はじめに
あなたは毎日たくさん話しています。そして気づかないうちに、口から出た瞬間に後悔するような言葉を何十回も口にしています。しかしイエスさまは、あなたの言葉を真剣に受け止めておられます。マタイ12章36~37節にはこうあります。「わたしはあなたがたに言います。人はその語ったむだな言葉について、審判の日に申し開きをすることになります。あなたの言葉によって義とされ、またあなたの言葉によって罪に定められるのです。」
私たちの言葉は種のようなものです。人を育てることも壊すこともでき、祝福することもろうこともできます。ヤコブは舌を火にたとえています。小さな火が大きな森を燃やしてしまうのです(ヤコブ3章5~6節)。箴言はこう要約します。「死も生も舌に支配されている」(箴言18章21節)。これは詩的な比喩ではありません。あなたの祈りの生活、家族、証しに関わる霊的な現実なのです。
「私たちの言葉の力」というメッセージの中で、JM・ボトロン師は、私たちがつい何気なく口にしてしまう四つのむだな言葉を指摘しています。一見ありふれた四つの言葉ですが、実はそれが私たちの祈りの効果を打ち消し、私たちの口を神さまの御声ではなく敵の声に合わせてしまうのです。この記事では、それらを見極め、なぜ危険なのかを理解し、そして何より神さまの御言葉にかなった言葉に置き換えていきます。
記事の構成
1. 見極める:信じる者の言葉でさえ、すべてが霊に導かれているわけではない
むだな言葉を見極める前に、一つの原則を理解しておきましょう。同じ人が、ある時は御霊に導かれて語り、またある時は肉に従って語ることがあるのです。最も印象的な例はペテロです。「あなたはキリスト、生ける神の子です」と、御霊に導かれてイエスさまを言い表したのと同じ人物が、その数節後には、十字架の予告を聞いて主をわきにお連れし、「主よ、とんでもないことです。そんなことが起こるはずはありません」と言うのです。彼はイエスさまを愛し、信仰を持っています。それでも、その言葉はもはや御霊に導かれたものではありません。人間的には賢く聞こえても、神さまのご計画とは正反対だったのです。
これはあなたにとって二つのことを意味します。第一に、人間的には理にかなって見える助言でも、それが神さまから来たものとは限らないということです。第二に、霊的な識別力が必要だということです。この識別力は、神さまとの交わり、つまり祈りと御言葉(あなたの基準)の黙想、そして正しいことをするときに御霊が与えてくださる内なる平安から生まれます。イエスさまは聖霊によって、ペテロが肉に従って語っていることを見分けられました。あなたも同じようにしてください。耳にするすべての助言、すべての言葉を、神さまの御言葉と祈りというふるいにかけましょう。
2. 一つ目のむだな言葉:「私には絶対に無理だ」
この言葉、あなたも今週きっと口にしたはずです。イスラエルの民もカナンの手前でこの言葉を口にしました。民数記13章によれば、モーセは十二人の斥候を約束の地に送ります。戻ってきた彼らは皆、その地が素晴らしいことを認めます。乳と蜜が流れ、果実はあまりに豊かで、ぶどうの房ひとつを運ぶのに二人がかりだったほどです。
ところが、すべてを覆す小さな一言が続きます。それは「しかし」です。「たしかに、この地は良い地です。しかし、そこには強い民がいて、町々は城壁に囲まれて非常に大きく、アナクの子孫までいました。私たちはあの民のところに攻め上ることはできません。彼らは私たちよりも強いのです」(民数記13章31節)。この小さな「しかし」だけで、約束全体がひっくり返ってしまうのです。カレブとヨシュアの二人だけが最後まで踏みとどまり、「さあ上って行って、あの地を占領しよう。私たちは必ず勝てる」(民数記13章30節)と言いました。
何より心を痛めるのは、消極的な十人の斥候が語っていたことは事実として正しかったということです。実際に巨人がいて、城壁の町があり、強い軍隊もありました。人間的なレベルでは、彼らは正しかったのです。しかし霊的なレベルでは、彼らは誤っていました。なぜなら、神さまが約束されたこととは反対のことを語っていたからです。それは民にとっては本当に大きな問題でしたが、神さまにとってはまったく問題ではなかったのです。
さらに悪いことに、彼らは自分自身を卑しめてしまいました。「自分の目にも、彼らの目にも、私たちはいなごのように見えた」(民数記13章33節)。一匹のいなごは何もできませんが、いなごの大群は畑全体を荒らし尽くします。もしあなたが自分を弱く孤独だと見るなら、あなたはずっと弱いままです。しかし一つに結ばれ、御霊に満たされるなら、私たちは主のために驚くべきことを行うことができます。
この物語の結末は厳しいものでした。この十人の斥候は民全体に悪影響を及ぼし、民は荒野で四十年もさまよい、決して約束の地に入ることはできませんでした。彼らの名前さえ記憶されていません。約束の地に入ったのは、カレブとヨシュアだけでした。
対照的に、マルコ9章23節でこう教えられます。「信じる者には、すべてのことが可能である。」日常生活を支配する自然の法則があります。その中で、あなたにはとても限界があります。しかし超自然の法則、すなわち信仰の法則というものもあり、そこでは神さまが目に見えるものを超えて働かれます。信仰の言葉は世の人々には愚かに見えますが、それこそ神さまがあなたに求めておられる言葉なのです。
「私には絶対に無理だ」を、こう置き換えましょう。「今の状況は行き詰まって見えるけれど、神さまの恵みによって、私はきっとやり遂げられると信じます。」
すばらしい実例が列王記第二4章にあります。シュネムの女性は奇跡によって息子を授かりました。その子は日射病で彼女の膝の上で死んでしまいます。夫が「どこへ行くのか」と尋ねると、彼女はただ一言、「大丈夫です」、ヘブル語で「シャローム」と答えます。それは目に見える状況とはかけ離れた言葉ですが、神さまとは完全に結ばれた言葉でした。預言者エリシャがやって来て祈ると、子どもはよみがえりました。彼女は自らの意志で、信仰の地平に立ち続けたのです。
3. 二つ目のむだな言葉:「神さまはもう今は癒やされない」
この言葉を、JM・ボトロン師は未信者よりも、むしろクリスチャンの口からよく聞くと言います。「神さまは昔は癒やしてくださったが、もう今は癒やされない。」これを口にすることは、むだな言葉に養分を与え、あなたの人生に対する力を与えてしまうことになります。
ナアマンの物語を見てみましょう(列王記第二5章)。ツァラアトに冒されたこのシリアの将軍は、連れて来られた小さなイスラエル人の少女の勧めで、エリシャのもとに送られます。彼は金や衣服、王からの手紙を携えてやって来ます。ところが預言者は家から出てさえこず、ヨルダン川に七回身を浸すようにと使いを送るだけでした。ナアマンは激怒して立ち去り、列王記第二5章11~12節で、多くのクリスチャンにも見られる四つの誤った判断を表すむだな言葉を口にします。
- 自分は他の人より上だと思っている。「見よ、私は、彼が必ず出て来て私の前に立ち、その神、主の名を呼んでくれるものと思っていた。」
- 自分がどのように癒やされるべきか、あらかじめ思い描いている。奇跡は自分のシナリオどおりに起こらなければならないと考えているのです。
- 神さまが選ばれたへりくだった方法を軽んじる。「ダマスコの川、アバナとパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。」
- だまされたと思い込み、癒やしまであと一歩のところで、怒って立ち去ってしまう。
彼を正気に戻したのは、彼の家来たちでした。ついに彼は従い、ヨルダン川に七回身を浸します(一回目でも三回目でも六回目でもなく、七回目に初めて)。癒やしが訪れたのは、まさにその七回目でした。神さまが彼を祝福されたのは、彼がある時点で自然の法則から信仰の法則へと移り、最後まで従順を貫いたからです。
決して「絶対にない」と言ってはいけません。あなたのいのちは医者の手の中にあるのではなく、神さまの手の中にあります。始まりも終わりも定めるのは神さまです。「神さまはもう癒やされない」と言いながら癒やしのために祈るのは、火をつけておきながら、すぐさま水をかけるようなものです。あなた自身が、自分の祈りの恵みを台なしにしてしまうのです。
聖書にはこの主題について豊富な記述があります。三つの箇所で十分でしょう。
- 詩篇103篇3節:「主はあなたの咎をことごとく赦し、あなたの病をことごとく癒やされる。」
- イザヤ書53章5節:「彼は私たちの背きのために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。……彼の打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」
- マルコ16章17~18節:「信じる者には次のようなしるしが伴います。……彼らが病人に手を置けば、病人は癒やされます。」
「神さまはもう癒やされない」を、こう置き換えましょう。「私は、神さまが変わっておられないこと、そして今も癒やしてくださることを信じます。神さまはご自分の時に、ご自分の御心のままに働いてくださいます。私はその神さまに信頼します。」
ただし気をつけてください。これは、あなたのスケジュールどおりに神さまを動かせるという意味ではありません。ラザロでさえ、イエスさまが到着する前に死んでしまいました。神さまの時というものがあり、その時は良いものなのです。
4. 三つ目のむだな言葉:「私は臆病すぎて神さまのことを話せない」
これはモーセの言い訳です。出エジプト記4章10節で、民を救い出すためにファラオに語るよう召されたモーセはこう答えます。「ああ、主よ。私は口の重い者です。……口も舌も重い者なのです。」
あなたにも心当たりがあるのではないでしょうか。食べ物のこと、旅行のこと、スポーツのこと、政治のことなら、言葉に困ることはありません。「口はその人の心にあふれていることを話すのです」(マタイ12章34節)。ところがイエスさまのことになったとたん、あなたは突然口を閉ざしてしまいます。それは偶然ではありません。悪魔は、あなたが神さまのことを話すのを何としても阻もうとします。あなたを落胆させ、自分には無理だと思い込ませ、最初の一言を口にした途端に痛烈な一言を浴びせようとするのです。
しかし出エジプト記4章11~12節で、神さまがモーセに答えられた言葉を聞いてください。「誰が人の口を造ったのか。……さあ行きなさい。わたしがあなたの口とともにあり、あなたが語るべきことを教えよう。」これこそが約束です。あなたが神さまのことを語るとき、神さまご自身があなたの口に言葉を授けてくださるのです。
兄弟姉妹の皆さん、教会の中では私たちは賛美するために集まっています。そして外に出れば、私たちは証し人です。あなたに代わって誰かがやってくれることはありません。メディアも、インターネットも、テレビもです。主は「羊を狼の中に送るように」(マタイ10章16節)あなたを、配偶者に、子どもたちに、同僚に証しするために送り出しておられます。
「私は臆病すぎる」を、こう置き換えましょう。「私は神さまのことを話します。神さまが私を効果的な器としてくださるために、私の口に言葉を授けてくださるからです。」
5. 四つ目のむだな言葉:「私の家族は絶対に救われない」
ある祈祷会の後、一人の姉妹がJM・ボトロン師にこう打ち明けました。「私は毎日夫のために祈っていますが、彼は絶対に回心しないとわかっています。」この言葉を口に出すことによって、彼女はそれまでの祈りをすべて無にしてしまったのです。
あなたの配偶者、息子、娘が絶対に回心しないと言い切れるほど、あなたは何者なのでしょうか。クリスチャンを激しく迫害していたタルソのサウロが、ダマスコの道でイエスさまに触れられ、使徒パウロになるとは、誰が信じたでしょうか。かつてテロリストだった人々、自分の主義主張のために人を殺していた人々が、キリストに触れられて子羊のように柔らかく変えられたという心を打つ証しを、私たちは今でも耳にしています。
「私の子どもたちはあまりにも離れてしまい、二度と戻ってこない」と言うとき、あなたはまさに彼らが失われたままでいることを望んでいる悪魔の口に、自分の口を合わせてしまっています。そうではなく、御言葉に合わせましょう。
- ヨシュア記24章15節:「私と私の家は主に仕える。」
- 使徒の働き16章31節:「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(ピリピの看守に語られた言葉)
- 使徒の働き2章39節:「この約束は、あなたがたと、あなたがたの子どもたち、そして遠くにいるすべての人々、私たちの神である主がお召しになる者すべてのためのものだからです。」
もちろん、一人ひとりが神さまの前で自分自身の責任を負っています。あなたが誰かの代わりに回心させることはできません。しかし、あなたは祈ることができ、証しすることができます。そして、神さまが決して下されなかった判決を、あなた自身が口にすることは拒むことができるのです。
「私の家族は絶対に救われない」を、こう置き換えましょう。「私はこれからも配偶者と子どもたちのために祈り続けます。神さまは彼らの心に触れることができ、彼らの人生に必ず何かをしてくださると信じているからです。」
6. 根っこの問題:まず思いを正しくする
あなたの言葉は、あなたの思いを映し出しています。もしあなたの思いが、あの十人の斥候のように否定的な方向に向いているなら、言葉もそれに従います。だからこそパウロはこう書いています。「あらゆる思いを捕らえて、キリストに服従させます」(コリント人への手紙第二10章5節)。
これは避けて通れないステップです。思いに取り組まない限り、あなたの口は反射的な習慣の奴隷であり続けます。悪い思いをキリストの思いに置き換えたなら、言葉は自然についてきます。そして、むだな言葉が口から出てしまったら、すぐにそれを打ち消す神さまの言葉を続けて言いましょう。「私はだめだ、私の人生は失敗だ」と言ってしまったなら、続けてこう言いましょう。「私はあなたに感謝します。私は不思議な存在として造られているからです」(詩篇139篇14節)。むだな言葉一つひとつに、対応する御言葉があります。それをいつも答えとして返す習慣を身につけましょう。
覚えておきたいポイント
- あなたの言葉は種です。それは人を育てることも壊すこともでき、祝福することもろうこともできます。マタイ12章36~37節は、あなたがその責任を問われることを教えています。
- 信じる者でも肉に従って語ることがあります。ペテロは、イエスさまを言い表した直後にそうしてしまいました。霊的な識別力は、祈りと御言葉によって育まれます。
- 「私には絶対に無理だ」は信仰の法則を否定する言葉です。カレブとヨシュアは約束の地に入りましたが、他の十人は荒野で死にました。
- 「神さまはもう癒やされない」は聖書全体と矛盾します(詩篇103篇3節、イザヤ書53章5節、マルコ16章17~18節)。それは自分で自分の祈りの火を消してしまうことです。
- 「私は臆病すぎる」は、誰があなたの口を造られたのかを忘れた言葉です。神さまはモーセにこう約束されました。「わたしがあなたの口とともにいる。」
- 「私の家族は絶対に救われない」はあなたの口を敵の口に合わせてしまいます。神さまの約束は、あなたとあなたの家のためのものです。
- 言葉より先に思いを変えましょう。そして、むだな言葉の後には必ずそれを打ち消す神さまの言葉を続けましょう。
実践のための問いかけ
- 今週、あなたが最もよく口にしているむだな言葉は何ですか。それを書き出し、それに反論する聖書箇所を探して、暗唱してみましょう。
- あなたが「私には絶対に無理だ」と、口に出して、あるいは心の中で言ってしまう状況はどんなものですか。マルコ9章23節に照らして読み直すと、何が変わるでしょうか。
- 家族の誰かについて、心の中で「決して回心しない」という判決を下してしまってはいませんか。今日、その判決を取り下げ、神さまの御手に委ねましょう。
- 最後にイエスさまのことを、職場で、家族に、隣人に証ししたのはいつですか。今週、神さまがあなたの口に言葉を授けてくださるよう祈り、具体的な第一歩を踏み出しましょう。
- 「キリストに服従させる」べき、繰り返し浮かんでくる思いは何ですか。それを名指しし、告白し、置き換えましょう。
引用聖句
- マタイ 12:36-37・審判の日と私たちの言葉
- ヤコブ 3:5-6・すべてを燃やす小さな舌の火
- 箴言 18:21・死も生も舌に支配されている
- マタイ 16:16-23・御霊に導かれたペテロ、そして戒められたペテロ
- 民数記 13章・十二人の斥候、カレブとヨシュア
- マルコ 9:23・「信じる者には、すべてのことが可能である」
- 列王記第二 4:8-37・シュネムの女性と「大丈夫です」
- 列王記第二 5章・ツァラアトのナアマン
- 詩篇 103:3・すべての病を癒やされる方
- イザヤ書 53:5・打ち傷のゆえに私たちは癒やされた
- マルコ 16:17-18・信仰に伴うしるし
- 出エジプト記 4:10-12・「わたしがあなたの口とともにいる」
- マタイ 10:16・狼の中の羊のように
- ヨシュア記 24:15・「私と私の家」
- 使徒の働き 16:31・「あなたもあなたの家族も」
- 使徒の働き 2:39・あなたがたと子どもたちのための約束
- コリント人への手紙第二 10:5・あらゆる思いをキリストに服従させる
- 詩篇 139:14・不思議な存在として造られている
よくある質問
聖書が言う「むだな言葉」とは何ですか。
それは、その重みをよく考えずに口にされる言葉であり、多くの場合、神さまが語られたこととは反対の内容です。イエスさまはマタイ12章36~37節で、私たちが「あらゆるむだな言葉」について申し開きをすることになると警告しておられます。それは単に無意味な言葉というだけではなく、私たち自身や周りの人々の人生に、実際に悪い影響を及ぼすのです。
なぜ否定的な言葉は私の祈りを台なしにしてしまうのですか。
それは、あなたが求めていることと正反対のことを言葉にしてしまうからです。あなたは自分の癒やしのために祈りながら、次の瞬間には「神さまはもう癒やされない」と言ってしまいます。あなたは子どものために祈りながら、「あの子は絶対に回心しない」と言い切ってしまいます。JM・ボトロン師が言うように、それは火をつけておきながら、すぐさま水をかけるようなものです。神さまが働かれる余地を残すために、あなたの言葉は神さまの御言葉と一致していなければなりません。
ある助言が神さまから来たものか、それとも肉から来たものか、どう見分ければよいですか。
次の二つのふるいにかけてみましょう。書かれた御言葉(それは聖書に沿っているか)と、祈り(あなたには内なる平安がありますか、それとも心が乱れますか)です。ペテロの例は、ある助言が人間的には賢く見えても、神さまのご計画とは正反対でありうることを示しています。識別力を与えてくださるのは聖霊であり、それは主との継続的な交わりの中で育まれます。
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