「慰めよ、慰めよ、わたしの民を、とあなたがたの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、その苦役の時は終わったと呼びかけよ。」(イザヤ 40:1-2、口語訳)
子どもの頃、クリスマスまであと数日という時期に、あの耐えがたい待ち時間を経験したことはありませんか。毎日同じ質問(「プレゼントはいつ開けるの?」)をして、毎日同じ答え(「まだだよ」)が返ってくる。中にはこう疑い始める子どももいます。プレゼントなんて本当にあるのだろうか。親は本当に何かをくれるのだろうか。今年はあまり良い子ではなかったから、自分にはその資格がないのではないか、と。 歴史の中にも、そうした長い待ち時間を経験した民がいました。数日でも数週間でもなく、70年間です。それがイスラエル、正確にはユダの民です。彼らは自らの反逆のゆえに、バビロン帝国によって捕囚として連れ去られました。その不忠実さのゆえに、神は彼らを裁かれました。神殿は破壊され、ダビデの子孫である王はもはや王ではなくなり、民は自分たちの土地から引き離され、故郷から千キロも離れた場所へ送られました。
彼らは何も持たずにそこへ着きましたが、一つの希望だけはありました。エレミヤの預言、すなわち彼らの捕囚は70年で終わり、その後は故郷に帰れるという約束です。しかし年月が過ぎ、何十年も経っていきます。捕囚の地で生まれ、親たちの故郷を一度も踏んだことのない子どもたちも出てきます。疑いが広がっていきます。バビロンほど強大な帝国を前にして、この捕囚は本当に終わるのだろうか。私たちの神は、本当に私たちを救い出してくださるのだろうか、と。
バビロンに捕らわれたある家族の、安息日の夜を想像してみてください。祖父がイザヤ書の巻物を取り出し、その第二部を開いて、力強い声で読み始めます。「慰めよ、慰めよ、わたしの民を、とあなたがたの神は言われる。呼ばわる者の声がする、荒野に主の道を備えよ、と。エルサレムよ、良い知らせを伝える者よ、見よ、あなたがたの神を、あなたがたの主を。主は力をもって来られ、羊飼いのようにその群れを養われる。」
イスラエルの民は捕囚の間、夜ごとにこの言葉にすがっていました。それは単に捕囚の終わりを告げるだけの言葉ではなく、もっと大きなことを告げていました。神ご自身が民の中に来られる、ということです。そしてこの良い知らせは、あなたのためのものでもあります。あなたもまた、時に長く待ち続けているかもしれません。癒やしを、和解を、悲しみの終わりを、心の平安を、神のより強い臨在を。あなたも時に疑ってしまうことがあるでしょう。しかし同じ声が幾世紀も超えて、今朝あなたにこう語りかけています。見よ、あなたの神を。解放してくださる主を。慰めてくださる羊飼いを。
1. 見よ、あなたの神を:あなたを備える叫び
イザヤ書40章の最初の11節の中で、ある言葉が印象的に繰り返されています。叫べという動詞、あるいは声を上げよという命令です。11節の中で6回です。これは偶然ではありません。
なぜこのメッセージを叫ばなければならないのでしょうか。もちろん、聞かれるためです。しかしそれだけでなく、叫びは私たちの中に、大声で語る以上の何かを引き起こすからでもあります。子どもが叫ぶ声を聞くだけで、すぐに警戒心が高まるものです。叫びはただ聞くことを求めているのではなく、反応を求めているのです。人間はこの効果をよく理解しているからこそ、注意を引くためのベルや警報音は、叫び声に似せて作られています。
この箇所には連鎖的な広がりも見られます。神は預言者に叫ぶよう呼びかけます。荒野で声が叫びます。エルサレムは高い山に登って、今度は自分がユダの町々に叫ぶよう招かれます。メッセージが広がり、声が届き、良い知らせが伝わっていくのです。
ではこの叫びに対して、あなたは何を反応として示すべきでしょうか。イザヤはすぐ後でこう述べています。この叫びは、主の到来のためにあなたの心を備えるためのものです。
「呼ばわる者の声がする、荒野に主の道を備え、荒れ地であなたがたの神のために大路をまっすぐにせよ。」(イザヤ 40:3、口語訳)
なぜこの備えが大切なのでしょうか。それは、来られるのが王であり、私たちが王に対してどれほど敬意を払うか、どのように迎え入れるかによって、その人が王であることを認めているからです。パジャマ姿で王を迎える人はいません。心遣いも、備えも、真剣さも必要です。聖書は、王が来られるときにはその王を敬うようにと私たちに呼びかけています。まして、王の王であればなおさらです。
では、どうやって王の王を敬うのでしょうか。一番良いネクタイや、一番美しいドレスを身につけることでしょうか。いいえ、そうではありません。主が求めておられるのは、あなたの心という衣が清められることです。あなたの人生が主に向き直り、あなたを蝕むものから離れることです。それこそが、主の道を備えるということです。主の尊い血によって清められた心です。
荒野で叫ぶこの謎めいた預言者について、福音書は誰であるかを教えてくれます。バプテスマのヨハネです。マタイ3章は、イザヤが告げていたとおりに彼を紹介しています。
「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて言った、『悔い改めよ、天国は近づいた』。この人は預言者イザヤによって、こう言われていた人である、『荒野で呼ばわる者の声がする、主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ』。……エルサレムとユダ全土、またヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのもとに出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。」(マタイ 3:1-6、口語訳)
荒野で叫ぶ声が呼びかけているのは、まさにこのことです。心の変化、悔い改め、神への立ち帰りです。
2. 解放してくださる主:戻ってくる栄光、とこしえに変わらない言葉
この叫びは、非常に大きなことを告げています。5節を見てみましょう。
「こうして主の栄光があらわれ、人はみな共にこれを見る。これは主の口が語られたのである。」(イザヤ 40:5、口語訳)
なぜこの言葉が、捕囚の民にとってこれほど心を揺さぶるものだったのでしょうか。それは、彼らの時代、神の栄光がすでに神殿を去っていたからです。ソロモンの神殿が奉献されたとき、神の栄光が降り、聖所を満たしました(列王記上8章)。神はこうして、御自分の民の中に特別な臨在を示されました。しかし捕囚の時、預言者エゼキエルは胸を引き裂かれるような場面を描いています。栄光が神殿を去っていく場面です(エゼキエル書10章)。
バビロンの捕囚民の希望は、まさにこれでした。神が戻り、その栄光が神殿に戻ってくることです。それは実現したのでしょうか。実現もし、実現しなかったとも言えます。捕囚が終わると、神殿は再建されました。しかし基礎が据えられたとき、最初の神殿を見たことのある人々は泣き出しました。なぜでしょうか。二番目の神殿の方がはるかに小さく、はるかに見劣りしていたからです。そこで預言者ハガイは、驚くべき約束を語ります。
「この宮の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。この所において、わたしは平安を与えると、万軍の主は言われる。」(ハガイ 2:9、口語訳)
神の栄光は現れたのでしょうか。はい。しかし、どこか未完成のような感覚が残ります。私はこれを「モナリザ効果」と呼びたいと思います。もしあなたがルーヴル美術館にモナリザを見に行き、代わりに子どもの描いた絵を見せられたとしたら、その絵がどれほど可愛らしくても、返金を求めるでしょう。なぜなら、その絵はモナリザを表してはいても、モナリザそのものではないからです。
このモナリザ効果こそ、捕囚から帰った民が経験したことです。栄光は確かに戻り、神殿もそこにありました。しかし本当の栄光は、まだ待たれていたのです。そしてここで、この箇所はイエスに従う者たちにとって新しい意味を持つようになります。荒野で叫ぶこの声は、バプテスマのヨハネです。そして神殿に来る栄光とは、神が人となられたイエス・キリストのことなのです。
御霊がこのすべてをどのように結びつけているか見てください。ルカによる福音書2章で、老人シメオンはキリストに出会います。どこでですか。神殿でです。輝きのないあの小さな神殿が、ついに神の本当の栄光を見るのです。まことの神であるイエス・キリストが、その場所を踏み、ハガイの約束を成就されます。
そして、これはあなたにとっても意味があります。3節の荒野で叫ぶ声がバプテスマのヨハネであり、5節で来る栄光がイエス・キリストであるなら、9節の「良い知らせを伝える者エルサレム」とは誰のことでしょうか。それは、使徒パウロが言うように、上から生まれた者たち、すなわち天のエルサレムに属する者たちです(ガラテヤ 4:26)。それは教会です。
この「良い知らせを伝える者」という言葉は、新約聖書時代に広く使われていたギリシア語訳、七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)で読むと驚くべき言葉であることが分かります。エウアンゲリゾメノス。この言葉、聞き覚えがありませんか。伝道する、福音を告げる、という意味です。あなたが今日担うよう召されているもの、あなたの生き方と言葉が告げ知らせるべきものは、まさにこれです。まことの栄光がこの地に来られたということです。その方は生まれ、生き、死に、よみがえられました。見よ、あなたの神を。
ではその神とはどんな方でしょうか。解放してくださる神です。この箇所はこう強調しています。
「見よ、主なる神は大能をもって来られ、その腕は主のために統べ治める。見よ、その報いは主と共にあり、その報酬は主のみ前にある。」(イザヤ 40:10、口語訳)
時に神の力を疑ってしまう捕囚の民に向かって、イザヤは、天地の創造主が力をもって来られ、その腕が支配を行うのだと語りかけます。この捕囚の民は、どうしてそれを確信できたのでしょうか。それは、この神こそが、かつて彼らの先祖をエジプトから導き出された方であり、自分たちよりもはるかに強い帝国から救い出す力を、すでに示しておられた方だからです。
あなたもまた、自分自身の過去の経験に信頼を置いて頼るよう招かれています。神があなたに真実を示してくださったあの瞬間、そして他の人に対しても真実を示してくださった瞬間です。ここにこそ、教会(あなたの兄弟姉妹、信仰の先を歩む人々)の証しの尊さがあります。
しかし主は本当に救い出したいと願っておられるのでしょうか。その約束は口先だけのものではないのでしょうか。いいえ、そうではありません。主はその力を用いられます。そしてあなたのためにも、この同じ力を用いてくださいます。なぜなら、御言葉はとこしえに変わらないからです。
「呼ばわれ、と言う声がする。わたしは言った、『何と呼ばわりましょうか』。『すべての肉は草のようで、その栄えは野の花にひとしい。草はしおれ、花はしぼむ、主の息がその上に吹くからである。まことに民は草だ。草はしおれ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉は、とこしえに変わることはない』。」(イザヤ 40:6-8、口語訳)
民や帝国の力は、来ては去っていくものです。イスラエルの時代、力ある国々がどれほど速く入れ替わったか見てみましょう。無敵に見えたアッシリアはバビロンによって一掃され、そのバビロンはわずか数週間でペルシアによって一掃され、そのペルシアはアレクサンドロス大王によって一掃され、彼自身もローマによって一掃されました。無敵に見えたこれらの帝国は、実は朽ちやすく、はかないものでした。神の息に吹かれてしおれる草のようなものです。息を吹きかければ飛んでいくたんぽぽの綿毛のようなものです。
では、変わらずに残るものは何でしょうか。朽ちることのないものは何でしょうか。神の言葉です。神が御自分の民に立てられた約束です。バビロン帝国は数か月のうちに崩れ去りました。それは歴史が証言していることです。しかし神の言葉は成就しました。イスラエルは捕囚から帰って来ました。本当の解放が起こったのです。
イザヤ自身、この解放の道具となった人物を名指ししています。ペルシア王キュロスです。彼は主の「油そそがれた者(メシア)」と呼ばれています。
「主はその油そそがれた者、クロスについて、こう言われる、『わたしは彼の右手を堅くとって、もろもろの国を彼の前に降参させ、もろもろの王の腰の帯を解き……』」(イザヤ 45:1、口語訳)
クロス(キュロス)がメシアですって。ここでもまた、モナリザ効果です。確かに、キュロスは神が御自分の民を解放するために用いられた道具でした。ある意味では、彼は力ある王でもありました。しかし彼は、イスラエルを決定的かつ完全に解放したでしょうか。いいえ、そうではありません。イスラエルはその後も他の帝国に支配されました。キュロスは本当の解放者ではないのです。
まことのメシアは、あなたを何から解放してくださるべきでしょうか。あなた自身の体がやがて朽ちて塵となる前に、朽ちやすい一つの帝国から、また別の朽ちやすい帝国へと移り変わることからでしょうか。いいえ、そうではありません。キリストがもたらす本当の解放とは、朽ちるということそのものからの解放です。キリストは、あなたを死から解放してくださいます。ペテロは、まさにイザヤ書40章から直接この言葉を受け継いでこう語っています。
「あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の生ける、いつまでも変ることのない御言葉によったのである。『人はみな草のごとく、その栄光はみな草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る』。そして、あなたがたに宣べ伝えられた福音の言葉は、この言葉にほかならない。」(ペテロの第一の手紙 1:23-25、口語訳)
あなたは朽ちない種によって生まれたのであり、それこそが、移ろいやすさや、しおれてゆく草のような有様から解放される唯一の道です。イエスはこう力強く語られます。
「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。またあなたがたは真理を知り、真理はあなたがたに自由を得させるであろう。」(ヨハネによる福音書 8:31-32、口語訳)
これを今日どのように当てはめればよいでしょうか。あなたはもしかしたら、神が罪一般からはあなたを解放できると信じていても、長年あなたの人生を蝕んできたあの特定の罪からは無理だと思っているかもしれません。あるいは、神は大きなことにはお力があっても、あなたの日々の小さな事柄には関わらない方だと思っているかもしれません。しかし神は、あなたの人生の一つ一つの部分に関心を持っておられます。大いなることの神は、小さなことの神でもあられるのです。
休暇中に読む伝記を探しているなら、ジョージ・ミュラーの伝記を手に取ってみてください。彼はあらゆる必要のために神に頼りながら、いくつもの孤児院を設立した人物です。彼はこの日々の依存というものをよく理解していました。ある一節を紹介します。
「1844年8月3日。私たちは15フランでこの日を始めた。私は心の中でこう言った。今日、主が私を助けてくださる方法を待とう。主は必ずそうしてくださる。これまで幾度、主が私を助けに来てくださったことか。だから私は主を待ち望む。今朝9時から10時の間、私たちに必要なものを得るために祈りに専念した。三人の同労者が私と共にいた。祈っている最中、戸をたたく音がした。ある兄弟が、孤児たちのために43フランを持ってきてくれたのだった。」
この伝記には、孤児たちを養うための具体的で切実な求めのページが延々と続きます。そして、それに日々応えてくださる神の姿があります。大いなることの神は、小さなことの解放者でもあられるのです。
3. 慰めてくださる羊飼い:赦しを通して与えられる慰め
見よ、あなたの神を。解放してくださる主であり、また慰めてくださる羊飼いでもあります。この箇所はこの言葉から始まります。
「慰めよ、慰めよ、わたしの民を、とあなたがたの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ……」(イザヤ 40:1-2、口語訳)
ここに来られる神は、単に力強く腕を振るう神であるだけではありません。あなたを慰めるために愛の腕を開いてくださる神です。慰めよ、慰めよ、わたしの民を。主は優しい方です。良い羊飼いです。
「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。」(詩篇 34:18、口語訳)
あなたが持っているのは、遠く離れた神ではありません。私たちの神は、私たちのただ中に来てくださいました。あなたが経験していることを、その方も経験されました。あなたが苦しんだ以上に、その方は苦しまれました。あなたがどれほど低いところにいても、キリストはいつもその先を行っておられます。その方はそこにいてくださいます。慰めるために来てくださる、良い神とはこの方のことです。
しかし慰めは、負債の帳消しなしには訪れません。想像してみてください。休暇中にあなたがお金を無茶苦茶に使ってしまい、しばらくしてから口座を開いたら、マイナス5,000ユーロだったとします。それを友人に話すと、彼はこう言います。「大丈夫、大丈夫、気にしなくていいよ、全部順調だから。」優しい言葉ですが、負債はそのまま残っています。
神は見せかけのことをなさいません。本当の慰めは、赦しを通して与えられます。神は赦すために来られます。
「エルサレムの心に語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、その咎はゆるされたと。彼女はもろもろの罪のために主の手から二倍の刑罰を受けたのだと。」(イザヤ 40:2、口語訳)
「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように吹き払った。わたしに帰れ、わたしはあなたをあがなったからである。」(イザヤ 44:22、口語訳)
神は慰め、神はあがない、神が負債を支払われます。しかしどのようにでしょうか。御自分を差し出すことによってです。
「しかし彼はわれわれのとがのために刺され、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれたのだ。」(イザヤ 53:5-6、口語訳)
手品のようなことは何もありません。誰かが代価を払わなければなりません。そしてこの良い羊飼いこそが、それを支払ってくださるのです。ここでもまた、モナリザ効果です。イザヤはキュロスを羊飼いとして描いています(イザヤ 44:28)。しかしキュロスは、どれほど有用であったとしても、良い羊飼いではありません。彼は自分の羊たちのために、自分の命を差し出してはいないからです。では、この良い羊飼いとは誰でしょうか。イエス・キリストです。
「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は羊のために命を捨てる。……わたしの羊はわたしの声をきき、わたしは彼らを知り、彼らはわたしに従ってくる。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは、いつまでも滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い取るものはない。」(ヨハネによる福音書 10:11、27-28、口語訳)
あなたはこんな言い回しを聞いたことがあるかもしれません。「その言葉、心に響くな。」クリスチャンとは、イエスの声を聞き、それが見知らぬ他人の声ではなく、自分を造り、誰よりも自分を愛してくださっている方の声だと、心の中で認めた人のことです。
では、これを実際にどう当てはめればよいでしょうか。私たちはイエスが自分の羊飼いだと告白します。しかし大切なのは、私たちが何を言うかではなく、何を行うかです。グルたちとアルゴリズムに満ちたこの世界の中で、実際に自分を導いている羊飼いは誰なのかを、自分自身に問う必要があります。
覚えておきたい三つの真理
- イザヤの叫びは、幾世紀を超えてあなたのもとに届いています。それはただ聞くべき警告ではなく、反応を求める呼びかけです。あなたの心を備え、神に向き直り、あなたの内にあるものを主の臨在によって変えていただくための呼びかけです。
- 神は朽ちない御言葉によって解放してくださいます。帝国も、状況も、この世の力も、草のように過ぎ去っていきます。しかし神の言葉は変わらず立ち続けます。そしてその言葉によって、あなたは罪から、死から、あなたを縛っていたすべてのものから解放されるのです。
- 本当の慰めは、イエスにおいて与えられる赦しを通して来ます。神はあなたの負債を軽く見ることはなさいません。御自分を差し出すことで、その代価を支払われます。良い羊飼いは、自分の羊のために命を捨てられました。
あなた自身への適用のために
- 今あなたが待ち望んでいることは何ですか(癒やし、和解、悲しみの終わり、心の平安)。その中で、神が来てくださることを疑い始めていませんか。今週、その疑いの前に、イザヤ書40章のどの言葉を置くことができるでしょうか。
- あなたはクリスマスに向けて、具体的にどのように心を備えていますか。告白すべき罪、経験すべき悔い改め、はっきりさせるべき関係はありませんか。
- あなたは今、どんな「羊飼い」(アルゴリズム、影響力、習慣、声)にあなたの時間と関心を導かれていますか。良い羊飼いの声を聞き分けるのが難しいと感じるのは、どんな場面でしょうか。
- 神があなた自身、またはあなたの知っている誰かに真実を示してくださった、具体的な瞬間を一つ挙げられますか。それを書き留め、疑いを感じる日のために、目に見えるところに置いておきましょう。
- 神があなたを自由にすることはできないと思っている、古く根深い罪はありませんか。イザヤ書44章22節は、その思いに対して何を語っているでしょうか。
このメッセージで引用された聖句
- イザヤ 40:1-11
- マタイ 3:1-6
- エゼキエル書 10章
- ハガイ 2:9
- ルカ 2:25-35(神殿のシメオン)
- ガラテヤ 4:26
- イザヤ 45:1
- ペテロの第一の手紙 1:23-25
- ヨハネ 8:31-32
- イザヤ 44:22
- イザヤ 53:5-6
- ヨハネ 10:11-28
- 詩篇 34:19
よくある質問
なぜイザヤ書40章は、クリスマスにとってこれほど中心的なのですか。
それは、神ご自身が御自分の民のもとに来られることを告げているからです。福音書は、イザヤ書40章3節を明確に受け継いで、バプテスマのヨハネをイエスの到来を備える者として紹介しています(マタイ 3:3)。イザヤ書40章は、神の栄光が戻ってくるという約束であり、クリスマスとは、その約束がベツレヘムの一人の幼子において成就する瞬間なのです。
「荒野で叫ぶ声」とは誰のことですか。
イザヤの物語の中では、捕囚のイスラエルに、その苦しみの終わりを告げる預言者のことです。その成就においては、バプテスマのヨハネのことです。マタイ 3:1-6、マルコ 1:1-4、ルカ 3:1-6、ヨハネ 1:23が、そのことを明確に述べています。今日、この叫びは、聖書と教会を通してあなたに届きます。教会は「良い知らせを伝える者エルサレム」の役割を引き継いでいるのです(イザヤ 40:9)。
「主の道を備える」とは、具体的にどういう意味ですか。
それは外面的な、あるいは儀式的な準備のことではありません。心の変化のことです。自分の罪を認め、神に向き直り、自分では清めることのできないものをキリストに清めていただくことです。それは、バプテスマのヨハネが「悔い改め」と呼んだことであり、イエスがその死とよみがえりによって可能にしてくださったことです。
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