はじめに
「みんな天国に行ける。祝福されていても、呪われていても」。ミシェル・ポルナレフのこの歌は、何世代もの心に残りました。かっこよく、寛容で、心を落ち着かせるように聞こえます。罰もなく、入場の条件もなく、急いで決めなければならないこともありません。ルカ13章に登場する男性が抱いていたのも、同じ直感でした。彼はイエス様にこう尋ねます。「主よ、救われる者は少ないのですか」(ルカ13:23)。イエス様はお答えになりますが、私たちが予想する形とは違います。統計を示すのではなく、一つのイメージを示してくださいます。門です。ただ一つの、狭い門。そして、いつかそれは閉じられます。
ルカ13章22〜35節のこの箇所で、イエス様は理論的な問いをそのまま受け取らず、個人的な問いへと差し戻されます。もう「何人が救われるのか」ではなく、「あなたは今、入ろうとしているのか」という問いです。この記事は、パリのサン・ラザール教会である日曜日に語られた説教を基にしています。説教者が礼拝の中で招いているように、ぜひルカ13章を開いて読みながら進めてください。あなたを導くのは説教者の声ではなく、主ご自身のみことばだからです。
メッセージの流れ
1.「みんな天国に行ける」は決して当たり前ではない(23〜30節)
- 23節の男性の問いは、決して中立的なものではありません。それは、イエス様が繰り返し悔い改めを呼びかけられた後(ルカ13:3、5)、また、からし種とパン種のたとえ(18〜21節)、つまり神様の御国がこの世の中で小さく目立たない形で存在していることを示すたとえの後に置かれています。
- イエス様は数字でお答えになりません。命令でお答えになります。「努力して狭い門から入りなさい」(24節)。この動詞は、軍事訓練やアスリートの言葉から来ています。「様子を見よう」ではなく、「全力を尽くしなさい」なのです。
- この努力は、恵みに取って代わるものではありません。門が開いているのは、イエス様がそれを開いてくださったからです。ですが、あなたを十万もの方向に引っ張ろうとするこの世の中で、イエス様に結びつき続けるためには、あなた全体をかけた信仰が必要なのです。
- 「みんな天国に行ける」という主張が当たり前ではない理由は三つあります。門はただ一つしかないこと、その門はやがて閉じられること、そしてその門が二つの正反対の現実を分けることです。
2. ただ一つの門、それは狭い(24節)
- イエス様は「狭い門」と言われます。複数ではなく、一つです。他にもいろいろあるカードの中の一枚ではないのです。
- 礼拝の中で、説教者はこんな話をしてくれました。ロンドンにいる自分の娘が、教会に来たヒンドゥー教徒の友人と話していたそうです。その青年はこう考えていました。「僕にはいくつものカードがある。ヒンドゥー教、仏教、そして今はキリスト教も。あるカードが門を開かなくても、別のカードが開くだろう」。娘さんはこう答えました。「門を開くカードはたった一枚しかないの。それがイエス様よ」。
- これは、ルカによる福音書の最初の章から一貫して語られていることです。御使いはマリアにこう告げます。「彼は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。神である主は、彼の父ダビデの王座を彼にお与えになります」(ルカ1:32)。年老いたシメオンは幼子イエス様を腕に抱き、こう宣言します。「私の目が今あなたの救いを見たからです。この救いはあなたがすべての民のために備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光」(ルカ2:30〜32)。
- すべての道が神様に通じているわけではありません。すべての宗教、すべての哲学、たとえ良い意図であっても、それらが神様に導いてくれるわけではありません。これは、イエス様の時代の聴衆にとってすでに衝撃的なことでしたが、相対主義が広がったポストキリスト教の西洋にとっては、なおさら衝撃的です。簡単には受け入れがたいことです。だからこそ、イエス様は「努力しなさい」と言われるのです。
3. いつか門は閉じられる(25〜27節)
- 「家の主人が立ち上がって戸を閉めてしまってから、あなたがたが外に立って戸をたたき始め……そこであなたがたに言うでしょう。あなたがたがどこの者か、わたしは知らない」(25節)。
- 説教者は、とても具体的なイメージを使います。パリで自分がいくつかのドアを開けるために使っている磁気カードです。このカードは、コンピューターが定めた時間帯にしか使えません。その時間帯の前は、いくら開けようとしても開きません。時間帯を過ぎても閉まります。入るための時があり、その時が過ぎてしまえば、もう遅いのです。
- この警告は、まさに前もって私たちに知らせるためになされています。イエス様は、あなたを打ちのめすためにこの門が閉じることを告げておられるのではなく、あなたが間に合ううちに決断できるようにするためです。
- このみことばがさらに重くなるのは、イエス様がユダヤ人、つまり神様に愛された民に向かって語っておられるからです。イエス様が歩まれる姿を見て、教えを聞き、奇跡を目にした人々です。それでもなお、多くの者がイエス様を拒みました。多くの者が「彼を十字架につけろ」と叫びました。
4. イエス様のそばにいるだけでは十分ではない(26〜27節)
- 「私たちはあなたの前で食べたり飲んだりしましたし、あなたは私たちの通りで教えられました」(26節)。答え。「あなたがたがどこの者か、わたしは知らない。不義を行う者たちよ、みな私から離れて行け」(27節)。
- 説教者は、これを私たち西洋の現状に重ねます。今の私たちならこう言うかもしれません。「田舎の交差点にはどこにも十字架があった。それぞれの村に教会があった。礼拝やミサに行ったことがある。イエス様について少しは知っている。風景の一部だった」。それでは十分ではないのです。
- 近くであれ遠くであれ、イエス様のそばにいるだけでは十分ではありません。イエス様について知識を持つだけでも十分ではありません。宗教的な習慣を持つだけでも十分ではありません。それが神様の選ばれた民にさえ十分でなかったなら、あなたの友人や周りの人々、そしてあなた自身にとってはなおさらのことです。
- ルカの言葉づかいでは、これはイエス様を迎え入れることを意味します。マリアがイエス様の足もとに座って耳を傾けたように。イエス様が遣わされた弟子たちに、「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾けるのです」(ルカ10:16)と言われたように。イエス様を迎え入れるとは、救い主として信頼を置くことです。今日、信仰によってイエス様を迎え入れることで、明日、イエス様があなたを栄光の中に迎え入れてくださるのです。
5. 相反する二つの行き先(28〜30節)
- 「あなたがたがアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてすべての預言者たちが神の国にいるのを見ながら、自分たちは外に投げ出されるのを見るとき、そこには泣き叫んで歯ぎしりすることになります」(28節)。
- 「そして、東から西から、また北から南から人々が来て、神の国で食卓に着きます」(29節)。これは約束です。この意味において、どこから来た人であっても、ただ一つの門であるイエス様に信頼を置くなら、みんな天国に行けるのです。
- あなたを救うのは、あなたの経歴ではありません。あなたのアイデンティティでも、業績でも、出身でも、宗教でもありません。救うのは、アイデンティティや至らなさがどうであれ、アブラハム、イサク、ヤコブがそうしたように、イエス様に信頼を置く者たちの信仰、それだけなのです。
- この約束は計り知れないほど大きなものです。神様はアブラハムにこう言われます。「さあ、天を見上げて星を数えてみよ。数えることができるなら……あなたの子孫はそのようになる」(創世記15:5)。そして、聖書の反対側の端で、ヨハネの黙示録がこれに応えます。御座の周りには、あらゆる国民、部族、民族、言語から出た、誰にも数えられないほどの大群衆がいるのです(黙示録7:9)。
- 30節。「見よ、最後の者で最初になる者があり、最初の者で最後になる者がある」。最後の者とは、自分を救うのは自分の経歴ではなく、イエス様だけであることを知っている人々のことです。
6. 雌鶏がひなを守るような優しさで、イエス様はあなたを招かれる(31〜35節)
- パリサイ人たちは、すでにイエス様の死を望んでいます。イエス様を排除しようとしているのです。イエス様は二つのことをお答えになります。
- まず、ご自分の受難を告げられます。「今日も明日もその次の日も、私は進んで行かなければなりません。預言者がエルサレム以外の場所で死ぬことはあり得ないからです」(33節)。イエス様は、ご自分を拒むこの人類のただ中で死ぬために来てくださいました。それは、イエス様に信頼を置くすべての人が死ぬことのないためです。
- 次に、ご自分の心を開いてくださいます。「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、遣わされた人々を石打ちにする者よ。雌鶏が翼の下にひなを集めるように、幾たびわたしはあなたの子らを集めようとしたことか。だが、あなたがたはそれを望まなかった」(34節)。これは雌鶏の母の姿です。集め、守り、呼びかけ、また呼びかける神様の優しさです。
- これがエルサレムにとって真実であったなら、パリにとっても真実です。あなたの街、あなたの通りにとっても真実です。あなたの周りの世界がただ一つの門を拒んだとしても、驚かないでください。ですが、これを心に留めてください。イエス様が拒絶に対して、ご自分を拒む人々の赦しのために命を与えることでお答えになったように、あなたも、呼びかけ、呼びかけ続けるために遣わされているのです。親が子どもに「帰っておいで、帰っておいで」と呼びかけるように。
- 私たちは今、イエス様の死と復活によって開かれた恵みの時代の中にいます。門が開かれている限り、招きは続いています。同じルカによる福音書に出てくる、十字架上の強盗のことを思い出してください。彼は、それまで何をしてきた人であっても、ただイエス様に自分を連れて行ってくださいと願っただけでした。そして、イエス様はそれをかなえてくださいました(ルカ23:42〜43)。
心に留めておきたいこと
- 門はただ一つ、狭く、そして開かれています。その門とはイエス様です。相対主義が広がるこの世界では簡単には受け入れがたいことですが、これこそが福音の良い知らせです。
- 「努力しなさい」とは、行いによる救いではありません。これはアスリートの言葉です。あなたをどこか別の場所へ引っ張ろうとするこの世の中で、力の限りイエス様にしっかりとつかまり続けるということです。信仰は、あなたの存在全体をかけるものです。
- 門はやがて閉じられます。イエス様がそれを前もって告げてくださるのは、あなたが間に合ううちに決断できるためです。この問いは理論ではなく、あなた自身への、緊急の問いです。
- イエス様のそばにいるだけでは十分ではありません。宗教的な習慣も、キリスト教的な文化も、イエス様についての知識も、イエス様を救い主として迎え入れる個人的な信仰の代わりにはなりません。
- 神様は雌鶏がひなを呼び集めるような優しさで、あなたを招いておられます。私たちは、イエス様の十字架と復活によって開かれた恵みの時代の中にいます。門が開かれている限り、招きはあなたと、あなたの愛するすべての人に向けて続いています。
あなた自身への問いかけ
- 今日のあなたの生活の中で、「イエス様のそばにいる」だけで、「イエス様に結びついている」とは言えないものは何でしょうか。宗教的な習慣と、個人的な信頼との境目はどこにあるでしょうか。
- 信仰の「努力」について、あなたは今どこにいますか。狭い門にとどまらせてくれるどころか、そこから遠ざけようとする声や関係、依存しているものはありませんか。
- もし今日、門が閉じられるとしたら、あなたは穏やかに「主イエスよ、私はあなたのものです」と言えるでしょうか。もしそう言えないなら、何があなたを引き止めているのでしょうか。
- あなたの周りを見渡してください。家族、友人たちを。雌鶏がひなを集めるように、呼びかける声になる備えができていますか。今週、二、三人の具体的な人のために祈ってみましょう。
- 寛容を求めるこの世界の中で、傲慢にも生ぬるくもならずに「ただ一つの門」についてどう語りますか。イエス様が持っておられた優しさと確かさの両方を、神様に求めてみましょう。
引用された聖句
- ルカ 13:22〜35(LSG) ・ 狭い門、イエス様とエルサレム
- ルカ 13:3、5(LSG) ・ 悔い改めへの招き
- ルカ 13:18〜21(LSG) ・ からし種とパン種
- ルカ 1:32(LSG) ・ マリアへの告知
- ルカ 2:30〜32(LSG) ・ シメオンの賛歌
- ルカ 10:16(LSG) ・ あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける
- ルカ 23:42〜43(LSG) ・ 十字架上の強盗
- 創世記 15:5(LSG) ・ 星を数えてみよ
- 黙示録 7:9(LSG) ・ 誰も数えられないほどの群衆
よくある質問
ルカ13章24節の「努力して狭い門から入りなさい」とはどういう意味ですか?
イエス様が使われる言葉は、軍事訓練やアスリートの世界で使われるものです。「変わるように努力してみます」ではなく、「全力を尽くしなさい」という意味です。これは、私たちの行いによって御国に入るということではありません。御国には恵みによって、信仰によってイエス様に結びつくことで入るのです。ですが、イエス様を拒んだり、その存在を相対化したりする世界の中では、信仰には本物の献身が求められます。どんな声にも惑わされず、たった一つの門であるイエス様にしっかりとつかまり続けることです。
教会に通うだけで救われますか?
いいえ。イエス様は、選ばれた民であるユダヤ人、つまりイエス様の前で食べ飲みし、通りで教えを聞いた人々に語っておられます。それでもイエス様は、「あなたがたがどこの者か、わたしは知らない」と答えられます。通っていた実績を持ち出すだけでは十分ではありません。キリスト教の歴史を持つ国で育ったこと、聖句をいくつか知っていること、風景の一部のように教会にいたこと、それらはイエス様への個人的な信仰の代わりにはなりません。大切なのは、今日、信仰によってイエス様を迎え入れること。それによって、明日、イエス様の栄光の中にあなたを迎え入れてくださるのです。
「みんな天国に行ける」と言う人にどう答えればいいですか?
裁きのない天国、つまりテロリストや拷問者と被害者が区別なく同じ食卓に集まる場所があるとしたら、それは天国ではなく地獄です。福音の良い知らせは、神様の正しい裁きと、ふさわしくない者への赦しの両方を結びつけています。イエス様は、あなたの経歴や過ち、出身や宗教が何であれ、イエス様を信じるすべての人を救うために来てくださいました。門は開かれていますが、それはただ一つであり、やがて閉じられます。優しさと確かさをもってこう答えましょう。そうです、みんな行けます、ただし門は一つ、イエス様だけです、と。
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