はじめに
ある日曜日の朝、牧会チームはアルゼンチンからCCNVとともに来られたダニエル・ヒメネス牧師とカリナ・ソット牧師をお迎えしました。前日、お二人はマルセイユの街角に立ち、道行く人にただ一つのことだけを伝えていました。「イエスはあなたを愛しています」と。牧師はマイクを取り、あなたにこう語りかけます。今朝は、それ以上でもそれ以下でもありません。私たちはここに、神の愛を受け取るために集まっています。見世物を見に来たのではありません。イエスに近づくために来たのです。そして礼拝のテーマが告げられます。今日は、奇跡の礼拝です。昨日のことでも、聖書の中だけの話でも、いつか来るかもしれない遠い未来のことでもありません。今日です。牧師はまず、あなたにこう問いかけます。神が今なお、あなたのために働いてくださると信じる備えはできていますか。
今回のメッセージの流れ
1. ナザレを出て、カペナウムへ入る
牧師は福音書から力強いイメージで語り始めます。ナザレでは、人々の不信仰のためにイエスは奇跡を行うことができませんでした。人々はイエスを拒み、信じようとしなかったのです(マルコ 6:1-6)。反対にカペナウムの町は、病人や、癒しと自由を必要とする人々で満ちていました。そこでイエスはご自分の栄光と力を現すことができました。
メッセージははっきりしています。「今朝、私たちは一緒にカペナウムへ行きましょう。」つまり、疑いと拒絶の雰囲気を離れ、イエスが働くことのできる雰囲気の中へ入ろうということです。もしあなたが今朝、何か必要(体のこと、心のこと、家族のこと、仕事のこと、書類のこと)を抱えてここに来たのなら、それは偶然ではありません。あなたはイエスが現れようとしておられる場所に来たのです。
2. 敵に奪われたものを取り戻す
牧師はあなたに霊的な立ち位置を示します。「今朝、私たちは敵の陣営に入り、奪われたものをすべて取り戻します。」牧師は挙げていきます。喜び、平安、希望、一致、繁栄、夢。礼拝は受け身のものではなく、攻めの姿勢です。そして、イエスがラザロを生き返らせる前にマルタに語られた言葉が続きます。
「もし信じるなら、神の栄光を見ると、あなたに言ったではないか。」(ヨハネ 11:40、口語訳)
今朝、信じてください。ただそれだけのことです。ご自分を見てください。イエスが十字架の上で通られた夜、その暗闇の中から朝を来させてくださったのはイエスご自身です。イエスはよみがえられました。あなたが信じるなら、あなたは神の栄光の中にいます。
3. 信仰とは「まだ持っていないのに、すでに持っている」こと
ダニエル・ヒメネス牧師が、とても具体的な原則を語り継ぎます。信仰とは「まだ持っていないのに、すでに持っている」ことです。まだ目には見えていなくても、まるでもう手にしているかのようです。イエスご自身がこう言われました。「信じる者には、どんなことでもできる」(マルコ 9:23)。
牧師はこう語ります。信仰が何であるかを理解したとき、すべてが変わりました。以前は神に願っても、何も起こりませんでした。何年も願い続けていました。ところが、こう教えられたのです。「神のみことばの力によって、神を知らなければならない」と。私は語り方を変え始めました。ある日、父にこう言いました。「お父さん、新しい車があるんだ。」父は「どこにあるんだ」と尋ねました。私はこう答えました。「まだ手元にはないけれど、すでに持っているんだ。」父には理解できませんでした。そして数か月後、車がやって来ました。これが信仰です。まだ目に見えないものを、神が約束してくださったがゆえに、すでにそこにあるかのように語ることなのです。
4. 自分自身と和解する
何度も繰り返される、とても大切なテーマがあります。外側に現れる奇跡を受け取る前に、多くの場合、内側での和解が必要だということです。牧師はダビデ王のことばを引用します。
「わが魂よ。何故うなだれるのか。何故わたしのうちで思い乱れるのか。神を待ち望め。わたしはなおもわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」(詩篇 42:6、口語訳)
ダビデは自分のたましいに語りかけています。悲しみや痛み、不安にただ身を任せているのではありません。自分のたましいに、希望を持てと命じているのです。牧師はあなたにも同じことをするよう招きます。自分自身と和解してください。もしかすると、あなたは自分の願いや計画、神があなたの心に置いてくださったものから離れてしまっているかもしれません。神が用意しておられたものよりも低いところで生きることに慣れてしまっているかもしれません。鏡の中の自分を見つめて、神があなたについて語っておられることを、もう一度自分自身に言い聞かせてください。あなたの人生には、決して消されることのない可能性があります。
5. ベテスダの池:本当にいやされたいですか
牧師はヨハネの福音書5章を開きます。エルサレムの羊の門の近くに、ベテスダと呼ばれる、五つの回廊のある池がありました。多くの病人、盲人、足の不自由な人、体のなえた人たちが、水の動くのを待っていました。ある人は、38年もそこにいました。イエスが近づき、こう尋ねられます。
「なおりたいのか。」(ヨハネ 5:6、口語訳)
その人はかみ合わない答えを返します。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる者がいないのです。わたしがそこに行く間に、ほかの人が先に降りて行くのです」(ヨハネ 5:7)。彼は自分の置かれた状況、何年にもわたる苦しみ、うまくいかなかった数々の試みばかりを見つめていました。すると、イエスは彼にこう言われます。「起きなさい、床を取り上げて歩きなさい」(ヨハネ 5:8)。そして、その人は立ち上がりました。
牧師はあなたに語ります。今日、イエスはあなたにも同じ問いを投げかけておられます。本当にいやされたいですか。本当に自由になりたいですか。イエスは、あなたがどれほど長くその重荷を負ってきたかをご存じです。あなた一人では、そこから抜け出せないこともご存じです。だからこそ、イエスは手を差し伸べてくださるのです。「わたしがあなたと一緒にそれを行うために、ここにいる。起きなさい。」
6. 聖餐:その肉と血によるいやし
礼拝はここで、パンと杯を受けるために立ち止まります。牧師は思い起こさせます。イエスが引き渡される夜、パンを取って裂き、弟子たちにこう言われました。「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである」(ルカ 22:19)。それから杯を取り、こう言われました。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約である」(ルカ 22:20)。
パンがイエスの体そのものに変わるわけではありません。パンはあなたに、イエスがあなたのためにご自分のいのちを与えてくださったことを思い起こさせるものです。そして、その打ち傷のゆえに、あなたはいやされたのです(イザヤ 53:5、ペテロの第一の手紙 2:24)。イエスの血によって、あなたは他の規則や他の犠牲を必要とせず、神への自由な近づきを与えられました。聖餐は宗教的な形式ではありません。イエスがすでに支払ってくださったものを受け取るための入り口なのです。
7. 天の御国は、信仰の激しさによって奪い取られる
メッセージの終わりに近づき、牧師はゆっくりと読み直すべきイエスのことばを引用します。
「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている、そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」(マタイ 11:12、口語訳)
そこから牧師が引き出すメッセージはこうです。今あなたが置かれている状態と、神があなたのために用意しておられるものとの間には、戦いがあります。もし神が別のことを用意しておられるなら、あなたは今の状況にとどまっていることはできません。立ち位置を定め、信じ、宣言し、悲しみや不安、あきらめの霊を退けなければなりません。それは魔法ではありません。イエスが十字架で成し遂げてくださったことを真剣に受け止め、それを具体的に自分のものとして受け取ることなのです。
8. その日曜日の証し
牧師は空虚な中で説教しているのではありません。ここで、そしてアルゼンチンでの集会で起こったばかりのことを語ります。音響のそばにいたある青年が、ひどい偏頭痛のために祈りを求めに来ました。痛みは去りました。ある姉妹は4年間、片方の耳に耳鳴りがありました。彼女はこう言いました。「今日が、私のいやしの日になります。」そして、いやされて帰って行きました。別の一人は、慢性的な偏頭痛から解放されました。さらに、牧師はもっと遠くの出来事も語ります。ある公共の広場で、麻痺のある男性が車いすで待っていました。集会の後、ダニエルは彼に近づき、手を取ってこう言いました。「起きなさい。」その男性は立ち上がり、その夜、歩いて家に帰って行きました。
そのメッセージは「それは遠い場所で、誰か他の人に起こったことだ」というものではありません。メッセージはこうです。「それを行われたのと同じイエスが、今朝ここにおられます。受け取ってください。信じるなら、神の栄光を見るのです。」
まとめのポイント
- 霊的な雰囲気がすべてを変えます。ナザレ(不信仰、拒絶)は奇跡を妨げ、カペナウム(期待、開かれた心)は奇跡を可能にします。あなたの内側の陣営を選び取ってください。
- 信仰とは「まだ持っていないのに、すでに持っている」ことです。神が約束されたことを、まだ目にする前から、すでに現実であるかのように語ることです。
- 外側の奇跡の前に、まず神にあなた自身との和解をさせていただいてください。ダビデは自分のたましいに語りかけました。「何故うなだれるのか。」あなたも同じようにしてください。
- イエスは、38年間ベテスダにいた人に問われたのと同じ問いを、あなたにも問うておられます。「なおりたいのか。」はいと答え、その手を取り、立ち上がってください。
- 聖餐は形だけのものではありません。それは、イエスの血が獲得してくださったもの、いやしも含めて、そこにあなたをしっかりと根づかせるものです。
あなた自身への適用のために
- あなたがここに下ろしに来たその重荷を、どれくらいの間、背負ってきましたか。イエスの問い、「なおりたいのか」に、正直に答える備えはできていますか。
- 今年、敵はあなたから何を奪いましたか(喜び、平安、希望、夢、ある関係)。それを神の前で名指しし、イエスの御名によって取り戻すと宣言してください。
- まだ目には見えていなくても、「すでに自分のものだ」と告白し始められる、神の約束はありますか。
- どの部分で、自分自身との和解が必要ですか。あなたの体、夢、歩んできた歴史、自分の価値でしょうか。今週、鏡の中の自分を見つめて、神があなたについて語っておられることを、もう一度自分に言い聞かせてください。
- イエスが赦しだけでなく、いやしも与えてくださると信じながら聖餐を受けたのは、いつが最後でしたか。
引用された聖句
- マルコ 6:1-6 · 不信仰のゆえに、イエスはナザレで奇跡を行うことができない。
- ヨハネ 11:40 · 「もし信じるなら、神の栄光を見る。」
- マルコ 9:23 · 「信じる者には、どんなことでもできる。」
- 詩篇 42:6 · 「わが魂よ。何故うなだれるのか。」
- ヨハネ 5:1-9 · ベテスダの池と、38年間病気であった人。
- ルカ 22:19-20 · 聖餐の制定。
- イザヤ 53:5 · 「その打ち傷によって、私たちはいやされた。」
- ペテロの第一の手紙 2:24 · その打ち傷によって、あなたがたはいやされた。
- マタイ 11:12 · 「天国は激しく襲われている。」
よくある質問
神は今日も奇跡を行っておられますか。
はい。福音書には、イエスがいやし、解放し、回復させる姿が記されています。復活の後、イエスは弟子たちを遣わし、同じみわざを続けさせられました(マルコ 16:15-18)。そして、こう宣言されました。「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28:20)。この礼拝で聞かれた証し(偏頭痛、4年間の耳鳴り、公共の広場での麻痺のある人)は、聖書における例外ではありません。イエスが十字架で獲得してくださったことを信じる民に起こる、ごく当たり前の実りなのです。
なぜイエスは、38年も病気であった人に、いやされたいかどうかを尋ねられたのですか。
それほど長い年月がたつと、人はその病の中に落ち着いてしまうことがあるからです。いやしよりも、理由を探すようになってしまうのです(「わたしを水に入れてくれる者がいない」)。イエスは決してからかっておられるのではありません。ベテスダの体のなえた人を、はっきりとした内側の選択へと導いておられるのです。今日も同じ問いが投げかけられています。あなたは本当に自由になりたいのですか、それとも自分の牢獄に慣れてしまったのですか。あなたの答えが、この先を左右します。
信仰における「まだ持っていないのに、すでに持っている」とはどういう意味ですか。
ヘブル人への手紙 11章1節の原則です。「信仰は望んでいる事がらを保証し、まだ見ない事実を確認するものである。」あなたは、その約束を与えてくださった方が真実であるがゆえに、それをすでに現実であるかのように保持するのです。これは、神から切り離された前向きな思考ではありません。イエスが語り、行われたことに根ざした心のあり方です。あなたはそれがすでに与えられているかのように語り、宣言し、歩みます。そして神は、その信頼にこたえてくださるのです。
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