はじめに
「忘れても大丈夫」。これは、平野牧師が日本の平塚バプテスト教会で、大人も子どもも一緒に集まった礼拝で語ったメッセージのタイトルです。その月、教会では旧約聖書を一緒に読んでいました。何千年も前に書かれた書物ですが、牧師によれば「今を生きる私たちに驚くほど語りかけてくる」ものです。
詩篇106篇6節から23節、そして44節から47節です。神が自分たちのためにしてくださったことを何度も忘れてしまう民の歴史を語る詩篇です。牧師は単純な問いから始めます。なぜ私たちは、いちばん大切なことをよりによって忘れてしまうのでしょうか。そして何より、神はどうなのでしょうか。神も忘れてしまうのでしょうか。
メッセージの流れ
1. 私たちはみな忘れる
- 牧師はまず自分自身のことから話し始めます。少し前に、大切な会合をすっかり忘れてしまったそうです。後から「どうして来なかったのですか」と尋ねられ、そのときになって初めて忘れていたことに気づきました。「私はどちらかといううっかり者です」と認めます。
- そして問いかけます。「なぜ人間は、大切なことほど忘れてしまうのでしょうか。そもそも、忘れるとはどういうことでしょうか。」
2. 「バプテスマって何ですか」
- 牧師は年に2回、93歳になる教会員の方を、車で1時間ほどの施設に訪ねています。訪ねるたびに、認知症が少しずつ進んでいるのを感じます。
- 今回は、その方のバプテスマ記念日に訪ねました。お誕生日も近かったので、教会員の皆さんが寄せ書きをしたバースデーカードを持参しました。毎回、花束の形をしたバースデーカードを持って行くので、部屋はカードでいっぱいです。
- その方はもう牧師のことを覚えていません。そこでいつものように、耳元で大きな声で自己紹介します。「牧師の平野です。」そして告げます。「今日は、あなたのバプテスマ記念日ですよ。」
- その方の顔にすてきな笑顔が広がり、明るい声でこう答えました。「バプテスマって何ですか。」
- 牧師は戸惑いながら帰路につきます。帰りの道で、ある問いが心を離れませんでした。「自分の信仰を忘れるとは、どういうことなのだろうか。」人間は忘れます。では、神はどうなのでしょうか。
3. 恵みを忘れる民
- 旧約聖書は、イスラエルの民がどれほど神の恵みの中で生きてきたかを示しています。7節はエジプトでの奇跡、つまり出エジプトの出来事を思い起こさせます。神は奴隷だった人々を自由へと導かれました。忘れられないはずの思い出です。
- それなのに、エジプト軍に追われて海の前で行き詰まると、民は不平を言います。「こんなはずじゃなかった。奴隷のままのほうがましだった。」救い出された恵みを、もう忘れてしまったのです。
- 忘れる民に、神はどう応えられたのでしょうか。新しい恵みによってです。海を開き、逃れる道を造られました。「神は、忘れたことを責める前に、新しい道、新しい助けを与えてくださいました。」
4. 忘れては、また忘れる
- 民はそのあと荒れ野をさまよいます。14節はこう言います。彼らは神を試みた、と。牧師はここに、水がなくて民が再び不平を言った出来事を見ています。民は、神がしてくださったすべてのことを、またしても忘れてしまいました。
- すると神は、岩から水を湧き出させられます。「神は、ご自分の恵みを忘れた人々に、もう一度恵みをもって応えられました。」
- 21節は厳しい言葉です。「彼らは、おのれの救主なる神を忘れた。」人間は、昔から神の恵みを忘れてきました。
- 牧師は、神のお気持ちを思い描きます。「わたしはあなたを守った。それを忘れないでほしい。」けれども私たちはすぐに忘れ、先祖と同じ過ちを繰り返します。
- 牧師はこの循環をこうまとめます。神が恵みを与え、人はそれを忘れ、苦難が戻り、人は叫び、神はまた恵みをもって応えてくださる。
5. 神は契約を覚えておられる
- 44節から47節は、この忘れっぽい民に対する神の姿を示しています。神は彼らの苦難を見られ、叫びを聞かれ、ご自分の契約を思い出され、その豊かな慈しみに従ってあわれんでくださいます。
- 「恵みを忘れ続ける人間に、神は恵みをもって応え続けてくださいます。」たとえ私たちが神を忘れても、神は私たちを忘れません。
- 人生の心配や病によって、私たちは進む方向を見失うことがあります。「しかし、神は忘れません。恵みの約束をとこしえに覚えておられます。」
- 神の恵みは、私たちの記憶に左右されません。忘れまいと必死に努力するから恵みがあるのではありません。「神の救いは、私たちの記憶ではなく、神の約束によって支えられています。」
- 「神は、私たちが神を覚えているから愛してくださるのではありません。私たちが神を忘れるときも愛してくださいます。」もし神が、私たちが神を忘れるのと同じように私たちを忘れてしまわれたら、私たちは安心して生きていけるでしょうか。
6. バプテスマは事実として残る
- 帰り道、牧師はやがてこう思うようになりました。これでいい、忘れてもいいのだ、と。その方が覚えていてもいなくても、何も変わりません。バプテスマを受けたという事実は変わらないからです。
- 「すべてを忘れてしまっても、その方がクリスチャンであることに変わりはありません。神の恵みは、覚えていてもいなくても変わりません。」
- その日、信仰について大切なことを教えてくれたのは、その方のほうだったと牧師は言います。神は忘れない、ということです。神は、その方が歩んできた人生も、流してきた涙も、その方と交わされた約束も、忘れてはおられません。
7. 教会は思い起こす場所
- 私たちは少しずつ忘れていきます。人生の中に神の恵みと導きがあったのに、それを忘れ、不平の種ばかりを数えてしまいます。不安と混乱の中では、何歳であっても私たちは忘れてしまいます。
- 牧師は、私たちが神の恵みと導きの中にいることを思い起こしながら生きるよう励まします。けれども、いざというときには、おそらく忘れてしまうでしょう。それでも神は私たちを覚えておられます。忘れることを恐れなくてもよいのかもしれません。
- 教会は、忘れてしまいそうなことを思い起こさせてくれる場所です。教会は何度でも語りかけます。「神はあなたを忘れていない」と。
- この礼拝は、毎月行われる聖餐式へと続きます。イエスが弟子たちとパンと杯を分かち合われた最後の食事を思い起こすためです。私たちはいつもこの恵みと教えを忘れますが、神は毎月それを思い出させてくださいます。聖餐は、忘れる人々に再び与えられる恵みのしるしです。
- 「神は、今日のあなたを忘れてはおられません。」牧師は、この確信をもってパンと杯を受けるよう招き、最後にもう一つ問いかけます。あなたは何を思い起こしますか。
この記事のポイント
- 詩篇106篇のイスラエルのように、私たちも、特に不安や試練の中で神の恵みを忘れてしまいます。
- 神は、民の忘れっぽさを責めるのではなく、新しい恵みで応えてくださいます。開かれた海、岩からの水がその例です。
- 救いは私たちの記憶ではなく、神の約束にかかっています。神は、私たちが神を忘れるときも愛してくださいます。
- たとえ誰かが自分の信仰も人生もバプテスマも忘れてしまっても、神はご自分の契約を覚えておられます。
- 教会と聖餐は、神がご自分の恵みを何度でも思い起こさせてくださる場所です。
個人的な適用
- 神から受けたどんな恵みを忘れて、不平の種ばかりを数えていますか。
- 最近、どんな状況で不安のために神を忘れてしまいましたか。
- あなたの救いが、あなたの記憶ではなく神の約束にかかっていると知ることは、あなたにとってどんな意味がありますか。
- 少しずつ忘れていく高齢の方や病気の方に、この安心をどのように届けられるでしょうか。
- 次に聖餐にあずかるとき、あなたは何を思い起こしますか。
引用した聖句
よくある質問
詩篇106篇は、神を忘れることについて何と言っていますか。
詩篇106篇は、イスラエルが受けた恵みを、エジプトで、葦の海で、荒れ野で、何度も忘れたことを語っています。21節はこう要約します。「彼らは、おのれの救主なる神を忘れた。」しかし44節と45節は、神がご自分の契約を覚えておられ、その豊かな慈しみに従ってあわれんでくださることを示しています。
神の恵みは私たちの記憶にかかっていますか。
いいえ。平野牧師によれば、恵みは私たちが覚えていられるかどうかにかかっていません。救いを支えているのは神の約束であって、私たちの記憶ではありません。神は、私たちが神を覚えているから愛してくださるのではありません。私たちが神を忘れるときも愛してくださいます。
なぜ教会と聖餐は、思い起こす助けになるのですか。
平野牧師は、教会を、忘れてしまいそうなことを思い起こさせてくれる場所として語ります。牧師の教会で毎月行われる聖餐は、イエスが弟子たちと過ごされた最後の食事を思い起こさせます。それは、忘れる人々に何度でも与えられる恵みのしるしです。