見失った羊と銀貨のたとえ:あなたを探しに来られる神

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はじめに

この日曜日、モメンタムで語られたメッセージは、ルカによる福音書15章を開きながら、世界に広がる緊張の重さについて触れることから始まります。戦争、政治の分断、宗教的な対立。人はみな、信じる人も信じない人も、失われた楽園を探し求めているのだと語り手は語ります。そして、すべてを一変させる問いを投げかけます。私たちが神を探している間に、実は神のほうが私たちを探しておられるとしたら、どうでしょうか。

今日の箇所、ルカ15章1〜10節には、二つのとても短いたとえ話が記されています。百匹のうち一匹の羊を見失った羊飼いがその羊を追いかける話、そして十枚のうち一枚の銀貨をなくした女性が家中をひっくり返して探す話です。二つの小さな物語ですが、伝えているメッセージは一つです。イエス様がこの話をされたのは、パリサイ人たちがつぶやいていたからです。聖なるはずの人が、なぜ取税人や罪人と食事をともにするのか。イエス様の答えはシンプルです。あなたが「失われた者」と呼ぶ人々を、神は探しておられる。そして見つけ出されたとき、天では祝宴が開かれるのです。

メッセージのタイトルは「再会の喜び」。構成は二つ。驚くべき出会い(1〜2節)と、あふれる喜び(3〜10節)です。

メッセージの構成

1. 対照的な二つの動き:宗教と関係

本文に入る前に、語り手は一つの背景を示します。宗教とはこう定義できる、と。「存在にまつわる問いを中心に据えた、信念と儀礼的な実践と道徳的価値観の体系」。この定義は、実はすべての人に当てはまるのだと語り手は言います。「自分が自分の神だ」と言う無神論者にも、その人なりの宗教があります。不可知論者も、カトリックも、プロテスタントも、福音派も、みな楽園を探しているのです。

けれども、どの宗教も、その楽園を見つけたとは言えない、と語り手は続けます。なぜでしょうか。それは、そもそも人間が神に背いたからです(創世記3章)。人は自分で善悪を選び取ろうとし、身を隠しました。そして神は、今も響き続けるあの呼びかけを発せられたのです。「あなたは、どこにいるのか。」

ここに、対照的な二つの動きが浮かび上がります。宗教とは、人間が自分の力で神を探し求めることです。 一方、聖書が語るのは、神が人間を探し求めておられるということです。 あなたが神のもとへ上っていくのではなく、神のほうが降りて来てくださるのです。ルカ15章全体が、この土台の上に築かれています。

2. 驚くべき出会い(ルカ15章1〜2節)

「取税人や罪人といわれる者たちがみな、話を聞こうとしてイエスに近づいて来た。すると、パリサイ人たちや律法学者たちは、つぶやいて言った。『この人は罪人たちを受け入れて、いっしょに食事をしている。』」

この場面には三つのグループが登場します。イエス様、取税人と罪人たち、そしてパリサイ人たちです。「みな」という言葉は重みを持っています。一人や二人の取税人が来たのではありません。「みな」が来たのです。当時の取税人とは、ローマに仕えて税を取り立てる人々でした。つまり、いわば裏切り者、同胞であるユダヤの民から搾取して私腹を肥やす者たちです。彼らは「罪人」と同じ枠に分類されていました。ユダヤの律法に従わず、嘘をつき、盗み、放蕩な生活を送る者たちです。

聖なるラビと同じ食卓につくなど、誰も想像しなかったような人々です。それなのに、彼らはイエス様に近づき、耳を傾け、ともに食事をします。語り手はこう強調します。これは衝撃だが、良い意味での衝撃、うれしい驚きなのだ、と。

この驚きを、誰もが喜んだわけではありません。パリサイ人たちはつぶやきます。彼らにしてみれば、イエス様はそのような人々と同席する資格などない。むしろ、知識を持つ自分たち、民を導く牧者である自分たちのそばにいるべきだ、というのです。ここに、働いている宗教の姿があります。それは人を閉じ込め、裁き、心をかたくなにします。その一方で見えてくるのが関係です。イエス様は、誰もが見捨てる人々に手を差し伸べられます。この二節の中で、二つの動きが真っ向からぶつかっているのです。

3. 危険を冒す羊飼い(ルカ15章4〜7節)

パリサイ人たちへの答えとして、イエス様は一つ目のたとえ話をされます。ある人が百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹を見失います。彼は残りの九十九匹を残して、いなくなった一匹を探しに行きます。当時の羊飼いにとって、群れは二の次の財産ではありませんでした。それは彼の富であり、彼の命そのものだったのです。語り手は、カメルーン北部のフラニ族(プル族)を例に挙げます。フラニ族の人にとって、一頭の家畜に触れることは、その人が最も大切にしているものに触れることなのです。

この羊飼いの行動は、神について何かを語っています。神は危険を冒される。荒野へ出て行かれる。あきらめることをなさらない。語り手はこのイメージを、炎の中に飛び込んで人を救う消防士や、人質を解放するために命を懸ける特殊部隊にたとえます。神とはそういう方です。力強く、勇敢で、揺るがない。

そして、そのあとに続くことに注目してください。羊を見つけたとき、羊飼いはそれを引きずるのではなく、喜んで自分の肩に担ぎます。安全を確保するのです。もう誰にもその羊を奪わせません。それから家に帰り、近所の人々を呼び集めて言います。「いっしょに喜んでください。」イエス様はこう結ばれます。「あなたがたに言うが、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためよりも、悔い改める一人の罪人のことで、天に喜びがある。」

4. 心を込めて探す女性(ルカ15章8〜10節)

二つ目のたとえ話は、別の角度から語られます。ある女性が十枚の銀貨を持っていて、そのうちの一枚をなくします。当時、銀貨一枚はおよそ一日分の労賃に相当しました。当時の社会における女性にとって、一日分の給料を失うことは大きな痛手だったのです。

彼女は三つのことをします。明かりをともし家を掃き心を込めて探すのです。語り手は、羊飼いとの対比を強調します。羊飼いのたとえでは、力強さ、走ること、危険を冒すことが見えました。こちらでは、忍耐、優しさ、丁寧な方法が見えます。女性は明かりをつけ、掃除をし、時間をかけます。焦ることはありません。

なぜイエス様は一つではなく、二つのたとえを用いられたのでしょうか。語り手は一つの答えを提示します。それは、失われた者を探し求める同じ神の、二つの側面を明らかにするためです。ある時、神は力強い方法で私たちを探しに来られます。私たちを打ち砕き、試練を通らせ、首根っこをつかんで穴から引き上げてくださるのです。またある時、神は優しい声で語りかけ、私たちが持っているすべては神から来たものだと気づくまで、豊かに恵みを注いでくださいます。力強さと優しさ、それは一つの揺るがない意志の、二つの顔なのです。

そして結果は同じです。銀貨を見つけたとき、女性もまた近所の女性たちを呼び集め、ともに喜びます。イエス様はもう一度こう語られます。「あなたがたに言うが、悔い改める一人の罪人については、神の御使いたちの前に喜びがある。」

5. 天の喜びを引き起こすもの:悔い改め

二つのたとえ話は、ある一つの言葉に収れんしていきます。それは悔い改めです。これこそが、神の喜びを引き起こす条件なのです。では、悔い改めとは本当は何なのでしょうか。

それは「少しだけ、もう少し良い態度で振る舞おう」ということではありません。心と態度の本当の変化です。それは、あなたが知っている最悪の犯罪者たちと同じ範疇に自分が入り得るのだと気づくことです。語り手はヒトラーや、テロリストたちの例を挙げます。神の前では、キリストなしには、あなたもその範疇に入るのです。悔い改めとは、あらゆる言い訳とあらゆる自分なりの宗教を手放し、自分の理屈を何一つ持たずに神のもとに来て、イエス様の前で涙を流し、自分の心と希望を神お一人にはっきりと向け直すことです。

それはまた、自分の人生を神の上に築こうと願うことでもあります。神に耳を傾けること。自分の十字架を負うこと。代価を払うこと。そのとき、天では喜びが爆発するのです。あなたがこれまで地上で味わった最大の喜びを十億倍にしてごらんなさい、と語り手は言います。それが、一人の罪人が父のもとに帰ってきたときに天で起こっていることの、ほんの一端なのです。

6. あふれ出る喜び、決して独り占めされない喜び

羊飼いと女性は、失っていたものを見つけたとき、何をするでしょうか。彼らは自分の家に閉じこもって、一人でお祝いをするわけではありません。外に出て、近所の人を呼び、分かち合うのです。神の喜びは共同体的で、伝わっていくもので、公にされるものです。それは知られたいと望んでいるのです。

語り手はここで、個人的な思い出を語ります。彼が自分の人生をイエス様に献げたとき、ジョルジュという兄弟が彼を祈りの集会に連れて行きました。そこでは、彼の知らない十人ほどの人々が、一時間近くにわたって祈り、神を賛美し始めたのです。それは、何か月も彼の回心のために祈り続けてきた人々でした。その日、彼は「天における喜び」とはどういうことかを理解しました。それは、地上の兄弟姉妹を通して現れる。彼らはあなたのために涙を流し、祈り、あなたが帰って来るときにともに喜んでくれるのです。

この美しい光景の中に、パリサイ人たちのつぶやきが入り込む余地があるでしょうか。傲慢さが入り込む余地は。「自分たちだけがすべてを分かっている」という小さな仲間内の集団が入り込む余地は。ありません。私たちはみな、自分が神にとってどれほどの価値があるかを測り、帰ってくるすべての失われた者を喜ぶよう招かれているのです。

7. 大いなる約束と警告

この箇所の大いなる約束、それは神は必ず、失われた者を見つけ出してくださるということです。神は、それぞれが今どこにいようとも、その人を見つけ出すまで呼びかけることをやめられません。もしあなたがすでに自分の人生をイエス様に献げているなら、あなたはすでに父の喜びの対象なのです。これ以上大切なことはありません。もしあなたの奉仕がうまくいっていなくても、上司があなたを軽んじても、教会があなたを失望させたとしても、覚えていてください。あなたは神の目に価値ある存在です。神があなたについて語られることは、状況が語ることよりも重いのです。

この警告は、「自分には悔い改めなど必要ない」と考えている人々に向けられています。語り手は、すでに落ち着いた信仰生活を送っているプロテスタント、福音派、カトリックのクリスチャンたちに、自分はすべてを分かっていると思っている人々に、こう語りかけます。霊的な眠りに気をつけなさい、と。イエス様との関係は、生き生きとして、大切に育まれ、開かれたものでなければなりません。私たちが神から目をそらすたびに、御言葉に驚かされることをやめてしまうたびに、私たちはこの喜びを見過ごしてしまうのです。

メッセージは、イエス様に倣うようにという呼びかけで締めくくられます。家族の中で、友人の間で、同僚たちの間で、失われた者たちに対して忍耐を身にまといましょう。羊飼いが自分の羊を探しに行くように、女性が自分の家を掃くように、彼らを探しに行きましょう。なぜなら、イエス様はまさにそのために死んでよみがえられたからです。多くの人が救いの喜びを知るために。

覚えておきたいポイント

  1. 二つの動きが対立しています。宗教と関係です。 宗教とは、人間が自分の力で神を探すこと。聖書は、神が失われた人間を降りて来て探してくださることを語ります。
  2. あなたがイエス様の食卓にふさわしくないと裁いている人こそ、神が最初に心を配っておられる相手かもしれません。 取税人と罪人たちは話を聞きに来ました。パリサイ人たちはつぶやいていました。どちらの心が開かれていたか、考えてみてください。
  3. 神は力強さと優しさの両方をもって探し求められます。 荒野の羊飼いのように、あなたを揺さぶられることもあれば、明かりを持つ女性のように、そっと語りかけられることもあります。どちらの顔も、同じ愛から来ているのです。
  4. 天の喜びは、あなたの実績ではなく、あなたの悔い改めによって引き起こされます。 打ち砕かれた心がイエス様のもとに帰るとき、それは必要を感じない九十九人の「正しい人」以上に、御使いたちの前で喜びを爆発させます。
  5. 神の喜びはあふれ出るもので、独り占めされることはありません。 それは語られ、招かれ、近所の人を呼び集めます。帰ってくる失われた人々を喜べない教会は、気づかぬうちにパリサイ人の側に滑り込んでいるのかもしれません。

自分自身への適用

神の前で少し時間を取り、正直にこの問いを自分に向けてみましょう。

  1. 私は神を、成し遂げるべき宗教的なプロジェクトとして探しているのでしょうか。それとも、神に見つけていただくままにしているのでしょうか。今日、私の心はどこにあるでしょうか。神に向いているのか、それとも自分で自分を救おうとすることに忙しいのか。
  2. 日常の中で私が「取税人や罪人」と見なしている人、恵みにふさわしくないと裁いている人は誰でしょうか。イエス様は、その人をどのようにご覧になっているでしょうか。
  3. 私は今もなお、力強い方法(神が通らせようとしておられる試練)によって、あるいは優しい方法(当たり前になってしまっている恵み)によって、神に逆らってはいないでしょうか。神にお返しすべきものは何でしょうか。
  4. 私の悔い改めは、表面的な習慣にすぎないのでしょうか。それとも、言い訳を手放し、何も持たずに神のもとに来る、本当の心の変化なのでしょうか。
  5. 私の教会で誰かがキリストのもとに帰って来るとき、私は本当にそれを喜んでいるでしょうか。それとも、その人が「自分の好むタイプ」のクリスチャンでないからといって、パリサイ人のようにつぶやいてはいないでしょうか。

引用された聖句

  • ルカ 15:1-10 ・失われた羊と失われた銀貨のたとえ話。
  • 創世記 3:9 ・「あなたは、どこにいるのか」:失われた人間への神の最初の呼びかけ。
  • ルカ 14:25-35 ・イエス様の上に人生を築くようにという呼びかけ。ルカ15章の直前の文脈。
  • ヨハネ 14:6 ・イエス様こそ道であり、真理であり、命である。

よくある質問

なぜイエス様は、一つではなく二つのたとえ話(羊と銀貨)を用いられたのですか。

それは、同じ神が探し求める姿の、二つの補い合う側面を明らかにするためです。羊飼いは神の力強さと揺るがない意志を表しています。危険を冒し、荒野を走り、あなたを失われた状態から引き上げてくださるのです。女性は神の忍耐と優しさを表しています。明かりをともし、丁寧に掃除をし、時間をかけて探すのです。人生の場面に応じて、神は力強い方法(試練)によって、あるいは優しい方法(日々の恵み)によって、あなたを探しに来られます。どちらも同じ目的、つまりあなたを見つけ出すために用いられるのです。

なぜ神は、九十九人の正しい人よりも、一人の悔い改めた罪人を「より」喜ばれるのですか。

これは、悔い改めた罪人のほうが忠実な信者よりも価値があると言っているのではありません。イエス様は、失われたものが帰ってきたときの家族の喜びのような、再会に特有の喜びを描いておられます。この箇所での「悔い改めを必要としない九十九人の正しい人」は、何よりもパリサイ人たちを映す鏡です。自分は恵みに何も負っていないと思い込んでいる人々のことです。このメッセージは、すでに落ち着いた信仰生活を送っているすべてのクリスチャンへの警告でもあります。どんな心も、心を動かされないほど忠実ということはなく、どんな信者も、神への回帰がもたらす純粋な喜びを超えたところにはいないのです。

自分が「宗教」の姿勢にいるのか、「関係」の姿勢にいるのか、どうすれば分かりますか。

メッセージが示すシンプルな指標の一つは、他者に対するあなたの心です。宗教は心をかたくなにします。裁き、断罪し、自分と考えの違う人につぶやきます。関係は心を開きます。それは、誰もが見捨てる人々に手を差し伸べられたイエス様の姿に似ています。もう一つの指標は、あなたが神のもとにどのように来るかです。「聖書を読んでいる、礼拝に行っている、祈っている」といった自分の行いに頼って神のもとに来るなら、それは宗教です。何も持たずに、神に見つけていただくままに来るなら、それは関係です。

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