はじめに:見なくても信じる、それでも語る
「私はトマスと同じです。見なければ信じません。」あなたもこの言葉を聞いたことがあるでしょう。食卓や職場、友人同士の会話でよく出てくる言葉です。少し見下したような笑みとともに語られることも多いですね。信仰なんて、証拠を求めない素朴な人たちのためのものだ、という考え方です。私たちはそれ以前のどの世代よりも進んでいて、理性的で、情報を持っている、というわけです。
でも、この言葉はヨハネ20章の中では、21世紀の人間の言葉ではありません。1世紀の人物の言葉なのです。十二使徒の一人、イエス様のそば近くにいて、その生きる姿を見、奇跡を目の当たりにし、十字架での死を見届けた人物の言葉です。見ずに信じることの難しさは、現代人特有のものではなく、人間の心の奥に根ざしたものなのです。私たちはラジオを聞くよりも長く映像を見つめます。耳で聞くことよりも、目で見ることの方に心を動かされます。トマスは私たちに似ています。そして私たちもトマスに似ているのです。
ここで一つの問いが生まれます。もし人間が「見る」ことによって動かされるのだとしたら、なぜ今もなお、誰も目にすることのできないイエス様について語り続ける必要があるのでしょうか。福音を信じ、福音を生きるだけで、静かに済ませてはいけないのでしょうか。ヨハネ20章はこの問いに答えています。神を見ることのできない人類に対して、御父はイエス様を「見る」者にではなく、イエス様を「信じる」すべての者に、いのちを与えてくださいます。そしてそのためには、語られたことば(みことば)が欠かせないのです。
ヨハネ20章の構成:信じ、語り、幸いを受ける三つの段階
1. 見ないでイエス様を信じる(ヨハネ20:1-10)
週の初めの日、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓へと走ります。石が取りのけられているのを見た彼女は、ペテロと、イエス様が愛されたもう一人の弟子、つまりヨハネ自身のところへ走って知らせます。二人の弟子は走り出します。おそらく若かったヨハネの方が先に着きます。彼はかがんで亜麻布を見ますが、中には入りません。続いてペテロが到着し、中に入り、亜麻布と、イエス様の頭に巻かれていた布が別の場所に丸めて置かれているのを見ます。それからヨハネも中に入ります。
そしてここに、とても単純な一言が記されています。「見て、信じた」(ヨハネ20:8)。
心を打たれるのは、彼が「見ていないもの」です。イエス様その方は見ていません。空の墓、亜麻布、隅にたたまれた布だけです。何も劇的なことは起きていません。それでも、彼は信じました。次の節には、これがどれほど驚くべきことかが記されています。弟子たちはまだ、イエス様が死人の中からよみがえるべきであるという聖書の言葉を理解していなかったのです。彼らはすでに旧約聖書が語っていたことに基づいて信じてもよかったはずでした。イザヤ書53章は、850年も前にこう語っています。「彼はそのたましいを罪過のためのいけにえとするなら、その子孫を見、長く生きながらえる。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる」(イザヤ書53:10)。死んだままの者の望みではなく、死からいのちへと移された者の望みです。
ここであなたが心に留めるべき大切なことがあります。およそ1500年の間に、40人ほどの著者によって書かれた66巻から成る聖書の中には、イエス様を見なくても信じ、その方から神が与える赦しのいのちを受け取るために必要なすべてが記されています。現場にいたヨハネでさえ、生きているイエス様を見る前に、みことばに基づいて信じました。これは、みことばだけで十分だということを意味しています。あなたも今日、2000年後の今日、イエス様を一度も見たことがなくても信じることができます。それは劣った信仰ではありません。むしろ、神が求めておられる信仰そのものです。
2. イエス様について語る:イエス様は私たちの慰め(ヨハネ20:11-18)
ペテロとヨハネが家に帰る中、マグダラのマリアは墓の外に残り、泣いていました。彼女がかがんで中を見ると、白い衣を着た二人の御使いがいました。彼らは尋ねます。「女の方、なぜ泣いているのですか」。彼女の答えは胸を締めつけます。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわかりません」(ヨハネ20:13)。
マリアは、主が死ぬのを見ただけではありませんでした。悲しみを注ぐための遺体さえも、奪われてしまったのです。あなたにも、この現実に思い当たるところがあるかもしれません。愛する人の墓の前に立ち、小声で子どもたちの様子や近況を語りかける、そんな時間です。マリアにはそれさえ許されませんでした。神がそこにおられない、応えてくださらない、姿を見せてくださらない、そんな絶望の中に彼女はいたのです。
そして、よみがえられたイエス様が彼女に語られた最初の言葉が来ます。たった一言でした。「マリア」(ヨハネ20:16)。イエス様は彼女の名を呼ばれたのです。彼女は振り返り、その声を認め、こう言いました。「ラボニ!(すなわち、先生)」。これが、神があなたに差し出してくださる最初の慰めです。あなたの涙、疲れ、疑いがどんなものであっても、主はあなたの名を知っておられます。あなたは主のものです。主はあなたの名前を忘れてはおられません。
そして慰めはさらに続きます。イエス様は言われます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る、と」(ヨハネ20:17)。永遠の御子は、イエス様に信頼を置く者たちを「兄弟」と呼んでくださいます。十字架での死のゆえに、あなたは神を、遠い裁判官としてではなく、あなたの父、あなたの神と呼ぶことができるのです。地上にこれ以上の慰めはありません。そして、これはやがて主と顔と顔を合わせて見る日に比べれば、まだほんの一部にすぎません。
3. イエス様について語る:イエス様は私たちの平安(ヨハネ20:19-23)
その同じ日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、戸を閉ざした部屋に閉じこもっていました。イエス様が来られ、彼らの真ん中に立って言われます。「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:19)。イエス様は手とわき腹をお見せになります。弟子たちは喜びました。イエス様は再び言われます。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21)。
「平安があなたがたにあるように。」これは単なる挨拶でも、単なる「シャローム」でもありません。真の平安そのものです。この世界が混乱しているのは、平安がないからです。国と国の間にも、同僚の間にも、夫婦の間にも、家族の間にも平安がありません。私たちが平安を保つことが難しいのは、私たちが神との間に平安を持っていないからです。イエス・キリストが死なれたのは、あなたに神の赦しを差し出し、あなたを神と和解させ、あなたが裁きではなく平安を受け取るためだったのです。
それから、イエス様は弟子たちに息を吹きかけて言われます。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦すなら、その罪は赦されます。だれの罪でも、あなたがたが留めるなら、それは留められます」(ヨハネ20:22-23)。使徒たちに、そしてその後を継ぐ教会に与えられた権威とは、神の平安と赦しを世界中に告げ知らせることです。私たち自身の平安ではなく、神の平安をです。私たちは語り手であって、源ではありません。
4. 見ないで信じる者は幸いである(ヨハネ20:24-31)
トマスはその場にいませんでした。ほかの弟子たちが「私たちは主を見た」と言うと、彼はこう答えます。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘の跡に差し入れ、また私の手をそのわき腹に差し入れてみなければ、決して信じません」(ヨハネ20:25)。これは純粋な不信仰ではありません。確かなものの上に自分の信仰を築きたいという願いなのです。
八日後、イエス様が再び来られます。イエス様は驚くほどの優しさをもって、少しも責めることなくトマスに近づき、こう言われます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)。トマスはただこう答えます。「私の主、私の神よ」。そしてイエス様は、あなたに直接関わる言葉を語られます。「あなたはわたしを見たので信じたのですか。見ないで信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)。
それはあなたのことです。私たちのことです。この幸いの宣言は、2000年後の今、イエス様の傷に触れることなく信じるすべての人のために語られています。あなたの信仰は、見なかったからといって割り引かれるものではありません。それは満ち足りた、幸いな、祝福された信仰なのです。
そしてヨハネは、自分がこの福音書を書いた理由を明かしながら結びます。「イエスは、この書には書かれていないほかの多くのしるしを、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるため、また、信じてイエスの名によっていのちを得るためである」(ヨハネ20:30-31)。ヨハネの福音書全体は、あなたが信じるため、そして信じることによっていのちを得るために書かれているのです。
覚えておきたいポイント
- 見ないで信じることの難しさは、現代特有のものではなく、人間そのものの姿です。 1世紀のトマスも、今日のあなたも、同じ抵抗感を抱いています。それは時代の欠点ではなく、心の現実なのです。
- 信仰は「見ること」からではなく、「みことば」から生まれます。 ヨハネは空の墓を見て信じましたが、それは聖書がすでに復活について語っていたからです。信仰はもっと多くを見ることではなく、みことばを聞くことによって生まれます。
- イエス様はあなたの名を呼んでくださいます。 「マリア」と呼ばれたように、イエス様はあなたの名前とあなたの歩みを知っておられます。すべてが空しく見えるとき、これがあなたにとって最初の慰めです。
- イエス様が与える平安とは、神との平安です。 それは十字架から来て、赦しを通り、あなたの周りに平安をもたらします。
- 見ないで信じる者は幸いです。 イエス様を見ずに信じるあなたの信仰は、決して劣ったものではありません。イエス様ご自身がそれを祝福しておられます。
あなた自身への適用
これらの問いは、ヨハネ20章の言葉が今週あなたの生活の中で働くための助けとなるものです。
- 「私は見なければ信じない」というあなた自身のバージョンは何ですか。神を完全に信頼する前に、あなたはどんなしるしを求めていますか。
- あなたは聖書をどのように読んでいますか。聞くことを通して信仰が育つように、聖書に十分な場所を与えていますか。
- マリアのように「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわかりません」と言いたくなるような涙、失望、不在は何ですか。その混乱のただ中で、イエス様があなたの名を呼んでくださる声を聞く用意はありますか。
- あなたがまだ本当の平安を持てていない相手は誰ですか。イエス様から受け取った平安は、その関係をどのように変え始めることができるでしょうか。
- 今週、誰に対して、印象づけようとせず、劇的なしるしを求めることもなく、ただ受け取ったものを分かち合う形で、イエス様について語ることができるでしょうか。
引用聖句
- ヨハネ 20:1-31 ・ 空の墓、マグダラのマリア、弟子たちとトマスへの顕現
- ヨハネ 20:8 ・ 「見て、信じた」
- ヨハネ 20:16 ・ 「マリア!」、イエス様が名で呼ばれる
- ヨハネ 20:17 ・ 「わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方」
- ヨハネ 20:19-23 ・ 「平安があなたがたにあるように」
- ヨハネ 20:29 ・ 「見ないで信じる者は幸いです」
- ヨハネ 20:30-31 ・ ヨハネの福音書が書かれた目的
- イザヤ書 53:10 ・ 850年前に告げられていた復活
よくある質問
なぜイエス様は復活後すぐに弟子たちの前に姿を現されなかったのですか。
ヨハネ20章を見ると、イエス様が意図的に「臨在と不在」を組み合わせておられることがわかります。最初は姿を見せず、ペテロとヨハネに空の墓と亜麻布を発見させ、その後マリアに、次に弟子たちに、そしてトマスに現れられます。これは意図的なことです。イエス様は最初の証人たちを、見ることではなく、みことばの上に信仰を築くように導こうとされたのです。これは、イエス様の再臨まで肉眼でイエス様を見ることのない、あなたのような人々にとっての模範なのです。
自分の目でイエス様を見たことがないので、私の信仰は劣っているのでしょうか。
いいえ、そうではありません。イエス様ご自身がトマスにこう言われました。「見ないで信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)。この幸いの宣言はあなたのために語られています。聖書の証言に基づく信仰は、満ち足りた、祝福された信仰であり、最初の弟子たちと同じように神のいのちを受け取るものです。
「見なければ信じない」と言う人に、どうやってイエス様について語ればよいのでしょうか。
思い出してください。トマスもまったく同じことを言いました。見ないで信じることの難しさは、現代特有の欠点ではなく、人間そのものの姿なのです。神がこの抵抗感に対して用意された答えは、もっと多くを見せることではなく、みことばを通してご自分の声を聞かせることです。あなたが受け取ったもの、あなたの名を呼んでくださる慰め、十字架から来る平安、差し出された赦しについて、ただ素直に語ってください。あとは、みことばがその働きをしてくれます。
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