イエスのように祈る。主の祈りを再発見する
あなたはもしかしたら、主の祈りを何百回も唱えてきたかもしれません。学校で、家庭で、教会で、深く考えることもなく。ロイック・リシャールとデイビッド・ポティエ牧師が、ポッドキャスト「レプリカ」のマイクの前に再び戻ってきました。祈りについての対話の第二部です。今回、二人は師の足もとに座り、イエスご自身に祈りを教えていただくのです。
弟子たちは、イエスにいくらでも尋ねることができたはずです。奇跡の行い方を教えてください。説教の仕方を教えてください。ファリサイ派への応答の仕方を教えてください。しかし、そうではありませんでした。彼らはこう願ったのです。「私たちに祈りを教えてください。」彼らは、それ以外のすべてがそこから生まれてくることを理解していました。イエスの力も、その心も、御父との生活も、すべてはイエスの祈りから始まっていたのです。
この記事では、主の祈りを、できるだけ早く唱えるための決まり文句としてではなく、あなたの祈りの生活を変える一つの型として、改めて発見していきます。
記事の構成
- 「私たちの父よ」。神とは誰か、私とは誰か、私たちとは誰か
- 「天におられる」。近さと偉大さ
- 「御名があがめられますように」。礼拝と神の美しさ
- 「御国が来ますように、御心が行われますように」。従順と協働
- 「与えてください、赦してください、救い出してください」。神があなたの人生に入ってくる
1. 「私たちの父よ」。神とは誰か、私とは誰か、私たちとは誰か
もし祈りを一言で言い表すとしたら、それは「父」という言葉かもしれません。私は自分の父に語りかけている。私は自分の父との関係の中にいる。天におられる私たちの父よ。
神とは誰か。神はあなたの父です
今日では、神は父であるということが、私たちの心に深く根づいています。しかし、イエスの時代には、それはまったく革命的なことでした。当時の人々は、ヤハウェの名を口にすることさえためらうほど、その御名を聖なるものとしていました。そこにイエスが現れ、この近しさを、新しく、みずみずしい仕方で示し、人々を驚かせました。「神は、あなたの父なのだ。」
ここで、大切な補足をしておかなければなりません。誰もが「父」という言葉に安心できるわけではありません。不在の父親を持った人たちがいます。体は近くにいても、心はどこか別の場所にあるような父親です。また、言葉においても行動においても、厳しく、虐待的な父親を持った人たちもいます。そうした人々にとって、神を父と結びつけることは、深い傷を呼び覚ますことになりかねません。
イエスは、「祈るときには、こう言いなさい。私たちの父よ」と語られたとき、そのことをご存じでした。私たちは、神を、地上の父親としてではなく、愛に満ちた父として見ることを学ぶ必要があります。そして、この父がどのような方であるかを知るためには、ルカによる福音書15章、放蕩息子の物語に立ち返らなければなりません。その父は、息子の帰りをただ待っているだけではありません。彼を恋い慕っているのです。まだ汚れたままの息子のもとへ走り寄り、抱きしめ、指輪と、上着と、履物を与えます。それが、この父なのです。そして聖霊によって、父のイメージが壊れてしまった人々のためにも、癒やしの道が開かれ得るのです。
私とは誰か。息子であり、娘です
「私たちの父よ」は、あなたのアイデンティティも定めています。あなたは息子です。あなたは娘です。子どもは、父親に話しかけるために複雑な言い回しを作ったりはしません。ただ「パパ、お腹すいた」と言うだけです。子どもは、家の中に自分がいることを正当化するために、学位や実績を積み重ねる必要はありません。自分が何者であるかを、すでに知っているからです。
デイビッド・ポティエ牧師は、自分のSNSのプロフィールに「クリスチャン、夫、父親、牧師、教会開拓者」と、この順番で書いていると語ります。なぜクリスチャンが最初に来るのでしょうか。それが彼にとって第一のアイデンティティ、すなわち神の子どもであるという事実だからです。他のものはすべて、その後に来ます。ちなみに、弟子であることと、息子・娘であることは、新約聖書の中で信者を表すために最も頻繁に用いられる二つのアイデンティティです。
私たちとは誰か。一つの家族です
イエスは「私の父よ」ではなく、「私たちの父よ」と言われました。私たちはあまりにも西洋的で、あまりにも自分中心であるため、この小さな言葉を見過ごしてしまいがちです。祈りの最初の言葉から、すでに共同体という次元があるのです。私たちが自分のアイデンティティを発見するのも、教会を通してです。祈る気持ちになれないときは、誰かにこう頼んでみてください。「一緒に祈ってくれませんか。」この「私たち」という言葉には、力があるのです。
2. 「天におられる」。近さと偉大さ
「私たちの父よ」は近さを語ります。「天におられる」は偉大さを語ります。それは、あらゆる偽りの神々のはるか上におられる神です。天と地と海、そしてそこにあるすべてのものを創造された神です。あなたが一日二十四時間、御座の間に近づくことのできる、全能者です。
全能であることと、親密であることが同時に成り立っています。それは、完全には測ることも説明することもできず、ただ見つめ、知ろうと努めることしかできない方との親密さです。「天におられる私たちの父よ」と、その意味を理解しながら祈るだけでも、それは心を変えるのです。
3. 「御名があがめられますように」。礼拝
「聖なるものとされる」とは、選び分けられ、聖く、清くされるという意味です。あなたが神に「御名があがめられますように」と言うのは、あなたの言葉が神をより聖くするからではありません。それは、あなた自身が、神が聖なる方であることに気づくためです。神は、イザヤの前に現れられた方です。預言者の唇に燃える炭を送られた方です。ヨハネの黙示録における栄光のキリスト、両刃の剣を持ち、大水のとどろきのような声を持つ方。それが、この神なのです。
神は聖く、清く、罪がなく、汚れがありません。神のうちには罪の影さえなく、一瞬たりとも悪い思いはなく、永遠にわたって悪意のかけらもありません。神はまったく別次元の存在です。神と同じレベルにある者は誰もいません。神はあらゆる分類の外にあります。敵対者は、神と同じレベルにはいません。神には対抗する存在などいないのです。
難しいときでも、まず礼拝から始める
ロイック・リシャールは正直に認めます。時には、祈るよりもホッケーの試合やネットフリックスのエピソードを見るほうが楽なことがある、と。なぜでしょうか。それは、神の美しさに気づいていないからです。それに気づけば気づくほど、神を喜ぶようになります。この地上において、神の前に立ち、その美しさに見とれること以上に、美しく、深いものはありません。
祈りを始めるとき、あなたはしばしば、いきなり「私たちの罪をお赦しください」に進みたくなります。自分が汚れていて、ふさわしくないと感じ、それを早く片づけたいと思うのです。しかし神はこう言われます。「いや、まずわたしを礼拝することから始めなさい。」これは、私たちのナルシシズムに対する最良の治療薬であり、同時に、神を喜ぶための一つの方法でもあるのです。
4. 「御国が来ますように、御心が行われますように」
この一節は、二つの力強いことを語っています。まず、あなたの祈りには意味があるということです。そうでなければ、イエスはこのように祈るようにと教えられなかったはずです。天においては、神の支配はすでに完全に確立されています。地上においては、まだ確立されていない場所があり、神はそれを、ご自分の民の祈りを通して実現することを選ばれました。
神は協働者を求めておられる
聖書の中で神がなさったことのほとんどすべては、人間とともになされたことです。動物に名前をつけたのは、神ではなくアダムでした。贖いの御業も、一人の人、イエス・キリストを通して成し遂げられました。どの奇跡においても、祈り、行動を起こし、間に立つ誰かが必要です。神はその主権のうちに、ご自分の行動を、ご自分の民の祈りに結びつけることを選ばれました。もしあなたが祈らなければ、神がなさらないことがあります。それは力が足りないからではなく、神が協働者を求めておられるからです。
服従の行為
この一節が語る二つ目のことはこうです。「私の王国が来ますように」が祈りなのではありません。「あなたの御国が来ますように」なのです。正直になりましょう。あなたの霊的な祈りが、実は巧妙に隠された「私の王国が来ますように」になっていることが、どれほどあるでしょうか。自分を実現するために、自分の奉仕のために、自分のもくろみのために、神を利用してしまうことが。
「御心が行われますように」は、服従の行為です。それは、十字架を通ることを望まなかったにもかかわらず、「わたしの願いではなく、あなたの御心のままに」と言われた、ゲツセマネのイエスの姿です。何かを求める前に、あなたはまず、自分の心が服従することを求めるのです。なぜなら、イエスは、神が御心にかなうことを求める者には、それをかなえてくださると約束されたからです。
5. 「私たちに必要な糧を今日与えてください」。神があなたの人生に入ってくる
ここで、祈りの流れが変わります。前半部分では、あなたが神の生活の中に入っていきました。ここからは、あなたが神を自分の生活の中へと招き入れるのです。
「私たちに与えてください」。あなたは、自分が持っているものすべてが神から来ていることを認めます。「私が一生懸命働いたから、才能があるから」ではありません。もしあなたにパンがあるなら、それを与えてくださったのは神です。そのパンを得るための力と能力があるとしても、それを与えてくださったのもまた神なのです。
「今日」。神は、今日あなたに必要なものを与えてくださいます。2039年のためではなく、フェラーリのためでも、大きな家のためでもありません。パンとは、あなたの基本的な必要のことです。私たちはしばしば、必要なもののためにではなく、欲しいもののために祈ってしまいます。
デイビッド・ポティエは、彼の家族が、より大きな、複数世代が共に住める家を買おうとしていたときのことを語ります。すべてがうまくいくように見えました。しかし、それはうまくいきませんでした。彼らは家を二度売ろうとしましたが、検査の後に二度断られました。五年後の今、彼は、神がそれをさせなかった理由をいくつも見出しています。神様、あなたのやり方は、いつも最善なのです。
他の人のためにも祈りましょう
よく注意してください。「私たちに与えてください」であって、「私に与えてください」ではありません。もしあなたの祈りのリストが、自分に関することばかりであるなら、そこには成長すべき部分があります。神は、あなたが他の人の必要をも祈りの中で担うことを望んでおられます。そうでなければ、あなたは自己満足に陥り、高慢になってしまいます。そして神は、高慢な者に立ち向かわれます。
6. 「私たちが人を赦すように、私たちの罪をお赦しください」
驚くべきことに、神は、まず先に告白することを求めておられません。神はまず、ご自分を父として認めること、礼拝すること、服従すること、糧を求めることを求められます。そして、その後に赦しが来ます。それは、汚れた子どもに、家に入る前にまず体を洗ってきなさいとは言わない父親のようです。
それから、私たちがあまり好まない部分がやってきます。「私たちに罪を犯した者たちを、私たちが赦しますように」。この一節をやわらげようとする神学的な曲芸が数多く試みられてきました。しかしイエスは明確です。もしあなたが他の人を赦さないなら、天におられるあなたの父も、あなたを赦してはくださらないのです。無慈悲な僕のたとえも、同じことを語っています。あなたが、返済不可能なほどの負債を負っていたこと、そしてそれを神が帳消しにしてくださったことに気づくとき、あなたは他の人の負債を帳消しにできるようになるのです。
7. 「私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」
この一節は、時に誤解されることがあります。自分の誘惑を神のせいにする人もいます。しかし新約聖書は明確です。神は誰をも罪へと誘惑されることはありません。神は試練を許されますが、悪へと駆り立てられることはないのです。
「私たちを誘惑に陥らせないでください」とは、実は、神への依存を言い表す言葉です。倒れないためには、あなたが必要です。誘惑から離れるためには、あなたが必要です。新約聖書は繰り返し語ります。誘惑から逃げなさい、と。自分の力だけでは抵抗できないことを認めましょう。
「悪からお救いください」。敵対者に最後の言葉を持たせてはなりません。私が御名を辱めることがありませんように。私が御恵みを軽んじることがありませんように。もしイエスが、この祈りを一世紀のユダヤ人たちに教えられたのなら、なおのこと、誘惑の激しさと頻度が爆発的に増大した今日の世界において、私たちにはこの祈りが必要です。誘惑の本質は変わっていませんが、その量と広がりはかつてないものになっています。幸いなことに、悪しき者から救い出してくださるのは、今も変わらず同じ聖霊、同じ神なのです。
まとめのポイント
- 主の祈りは唱えるための決まり文句ではなく、あなたの祈りを形づくる一つの型です。
- 祈りは、あなたからではなく、神から始まります。
- そこには二つの流れがあります。あなたが神の生活の中に入っていき、それから神をあなたの生活の中へと招き入れるのです。
- 神は協働者を求めておられます。あなたの祈りは、確かな違いを生み出します。
- タイラー・ステイトンが思い起こさせるように、祈りの究極の目的は、あなたが望むものを得ることではなく、神ご自身を得ることです。
個人への適用
- 「父」という言葉を思うとき、あなたの心にまず浮かぶのはどんなイメージですか。あなたの天の父である神は、あなたの地上の父に似ているでしょうか、それともルカによる福音書15章の父に似ているでしょうか。
- あなたは祈りを礼拝から始めることができますか。それとも、最初の反応は「私を赦してください」や「私に与えてください」でしょうか。
- 「御国が来ますように」と祈るとき、それは本当に神の御国を求めているのでしょうか、それとも、巧妙に隠された自分の王国を求めているのでしょうか。
- あなたの祈りのリストには、自分に関係のない必要が含まれていますか。
- 今、あなたが赦すことを拒んでいる人はいますか。イエスは、その点について何と言っておられますか。
引用聖句
- マタイによる福音書6章9〜13節 · 主の祈り
- ルカによる福音書11章1〜4節 · 主の祈りの短い形
- ルカによる福音書15章11〜32節 · 放蕩息子
- イザヤ書6章 · 預言者の唇の上の燃える炭
- ヨハネの黙示録1章12〜16節 · 栄光のキリスト
- 創世記2章19〜20節 · アダムが動物に名をつける
- ルカによる福音書22章39〜46節 · ゲツセマネのイエス
- マタイによる福音書18章21〜35節 · 無慈悲な僕
FAQ
主の祈りを暗唱することは、悪いことなのでしょうか
いいえ、そうではありません。イエスが否定されたのは、暗唱される祈りそのものではなく、心を込めずに語られる、むなしい言葉です。心を注いで主の祈りを唱えることは、神の言葉を思い巡らす一つのかたちです。しかしイエスは、あなたがさらに深いところへ進むための型をも与えたかったのです。
なぜ、赦しを求める前に、まず礼拝から始めるのでしょうか
それは、祈りがあなたからではなく、神から始まるからです。神の美しさを見つめ、神があなたの父であり、天地の創造主であると気づくこと、それがあなたの視線の中心をずらしてくれます。そのあとで、あなたは自分を罪人として認め、願い求め、告白することができます。そうでなければ、あなたは自分中心のままです。
神が全き主権を持っておられるなら、なぜ祈る必要があるのでしょうか
神は完全に主権を持っておられますが、ご自分の行動を、ご自分の民の祈りに結びつけることを選ばれました。聖書の中で神がなさったことのほとんどすべては、人間とともになされたことです。神は協働者を求めておられます。あなたの祈りは神を変えるものではありませんが、地でも天と同じように、神が御心のままに働かれるための場を開くのです。
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