病人を癒やし、捕らわれた人々を解放するために用いる一群の人々を、神が今まさに備えておられるしるしなのです。

この備えは一つのことから始まります。それは渇きです。渇きはあなたに神を探し求めさせます。渇きはあなたを隠れた場所へと押し出します。渇きはあなたに絶えず祈らせます。渇きはあなたに、神から遠ざけるすべてのものを手放させます。渇きがなければ、探し求めることはありません。探し求めることがなければ、出会いはありません。出会いがなければ、重荷はありません。重荷がなければ、行動はありません。行動がなければ、油注ぎは眠ったままです。

ですから出発点は、あなたの肩書きでも、地位でも、教会での在籍年数でもありません。それは神への渇望なのです。

2. 神があなたの心に置かれる重荷

あなたが神を探し求め、そして神と出会うとき、神はあなたの内に何かを置かれます。その何かを、聖書は重荷と呼びます。重荷とは、あなたのストレスや、うまくいかない結婚や、来ない昇進のことではありません。神の重荷とは、神ご自身をかき乱すものであり、それがあなたをもかき乱すようにと、神があなたの心に置かれるものです。

ネヘミヤはその明確な一例です。エルサレムの城壁の状態を知らされたとき、彼は肩をすくめてそのニュースを受け流したりはしませんでした。彼はこう書いています。

「わたしはこれらの言葉を聞いたとき、座り込んで泣き、幾日も嘆き、天の神の前に断食して祈った。」(ネヘミヤ記1章4節)

ダビデもそうでした。全軍がゴリアテの前で震え上がっていたとき、彼を憤らせたのは巨人の大きさではありませんでした。それは、自分の神が侮辱されているという事実でした。「一体、この無割礼のペリシテ人は何者だ。生ける神の陣を嘲るとは。」(サムエル記上17章26節)

トニー牧師は、心に突き刺さる問いを投げかけます。あなたを憤らせるものは何ですか。オタワの通りに溢れる薬物依存者たち、あなたの周りで暴力を受けている女性たち、虐待される少女たち、老人ホームで孤独に過ごす高齢者たち、あなたの教会の若者たちが陥っている不品行、それはあなたの心を動かしますか。それとも、あなたの日曜日の祈りは、自分の昇進と自分の結婚のことだけに限られていますか。

神の重荷があなたの内になければ、たとえ十回按手を受けたとしても、あなたは座ったままでしょう。

3. 油注ぎには行動が必要である

トニー牧師が繰り返し強調するのはこのことです。油注ぎには行動が必要である。使徒言行録10章38節は、イエスご自身についてこう語っています。

「神が聖霊と力によってナザレのイエスに油を注がれたので、この方は方々を巡り歩いて良いことをなさり、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒やされた。」(使徒言行録10章38節)

注目してください。イエスは「巡り歩いて」おられます。油注ぎはイエスを座らせませんでした。それはイエスを動かしました。イエスは、失われたものを捜して救うために来られ(ルカによる福音書19章10節)、悪魔の業を打ち砕くために来られました(ヨハネの手紙一3章8節)。

もしあなたが油注ぎを受けても、震え、倒れ、また立ち上がることを繰り返すだけで、あなたの通り、あなたの地域、あなたの家族に何も起こらないなら、何かがうまく機能していません。センセーショナルなことだけでは十分ではありません。大切なのは、あなたがどこかに現れたときに、捕らわれた人々、目の見えない人々、疲れ果てた女性たち、傷ついた男性たちが受け取るものです。

悪魔は、たった一つの言葉しか理解しません。それは力の言葉です。悪魔は執拗で、鋭く、殺すことに執念を燃やしています(ヨハネによる福音書10章10節)。あなたが植えられている場所で、御霊の力をもって悪魔に応えなければなりません。

4. 初代教会のように油注ぎを守る

この説教の核心は、使徒言行録4章23-31節にあります。ペトロとヨハネは、神殿の門で足の不自由な人を癒やしたばかりです。二人は投獄され、脅され、黙らせようとされます。釈放された後、あなたは彼らが家に帰って休むところを想像するかもしれません。しかし違います。彼らは仲間のところに戻り、祈ります。しかしその祈りに耳を傾けてください。

「主よ、今、彼らの脅しに目を留め、僕たちが大胆に御言葉を語れるようにしてください。あなたの手を伸ばして、あなたの聖なる僕イエスの名によって、癒やしとしるしと不思議な業が行われるようにしてください。」(使徒言行録4章29-30節)

彼らは「主よ、私たちの命を守り、結婚をうまくいかせ、昇進を与えてください」とは祈っていません。彼らは、御言葉が力をもって語られ続けること、癒やしが続くこと、イエスの御名が高められることのために祈っています。神の重荷は、彼ら自身の利益よりも大きいのです。

その結果はこうでした。「祈り終わると、彼らが集まっていた場所が揺れ動き、皆が聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語り出した。」(使徒言行録4章31節)油注ぎは弱まりませんでした。それはむしろ増し加わったのです。

これこそ、初代教会が理解していた秘訣です。私たちを個人的にかき乱すものではなく、神をかき乱すものに集中し続けることによって、油注ぎは守られるのです。使徒言行録の中で、彼らは決して後退しません。小さなことから、より大きな力ある業へと進み続けるのです。

5. 見えない存在から抜け出し、光となる

他の光の中に置かれた光は際立ちません。それは闇の中に置かれてこそ、その意味を持ちます。だからこそ神は、あなたを今いる場所に置かれたのです。あなたの複雑な地域に、あなたの張り詰めたオフィスに、あなたの難しい家族の中に、モントリオールやオタワのような都市の中に。そこに隠れるためではなく、そこで輝くためです。

トニー牧師は、オタワの通りに薬物依存者たちが溢れている様子を伝えるある報道番組を見たときの体験を語ります。彼の内に聖なる怒りが湧き上がりました。「主よ、あなたがわたしたちをここに置かれたのは、この通りがこのままであってよいためではないはずです。」この重荷から、一つの決断が生まれました。それは出て行くということです。毎晩、毎週土曜日、通りへ出て行くこと。キャンパスへ出て行くこと。老人ホームへ出て行くこと。それは、インパクト・ジュニアの子どもたちがピアニストとともに高齢者の前で歌いに行き、涙で頬を濡らした顔を残して帰ってきた、あの出来事のようにです。

踊るだけの閉じこもった教会の時代は終わりました。神はプロのダンサーを必要としてはおられません。神が必要としておられるのは、外に出て行く力強い器です。

6. 肩書きを手放し、魂の重みを担う

このメッセージの中でもっとも鋭い箇所の一つは、自分の役職の後ろに隠れる人々に向けられています。「わたしは責任者だから……わたしは画面の裏方だから……わたしは広報担当だから。」トニー牧師は懇願します。あなたの肩書きを手放しなさい。音楽奉仕者たちは通りへ行きます。責任者たちも通りへ行きます。誰もが通りへ行きます。なぜなら、勝ち取るべき魂があり、解放すべき捕らわれ人がおり、誰一人として免除されてはいないからです。

イエスはこう言われます。

「疲れた者、重荷を負う者は、皆わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしの軛を負い、わたしから学びなさい……」(マタイによる福音書11章28-29節)

ここにパラドックスがあります。あなたが神の重荷を担うとき、あなたは自分自身の重荷から解放されるのです。すべてを神に差し出す用意がある人に、神もまたすべてを与える用意をしておられます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイによる福音書6章33節)

覚えておきたいポイント

  • あなたが受ける油注ぎは飾りではありません。それはあなたを動かすためのものです。
  • すべては渇きから始まります。渇きなくして、探し求めることも、出会いも、重荷もありません。
  • 神の重荷とは、神をかき乱すものであり、今やあなたをもかき乱すべきものです。
  • あなたの安楽を守るのではなく、油注ぎを守りなさい。使徒言行録4章の初代教会がそうしたように。
  • あなたの居場所は見えないままでいることではありません。あなたの光は、あなたの領域の闇を照らすためにあります。

実践のための問いかけ

  1. 今日、あなたが担っている最も大きな重荷は何ですか。あなた自身のもの(結婚、仕事、財政)ですか、それとも神のもの(失われた人々、捕らわれ人、あなたの周りで傷ついている人々)ですか。
  2. もしあなたが神の目であなたの町を見たら、何があなたを憤らせるでしょうか。具体的な状況を一つ挙げてください。
  3. あなたが福音を知らない誰かに、物理的に出向いてイエスのことを語ったのは最後にいつですか。
  4. 「現場に下りて行く」ことを避けるための言い訳として使っている肩書きや役職、レッテルはありませんか。それを手放す準備はできていますか。
  5. 今週、あなたの油注ぎが行動に変わるために踏み出せる具体的な一歩は何ですか(奉仕、訪問、通りでの祈り、孤立している人との接触など)。

引用された聖句

よくある質問

このメッセージにおける「油注ぎ」とは何ですか。

それは、信仰者の人生の上に注がれる聖霊の覆いであり、神に効果的に仕える力を与えるものです。トニー牧師は、私たちの内にある聖霊(慰め主)と、私たちの上にある聖霊(行動のための油注ぎ)を区別しています。

神が私の心に重荷を置かれたかどうかは、どうすれば分かりますか。

重荷は次のようにして分かります。それはあなたを平穏なままにはしておきません。ネヘミヤが城壁の前でそうしたように、ダビデがゴリアテの前でそうしたように、使徒たちが脅しの後にそうしたように、それはあなたに祈らせ、断食させ、とりなさせ、時には神が見ておられることのために涙を流させます。

誰もが「通りに出て行く」べきなのですか。

トニー牧師は、唯一の道が街頭伝道であるとは言っていません。彼が糾弾しているのは、肩書きや役職を、何もしないための言い訳として用いることです。具体的な形は一人ひとりの召しによって異なります。老人ホーム、キャンパス、地域、職場など、大切なのは、あなたの油注ぎが、神があなたを植えられたその場所で行動に変わることです。

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