はじめに
「私は準備をするのが好きです。」ケリス・コミュニティ教会(Kerith Community Church)ウィンザー会場の牧師リオン・ジョンソン(Leon Johnson)は、教会のヨシュア記シリーズのこのメッセージをこの言葉で始めます。家を出るときは、携帯電話のバッテリーも車のガソリンも十分に確保しておきたいのだそうです。奥さんが何度も耳にしてきた彼の口ぐせは、「準備を怠ることは、失敗の準備をすることだ」。
一方、奥さんは混乱の中でも平気なタイプです。あるとき出張の荷造りを奥さんがしてくれたところ、これから四日間分のTシャツが一枚しか入っていなかったそうです。
けれども聖書は、霊的にも備えることを私たちに求めています。私たちはしばしば、神が状況を変え、扉を開き、約束を果たし、突破口と勝利を与えてくださることを願います。しかし多くの場合、神は状況を変える前に、私たち自身を変えられます。私たちを通して何かをなさる前に、私たちの内に何かをなさるのです。ヨシュア記5章が示しているのは、まさにそのことです。神は戦いの前に、ご自分の民を備えられます。
メッセージの流れ
1. 戦いの前に、神は立ち止まらせる
- イスラエルはヨルダン川を渡ったばかりです。モーセは死に、神はヨシュアを立て、「強く、また雄々しくあれ」と繰り返し語られました。ラハブは斥候たちを守り、神は川をせき止め、神の真実を覚えるために十二の石が立てられました。
- アモリ人の王たちとカナンの王たちは、主がなさったことを聞いて、心が溶け、勇気を失います(ヨシュア記5章1節)。イスラエルには勢いがあり、敵は目の前にいて、剣は抜かれています。
- 人間的に考えれば、次は攻撃するのが当然です。しかし神は、要するに「まだだ」と言われます。戦いの前には準備があるのです。
- 聖書全体にそれが見られます。モーセはイスラエルをエジプトから導き出す前に四十年間荒野で過ごし、ダビデは王として油を注がれる前に羊を飼い、ライオンや熊と戦い、イエスは洗礼のあと四十日間荒野で過ごし、パウロも宣教の前に備えの時を過ごしました。神は、ご自分の民を戦いに送り出すことよりも、備えさせることを大切にされます。
- リオン・ジョンソンもそれを経験しました。牧師の働きへの召しを感じたとき、約四年間、何も開かれないように思えた時期がありました。振り返ると、神はその間に彼の品性、謙遜さ、動機を整えておられたのだと分かります。
2. 神は、働きの前にあなたのアイデンティティを備える
- まさにそのとき、神は不思議な命令を与えます。「火打石の小刀を造り、重ねてイスラエルの人々に割礼を行いなさい」(ヨシュア記5章2節)。荒野で生まれた世代は、全員が割礼を受けていなかったのです。
- 民にとって最も必要だったのは、軍事的なことではありませんでした。自分が何者なのかを思い出すことでした。
- 割礼は、神とイスラエルとの契約のしるしであり、「私たちは神のものです」と語る外面的な印でした。彼らは神の兵士である前に、神の民でした。彼らのアイデンティティは、軍隊や武器や戦う力からではなく、神から来ていたのです。
- 「私たちのアイデンティティは、成功の上に築かれているのではありません。」それは仕事でも人間関係でも同じです。あなたが何かを生み出すからといって、神の目にあなたの価値が増すわけではありません。アイデンティティは、神が私たちと結ばれた契約の上にあります。
3. 犠牲を伴い、理屈に合わない備え
- 男たちは最後の号令を待っています。「行くぞ、攻撃だ」と。ところがヨシュアは、割礼を受けなければならないと告げます。剣と盾を手に、戦う準備を整えて座っているときに、この命令を受けたと想像してみてください。
- それは彼らを傷つけ、痛みを与え、敵の前で無防備にします。「ヨルダン川の向こう側で、まだ安全だったときに言ってくれればよかったのに」という声が聞こえてきそうです。
- 神が求められることが、論理的には意味をなさないこともあります。苦々しさを抱き続けても当然に思えるときに赦すこと。すべてを手元に置くのが賢明に思えるときに与えること。前に進む勢いがあるときに待つこと。
- 信仰とは、自分の計算よりも神を信頼することです。押し進めるべきときに待たされているように思えるときでも同じです。神は、私たちを通して何かをなさる前に、私たちの内に何かをなさりたいからです。
4. 心の割礼
- ヨシュア記5章は、私たちが真似すべき旧約の儀式を示しているのではありません。もっと深いものを指し示しています。
- モーセはこう予告していました。「あなたの神、主はあなたの心と、あなたの子孫の心に割礼をほどこして、あなたがあなたの神、主を一心、一魂をもって愛し、そして生きながらえるようにされる」(申命記30章6節)。エゼキエルは、新しい心と、民の内に宿る神の霊を約束しています(エゼキエル書36章26〜27節)。パウロは、ガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙で、心の割礼は御霊によるものだと教えています(ローマ人への手紙2章29節)。
- 説教者はある聖書注解者の言葉を引用します。ヨシュアはイスラエルの人々の体を約束の地のために備えたが、神は初めから、もっと深いもの、すなわち心が神のために備えられた民を求めておられた、というものです。
- 新しい契約のもとにいる私たちにとっての問いは、「外面的な印があるか」ではなく、「私の心は御霊によって割礼を受けているか。私の心は神にゆだねられているか」です。
- 教会にいても、礼拝に出る、賛美する、奉仕する、クリスチャンらしい言葉を知っているといった外面的な印は持てます。しかし神が見ておられるのは、もっと深いところです。「主よ、私の心から取り除くべきものをすべて取り除いてください。私の人生はあなたのものです」と、あなたは神に言えるでしょうか。
5. エジプトのそしりが取り去られる
- 9節で、神は美しい言葉を語られます。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り去った」。その場所はギルガルと名づけられました。
- エジプトは、奴隷状態、隷属、ファラオのもとでの抑圧を表していました。イスラエルは何年も前に物理的にはエジプトを出ていましたが、そのアイデンティティをまだ引きずっていたのです。
- これは私たちへの問いかけでもあります。以前の生活を離れても、奴隷の心のままでいることがあるのです。神は、私たちに新しいアイデンティティがあることを思い起こさせようとしておられます。
- 前の世代の失敗は、もはや当てはまりません。この男たちが割礼を受けていなかったのは、その前の世代の落ち度によるものだったのかもしれませんが、神は要するにこう言われます。あなたがたより前の人々の失敗によって、あなたがたが私の民であることが妨げられることはない、と。
- 荒野の四十年は、備えの時でした。申命記8章には、神がご自分の民を荒野に導かれたのは、彼らを低くし、その心の中に何があるかを知るためだったと記されています。イスラエルはそこで、神に頼ることを学びました。水も、食べ物も、日ごとのマナも、神が必要だったのです。
- 「神よ、なぜ私はまだここにいるのですか。なぜ状況を変えてくださらないのですか」と問うような荒野の季節があります。それは苦しいものですが、神は快適さでは決してできないことを、そこで私たちの内になさることができます。
6. マナが止まるとき:依存から参加へ
- その月の十四日、エリコの平野で、イスラエルは過越の祭りを祝い、神にあって自分たちが何者であるかを思い起こします。翌日、民はその地の産物、すなわち種を入れないパンと炒り麦を食べます(ヨシュア記5章10〜11節)。
- そして、マナがやみます(12節)。四十年間、マナは毎朝そこにありました。民が植えたのでも、作ったのでも、刈り入れたのでもありません。神から与えられたものでした。
- 神は養うことをやめられたのではなく、養い方を変えられたのです。民はこれから、その地の産物を集めることで、備えに参加することになります。
- 神は民を、依存から参加へと移されます。それは神に頼らなくなるという意味ではなく、その依存が、これからは自分たちの参加を含むものになるということです。
7. あなたは神の味方ですか
- エリコの近くで、ヨシュアは抜き身の剣を手にして立っている一人の人を見ます。彼は尋ねます。「あなたはわれわれの味方か、それともわれわれの敵か」。答えはこうでした。「いや、わたしは主の軍勢の将として、今来たのだ」(ヨシュア記5章13〜14節)。
- 私たちは何か新しいこと(仕事、人間関係、挑戦)に踏み出すとき、よくこう尋ねます。「神よ、あなたは私の味方ですか。これを祝福してくださいますか」。本当の問いは逆です。私たちは神に合わせているか、神の味方になっているか、神の御国をこの地にもたらすために動いているか、ということです。
- リオン・ジョンソンは、U2のボーカルであるボノが、ある賢いクリスチャンの助言を語るのを聞いたと話します。「神にあなたのしていることを祝福してくださいと頼むのはやめなさい。神がなさっていることに加わりなさい。それはすでに祝福されているのだから。」
- ヨシュアは地にひれ伏し、履き物を脱いで、身をゆだねます。神の臨在、聖さ、権威を認めたのです。その祈りはシンプルです。「主よ、私はここにいます。あなたが導き、私は従います。」
- あなたの人生のエリコは何でしょうか。新しい仕事、人間関係、協力関係、奉仕、地域教会での役割かもしれません。あるいは、恐れ、プライド、苦々しさ、誘惑、落胆、冷笑的な態度、自分に頼る心といった、従順をはばむ城壁かもしれません。
- イエスの公の働きが始まる前、山上の説教も、癒やしも、十字架もまだなかったときに、父なる神は洗礼のとき宣言されました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マルコによる福音書1章11節)。神はあらゆる働きの前に、イエスのアイデンティティを思い起こさせられたのです。
- 霊的に健やかでいるために。毎週日曜日に心を神にゆだねること。仕事の一日に入る前に神のもとに立ち返ること。御霊によって心にもう一度割礼を施してくださるよう願うこと。みことばにとどまること。仲間に囲まれていること。そして御国の目的を第一にすること。「大切なことを大切にする。」
この記事のポイント
- 神は状況を変える前に、あなたを変えられます。あなたを通して何かをなさる前に、あなたの内に何かをなさるのです。
- あなたのアイデンティティは、成功ではなく神の契約から来ています。あなたは神の働き人である前に、神の子どもです。
- 神が求められることは、あなたの理屈に反することがあります。信仰は、自分の計算よりも神を信頼します。
- 神が求めておられるのは、御霊によって割礼を受けた心であり、クリスチャン生活の外面的な印だけではありません。
- 正しい問いは「神は私の味方か」ではなく、「私は神の味方か」です。
自分への問いかけ
- どんな分野で、神に立ち止まらされていると感じていますか。神はあなたの内に何を形づくっておられるのでしょうか。
- 今、あなたは何に自分の価値を置いていますか。仕事、人間関係、生み出すもの、それとも神があなたについて語っておられること。
- あなたの心の中に、神に取り除いていただくべきものはありませんか。
- 以前の生活に結びついた奴隷の心を、まだ引きずってはいませんか。
- あなたの今日のエリコは何ですか。あなたは自分の計画を祝福してくださいと神に願っていますか。それとも神の計画に自分を合わせようとしていますか。
引用された聖書箇所
よくある質問
なぜ神はエリコの戦いの直前に割礼を求められたのですか。
リオン・ジョンソンによれば、イスラエルにとって最も必要だったのは軍事的なことではなく、自分が何者なのかを思い出すことでした。割礼は契約のしるしであり、「私たちは神のものです」と語る印でした。彼らは神の兵士である前に、神の民でした。神は、働きの前にアイデンティティを備えられるのです。
「エジプトのそしりを取り去った」とはどういう意味ですか。
エジプトは、ファラオのもとでの奴隷状態と抑圧を表していました。イスラエルはずっと前にエジプトを出ていましたが、そのアイデンティティをまだ引きずっていました。ヨシュア記5章9節で、神は民に、ご自身にある新しいアイデンティティを与えられます。説教者はここに、以前の生活を離れたあとでも奴隷の心から離れるようにとの招きを見ています。
なぜヨシュア記5章でマナがやむのですか。
四十年間、神は民が種をまくことも刈り入れることもないまま、マナでイスラエルを養われました。約束の地に入ると、マナはやみ、民はカナンの産物を食べます。神は養うことをやめられたのではありません。民が神に頼ることをやめるのではなく、依存から参加へと移されるのです。