神の助言を聞いて、無益な言葉を打ち砕こう

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はじめに

あなたは毎日たくさんの言葉を口にしていますね、しかもあまり深く考えずに。けれども、イエス様はマタイ12:36-37で、驚くほど重い言葉を語っています。「あなたがたに言うが、人はその語る無益なひとことについて、審判の日に言い開きをしなければならない。あなたは自分の言葉によって義とされ、また自分の言葉によって罪ありとされるのだから。」

ステファン・ビュルゴス師は、あなたの言葉が一つの種であることに気づいてほしいと語りかけます。言葉は人を育てることも、壊すこともできます。祝福にも、呪いにもなり得るのです。ヤコブは舌を、大きな森を燃やす小さな火にたとえています。敵はこれを利用してあなたを落胆させようとします。時には、信仰者である身近な人からの助言でさえ、神から出たものとは限りません。ペテロはイエス様を愛し、キリストであると告白しました。それでもペテロは、主が十字架へ向かうのを引き止めようとしました。同じ口から、御霊に導かれた言葉と、肉に属する言葉の両方が出てくることがあるのです。

どう見分ければよいのでしょうか。それは霊的な識別力によって、神との交わりの中で、御言葉の光に照らされ、祈りの平安の中でなされます。そして具体的には、一日を通してあなたが口にしている無益な言葉に気づき、それを神の助言に置き換えることです。ここでは、打ち砕くべき四つの無益な言葉と、その代わりに宣言すべき上からの知恵を見ていきましょう。

メッセージの流れ

1.「私には絶対に無理だ」:十人の斥候の論理から抜け出そう

民数記13:30-33で、カレブは民を静めてこう宣言します。「ぜひ上って行って、それを占領しよう。わたしたちは必ず勝てる。」これは神の約束と一致した、御霊に導かれた言葉です。しかし十人の斥候はこう答えます。「わたしたちはあの民のところへ上って行くことはできない。彼らはわたしたちより強いからだ。」

事実としては、彼らは間違っていません。確かに城壁で囲まれた町があり、巨人がいて、アナクの子孫がいます。けれども霊的には間違っていました。彼らの言葉が神の御言葉と矛盾していたからです。本当の問題は城壁ではありません。すでに約束された祝福をひっくり返してしまう、小さな「でも」という一言なのです。「乳と蜜の流れる良い地だ、でも……」

ステファン・ビュルゴス師は本質的な問いを投げかけます。あなたの抱えている困難は、神様にとっても問題でしょうか。あなたが背負っている問題は、あなたの目には乗り越えられないもののように見えても、神様の側から見れば、そうではありません。十人の斥候は自分の目に「いなごのように」見えたと語っています(33節)。いなごは一匹では何もできませんが、群れになれば畑全体を食い尽くします。あなたも、教会の兄弟姉妹たちと恵みのもとに一つになるとき、主のために計り知れないことを成し遂げることができるのです。

イエス様は絶望していた父親にこう言われました。「信じる者には、どんなことでもできる」(マルコ9:23)。日々の生活には自然の法則がありますが、霊的な領域には信仰の法則があります。列王記第二4:18-37のシュネムの女性は、その印象的な姿を見せてくれます。膝の上で息子が息を引き取ったばかりだというのに、夫に尋ねられると、彼女はこう答えます。「大丈夫です。」ヘブライ語で言えば「シャローム」です。これは現実逃避ではありません。奇跡への道を開く、信仰に根ざした宣言なのです。エリシャがやって来て、その子は生き返りました。

置き換えるべき神の助言:「状況は行き詰まっているように見える、でも神の恵みによって、私はきっとやり遂げられると信じます。」

2.「神はもう今日は癒やしてくださらない」:ナアマンから学ぶこと

この無益な言葉は、クリスチャン自身の口からもよく聞かれます。しかし、これを口にすることは自分自身の祈りを消してしまうことです。せっかく火をつけておきながら、その上に水をかけるようなものです。

列王記第二5章で、ツァラアトに冒されたシリアの将軍ナアマンは、特別な扱いを期待していました。ところが預言者エリシャは家から出て来ようともせず、使いの者を通してこう伝えます。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。」ナアマンは怒って立ち去ろうとします。ステファン・ビュルゴス師は、クリスチャンによくある四つの判断の誤りをここで指摘しています。

  • 自分を他の人より上に見てしまうこと。
  • どのように癒やされるべきかについて、先入観を持ってしまうこと。
  • ヨルダン川のような、自分が単純すぎると見下している方法を軽んじてしまうこと。
  • 正しい場所に正しいタイミングでいるのに、怒って立ち去ってしまうこと。

彼を思いとどまらせ、従わせたのは彼のしもべたちでした。ナアマンは水に入り、へりくだって、最後まで従います。七度目にしてようやく、癒やしが現れました。段階的な改善はなかったのです。信仰は最後にもう一度浸かるその瞬間まで、貫かれなければなりません。

「もう絶対にない」とは言わないでください。あなたの人生は医者の手の中にあるのではなく、神様の手の中にあります。時とやり方を決めるのは神様ご自身です。御言葉が何と言っているか、見てみましょう。「主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒やされる」(詩篇103:3)。「彼の打ち傷によって、私たちは癒やされた」(イザヤ53:5)。「病人に手を置けば、癒やされる」(マルコ16:18)。

置き換えるべき神の助言:「神様は変わっていない、今日も癒やしてくださると信じます。神様はご自分の時に働かれます、私はそれを信頼します。」

3.「神様のことを話すには私は臆病すぎる」:神が開いてくださる口

モーセはファラオのもとへ行くよう召された時、神様の前でこう言い訳をします。「私は口が重く、舌が重い者です」(出エジプト記4:10)。私たちの中にも、同じ言い訳の後ろに隠れている人がどれほど多いことでしょうか。食べ物のことや旅行のこと、ドラマのことなら気軽に話す同じ口が、主のことになると閉じてしまう、これは考えさせられることです。

神様はモーセにこう答えられます。「人の口を造ったのは誰か……わたしがあなたの口とともにいて」(11-12節)。これは神様の約束です。神様ご自身が、証しする者たちの口に言葉を授けてくださるのです。

敵は、あなたが神様について語ることを望んでいません。あなたに「自分にはできない」という思いを植え付け、話そうとするたびに落胆させようとします。それでも語ってください。教会の中では、賛美するために私たちは集められています。教会の外では、狼の群れの中に送り出された羊のように、証しするために遣わされているのです。もしあなたが配偶者や子どもたち、同僚にイエス様のことを話さないなら、誰もあなたの代わりにそれを話してはくれません。

置き換えるべき神の助言:「私は神様について語ります。神様が私の口に言葉を授けて、私を用いてくださるからです。」

4.「私の家族は絶対に救われない」:敵の言い分に同意しない

ある祈祷会の後、一人の姉妹がステファン・ビュルゴス師にこう打ち明けたことがありました。「私は毎日夫のために祈っています、でも彼は絶対に回心しないとわかっています。」こう言うことは、自分自身の祈りを台無しにしてしまうことです。それは悪魔の考えに署名するようなものです。

クリスチャンを迫害していたタルソのサウロが、ダマスコへ向かう道でイエス様に触れられるとは、誰が想像したでしょうか。今日でも、不可能だと思われていた回心の証しに心を揺さぶられることがあります。かつて暴力に生きていた人が、子羊のように穏やかに変えられる、そんな証しです。神様はどんなにかたくなな心にも触れることがおできになります。

あなたの家族について、御言葉は何と言っているでしょうか。「私と私の家は主に仕えます」(ヨシュア記24:15)。「主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます」(使徒の働き16:31)。「この約束は、あなたがたと、あなたがたの子どもたち、そして遠く離れているすべての人々のためのものです」(使徒の働き2:39)。

置き換えるべき神の助言:「私は配偶者と子どもたちのために祈り続けます。神様は彼らの心に触れることがおできになると信じているからです。」

覚えておきたいポイント

  • あなたの言葉は決して中立ではありません。イエス様は、すべての無益な言葉について言い開きをすることになると語っています(マタイ12:36)。
  • 同じ信仰者であっても、御霊に導かれた言葉と肉に属する言葉の両方を語ることがあります。それを見分けるには霊的な識別力が必要です。
  • 信仰の法則は自然の法則とは違います。人には不可能に見えることも、神様には可能なのです。
  • 特によく出てくる無益な言葉:「私には絶対に無理だ」「神はもう癒やしてくださらない」「私は神様のことを話すには臆病すぎる」「私の家族は絶対に救われない」。
  • そのどれもが、聖書の明確な約束によって否定されています。恐れではなく、御言葉にあなたの言葉を合わせましょう。
  • 言葉の根っこにあるのは思いです。すべての思いをとりこにしてキリストに従わせましょう(コリント人への手紙第二10:5)。そうすれば言葉も後からついてきます。
  • 無益な言葉が口から出てしまったら、すぐに神様の言葉を声に出して宣言し、それを打ち消しましょう。

個人的な適用

神様の前で静かな時間を取り、正直に答えてみてください。

  1. 今、私が一番よく繰り返している無益な言葉は何だろうか。自分自身について、健康について、証しについて、家族について。
  2. その無益な言葉に対抗するために、暗唱して、それが心に浮かんできたときに声に出して宣言できる聖書の箇所はどれだろうか。
  3. 私は今、十人の斥候の論理と、カレブとヨシュアの論理、どちらに近いところにいるだろうか。それはなぜだろうか。
  4. 「絶対にない」と言ってしまったせいで、祈ることをあきらめてしまった癒やし、奇跡、回心はないだろうか。方法や時を神様に指定することなく、もう一度祈り始める備えはできているだろうか。
  5. 今週、神様は誰に対して、イエス様のことを語るために私の口を開くようにと求めておられるだろうか。「わたしがあなたの口とともにいる」という約束に信頼しながら。

引用された聖句

よくある質問

聖書で言う「無益な言葉」とは何ですか。

無益な言葉とは、神様の真理と結びついていない言葉、何も育てない言葉、御言葉と矛盾する言葉、恐れや疑い、あるいは敵の言い分に軍配を上げてしまう言葉のことです。イエス様は、審判の日にそれについて言い開きをしなければならないと語っています(マタイ12:36)。これはまず下品さの問題ではなく、心と信仰の問題です。私たちの言葉は私たちの思いを映し出すのです。

「私には絶対に無理だ」と言うことは罪ですか。

大切なのは罪悪感を積み重ねることではなく、そのような言葉が御霊に導かれたものではないと気づくことです。それは約束ではなく恐れに合わせた言葉です。解決策は黙り込むことではなく、御言葉を映した告白にその言葉を置き換えることです。「神様の恵みによって、私はきっとやり遂げる。」あなたは困難について嘘をつくのではなく、あなたの救い主の力を告白するのです。

与えられたクリスチャンとしての助言が本当に御霊に導かれたものかどうか、どう見分ければよいですか。

三つのフィルターがあります。神様の御言葉(その助言は聖書にかなっているか)、祈り(神様の平安を感じるか、それとも心の内側にざわつきがあるか)、そして主との交わりの中で聖霊が与えてくださる霊的な識別力です。ペテロが十字架についてイエス様に語ったように、人間的には賢く見える助言であっても、必ずしも御霊に導かれたものとは限りません。従う前に、見分ける時間を取ってください。

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