はじめに
私たちは、ある一年の終わりを間近に控えています。振り返りの時です。計画していたこと、実際にできたこと、喜びや悲しみ。そして同時に、来る年の課題を見つめる時でもあります。新しい仕事、長く待ち望んでいる子ども、長引く病、重くのしかかる独身の期間、まだ探し続けている信仰。あなたはこの期待を、いったい誰に託すのでしょうか。
イスラエルもまた、イエス・キリストが来られるずっと以前に、同じ問いに直面しました。神に選ばれた民は不従順を重ね、偶像に心を向け、その結果、異国の支配下に置かれていました。北王国は捕らえられて連れ去られ、南王国はアッシリアに打ちのめされていました。イスラエルは打ち砕かれ、恐れの重さの下で、まさに希望の危機のただ中にいたのです。それでも、神はご自分の民をお忘れにはなりませんでした。イザヤ書40章から66章には、大きなテーマが流れています。それは慰めです。神は慰め、建て直し、立ち上がらせ、ご自分の約束を改めて語ろうとしておられます。
そしてこの慰めの中心で、神はご自分の民に、今日のあなたにまで届く厳かな招きを語っておられます。神の民よ、主こそがあなたのただ一つの希望である。この招きは、肉によるイスラエルだけに向けられたものではありません。神の新しい民とは、主に望みを置くすべての人のことです(イザヤ40:31)。あなたが主に信頼を置くなら、あなたもその一人です。
なぜ主だけなのでしょうか。主を礼拝すべき理由は数え切れないほどあり、そして、あなたには思い煩う理由が一つもないからです。これが、このメッセージの二つの柱です。
教えの概要
1. 神を礼拝すべき数えきれない理由(イザヤ40:12-26)
私たちの信仰と希望は、永遠の神以外の、ありとあらゆるものに向かいがちです。12節から26節は、神の代わりに世が差し出す四つの選択肢を順に取り上げます。自然、科学、諸国民、偶像です。そのたびごとに、神は他と比べようのない方であることを示されます。
自然。「だれが手のひらで水を量り、手の幅で天を測ったか。……だれが天秤で山を量り、はかりで丘を量ったか」(イザヤ40:12)。自然がそれ自体で存在していると信じるには、実はとても大きな信仰が必要です。エベレストを考えてみてください。標高およそ8キロメートル、人間の尺度からすれば圧倒的です。しかし主は、それを手のひらの中に収めておられます。大海も、海も、酸素も、星々も、すべては主の御手の業です。どんなに複雑な仕組みも、主より上に立つことはありません。
科学。「だれが主の霊を測り、主の助言者としてこれを教えたか。主はだれと相談し、だれが主を諭し、正義の道を教え、知識を授け、悟りの道を知らせたか」(イザヤ40:13-14)。いったいどんな賢い人が、世界の造り方を神に教えたというのでしょうか。太陽と地球の距離を、地球が燃え尽きず、しかも命を保つのに十分な光を受け取れるように、完璧に定めたのは誰でしょうか。何千キロも離れた場所にいる患者を手術したり、地球の裏側に一瞬でメッセージを送ったりできる人間の知性は、いったいどこから来たのでしょうか。その知性は、あらゆる知恵の造り主である神から来ているのです。
諸国民。「見よ、国々は桶の一滴のようなもの、はかりの上のちりのようなもの……国々はすべて主の前では無に等しく、主にとっては空しいもの、取るに足りないものにすぎない」(イザヤ40:15、17)。当時であれば、それはバビロン、アッシリア、エジプト、ローマ、あるいはレバノンの有名な杉の森でした。今日であれば、中国、ロシア、アメリカ、日本かもしれません。人を圧倒し、そこに安心の土台を置きたくなるような力です。けれども、神が一息吹きかければ、それらは消え去ってしまいます。エジプトに残っているのはピラミッドだけ、ローマに残っているのは遺跡だけです。政府や行政、右であれ左であれ政治体制の上に、最終的な礼拝の対象を置くなら、あなたはやがて必ず失望することになります。
偶像。偶像とは、人間が造り出し、それに信仰を結びつけるあらゆる人間的な表現のことです。「あなたがたは神をだれになぞらえ、どんな像と比べようとするのか」(イザヤ40:18)。金も木も、どれほど頑丈な材料であっても、時とともに朽ちていきます。タイのアユタヤにある「ルアン・ポー・トー」という仏像は、高さ19メートル、全身が金で覆われ、1334年に建てられました。人々はこれを「船乗りの守り神」と呼びました。アユタヤは交易の町であり、この像が地域の繁栄を守ってくれると期待されていたのです。しかしこの町は何度も破壊され、像も砕かれては建て直され、やがてアユタヤはバンコクにその地位を奪われました。どれほど腕の立つ職人であっても、永遠の神を表すことはできません。どんな材料も、その資格を持ってはいないのです。
そして21節から26節は、こう締めくくります。「主は地の丸い天蓋の上に座しておられる方……主は天を薄絹のように広げ、住むための天幕のようにこれを張られる」。神はすべてを支配しておられます。あらゆる被造物、あらゆる力は、主の目には無に等しいのです。あなたが主の側にいるなら、恐れるものは何一つありません。
2. あなたには思い煩う理由が一つもない(イザヤ40:27-31)
「ヤコブよ、なぜあなたは言うのか。イスラエルよ、なぜあなたは語るのか。『私の道は主に隠され、私の訴えは私の神に見過ごされている』と」(イザヤ40:27)。神が自然、科学、諸国民、偶像のすべてに勝る方であることをこれほど示された後で、それでもあなたの思いが、主の御臨在を見失わせるようなことがあるでしょうか。
神はご自分の民に、記憶を呼び起こすよう語りかけられます。思い出しなさい、と。「ヤコブ」という名は、あの族長の物語を呼び起こします。難しい性格の持ち主でありながら、神が変え、祝福された人物です。イスラエルは、最初の出エジプトの時にも、すでに神の御業を目の当たりにしていました。神はエジプトの力を打ち砕き、海を二つに分けて、400年以上も奴隷であった民を解放されたのです。あなたの先祖アブラハムに祝福の約束を与え、あなたにこの地を与えてくださった方、それは今も変わらず同じ方です。主は変わっておられません。
「あなたは知らなかったのか。聞いたことがなかったのか。主は永遠の神、地の果てまで造られた方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は極めがたい。疲れた者に力を与え、力のない者に強さを増し加えられる」(イザヤ40:28-29)。時は主を摩耗させることがありません。「あなたの目には、千年も昨日のように過ぎ去り」と詩篇90:4(モーセの作とされる詩篇)にもある通りです。どんな抑圧も、どんな不治の病も、どんな社会的な対立も、主の御手の届かないところにはありません。
そして、ここに約束があります。「若者は疲れ、弱り、青年もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新たな力を得る。鷲のように翼を広げて上ることができる。走っても弱ることなく、歩いても疲れることがない」(イザヤ40:30-31)。あなたの年齢がどうであれ、人生のどの段階にあろうと関係ありません。主に信頼を置くとき、あなたは、力の尽きることのないあの若者たちのようになるのです。
ただし、条件があることに気をつけてください。この力の刷新は、主に望みを置く者のためのものであり、五分五分の信仰の人のためではありません。「神を信じています。でも科学も信じています」「神を信じています。でも自然の力にも頼っています」。そうではなく、ただ主だけに、余すところなく信頼を置く者だけが、力の刷新を経験するのです。
このみことばは、イエス・キリストにおいて完全に成就しました。イエスは死んで、そしてよみがえられました。それは、あなたに新しいいのちを与えるためであり、来るべき世界を見据えながら、すでにここで、今この時から働き始める希望を与えるためです。困難な状況の主導権を神に明け渡すとき、あなたは鷲のようになります。どんな障害も、どんな悪い知らせも、あなたを長く揺るがすことはありません。なぜなら、あなたが力を汲み取る源は、創造主である神と、その御言葉だからです。
覚えておきたいポイント
- 主こそが、あなたのただ一つの希望です。自然も、科学も、諸国民も、偶像も、神の場所に取って代わることはできません。
- 神の新しい民とは、主に望みを置くすべての人のことです(イザヤ40:31)。この招きは、肉によるイスラエルの枠を超えて広がっています。
- あなたの思い煩いは、多くの場合、記憶が抜け落ちていることから来ています。神はヤコブに、すでになされた御業を思い出すよう招き、これからなされることへの信頼を取り戻させようとしておられます。
- 力の刷新は、主に望みを置く者に約束されており、五分五分の信仰には約束されていません。分かち合われた信仰は、鷲の翼を生み出しません。
- この希望は、死んでよみがえられたイエスにおいて、完全な成就を見ます。イエスにあって、どんな年が始まろうとも、あなたの未来は確かなものとされています。
個人的な適用
- 終わろうとしているこの一年を、あなたはどう振り返りますか。具体的に、あなたは希望をどこに置いてきましたか。ある計画、ある人、ある仕組み、それとも何かの偶像でしょうか。
- 今、神以上に頼りたくなっている「代わりの選択肢」(自然、科学、諸国民、現代の偶像)は何でしょうか。
- あなたの人生の中で神がすでになさった、どんな御業が、恐れが込み上げてくるときにあなたの記憶を呼び覚ましてくれるでしょうか。時間を取って書き出してみてください。
- 財政、健康、人間関係、将来の仕事など、何か具体的なことについて、神との間で「五分五分」になっていないでしょうか。神は、その何を、余すところなく明け渡すよう求めておられるでしょうか。
- イザヤ40:30-31を、来る年のあなたの賛歌として心に刻み、疑いを覚えるたびに立ち返る備えができているでしょうか。
引用された聖句
- イザヤ 40:12-31・メッセージの中心となる箇所
- イザヤ 40:1-11・エルサレムに告げられた慰め
- 創世記 12章・アブラハムになされた約束
- 詩篇 2篇・騒ぎ立つ諸国民を主が笑われる
- 詩篇 90:4・千年も御目には昨日のように過ぎ去る
よくある質問
このメッセージの中心はイザヤ40:1-11ですか、それとも40:12-31ですか。
タイトルはイザヤ40章全体を、つまりエルサレムに告げられた慰めを、章全体の枠組みとして扱っています。しかし実際に語られ、掘り下げられている箇所はイザヤ40:12-31です。神を礼拝すべき数えきれない理由(12-26節)と、もう思い煩わなくてよいという招き(27-31節)です。この二つの部分は一つの流れを形作っています。神が比類なき方であるからこそ、あなたは主に信頼を置くことができるのです。
なぜ自然や科学、諸国民が、偶像になり得るものとして取り上げられているのですか。
これらのもの自体が悪いわけではありません。自然に対して責任ある向き合い方をすること、知性を尊ぶこと、政治的な秩序を敬うことは大切です。しかし、神だけがふさわしいはずの究極的な信頼をそれらに与えてしまう時、それらは偶像となります。この箇所は、自然を無視せよと言っているのではなく、そこに究極の希望を置いてはならないと語っているのです。
「主に望みを置く」とは、具体的にどういうことですか。
イザヤ40:31が語っているのは、能動的な希望です。それは、あなたの人生が流れていく間、神が動いてくださるのをただ受け身で待つことではありません。神があなたのただ一つの岩であるという事実に基づいて、宣言し、生き、決断していくことです。それは、神と他の何かの安心とを半分ずつ分け合う信頼ではなく、排他的な信頼です。そして、この排他性にこそ、約束が与えられています。刷新される力、鷲の翼、疲れ知らずの歩みです。
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