はじめに
今歩んでいるその畑が、本当に正しい場所だとどうすれば分かるのでしょうか。結婚も、仕事も、教会も、ただの偶然ではなく、神様があなたのために備えてくださった選びだと、どうすれば確信できるのでしょうか。JM Botteron師はルツ記2章を開き、とてもシンプルな牧会的確信をもってこの問いに答えます。神の導きは、当たりくじのように天から落ちてくるものではありません。それは、決断の前に置かれる祈りの中で、ひざまずいて受け取るものなのです。ルツは落ち穂を拾いに行く前に祈り、「たまたま」ボアズの畑にたどり着きます。しかし本文をよく見ると、そこに偶然はありません。あるのは摂理です。このメッセージは、あなた自身の人生の中でこの二つを見分けるための具体的な指針を与え、御霊への敏感さとみことばへの従順のうちに、ルツのように選び取っていく道を示してくれます。
メッセージの構成
1. ボアズはベツレヘムから来る:キリストはあなたのもとに降りて来られる
- ルツ記2:1は、ボアズを「エリメレクの一族に属する有力な富豪」として紹介します。このヘブル語の表現は、勇者、価値ある人物、その行いによって称賛される人を思わせます。ここでのボアズは、キリストの姿を映し出しています。力強く、豊かで、贖うことができる方です。
- 十二年間病気で苦しんでいた女性がイエス様の衣のふさに触れたとき、力がイエス様から出て彼女を癒やしました(マルコ 5:25-34)。キリストのうちには、あなたが信仰によって近づくその瞬間から、あなたに触れる力があります。
- イエス様は一言で嵐を静め(マルコ 4:39)、数日間墓にいたラザロをよみがえらせ(ヨハネ 11:43-44)、水の上を歩かれました(マタイ 14:25)。天においても地においても、すべての権威がイエス様に与えられています(マタイ 28:18)。
- ボアズは「ベツレヘムからやって来た」のです(ルツ記2:4)。ベツレヘム、すなわち「パンの家」は、いのちのパンであるイエス様が生まれた場所です(ヨハネ 6:48)。ボアズは畑へと降りて行きます。キリストもあなたのもとへ降りて来られます。
- 天の栄光を離れて私たちのところまで来てくださること、それはまるである人が蟻を救うために自ら蟻になることを選ぶようなものです。その隔たりはあまりにも大きいものですが、それでもキリストはその隔たりを越えてくださいました。
2. ルツは行動する前に祈る:神の御心はひざまずいて求めるもの
- ルツはやみくもに出て行くのではありません。彼女はナオミにこう言います。「どうか、私に畑に行かせてください。私は、恵みを見せてくださる方の後について落ち穂を拾い集めます」(ルツ記2:2)。一歩を踏み出す前に、まず祈りがあるのです。
- 本文はこう述べています。「彼女は思いがけなく、ボアズの所有する畑の部分に来ていた」(ルツ記2:3)。急いで読む人にとっては、それはただの偶然です。しかし霊的な読み方をするなら、そこには神の御手があり、神がルツをまさにその畑へと導いていたのです。
- あなたも、配偶者に偶然出会った、教会も偶然見つけた、仕事も偶然決まったと思っているかもしれません。しかし、あなたが祈るなら、それは偶然ではなく摂理となるのです。
- カインとアベルは、選び方の二つの姿を示しています。カインは地の実りをささげました。それは人間的で、理性による、神への伺いを立てない選択でした。一方アベルは、アダムとエバに与えられた皮の衣の流れをくむ動物の犠牲をささげました。彼には霊的な敏感さがあり、神は彼の礼拝をお喜びになりました(創世記 4:3-5)。
- ローマ 8:14はその基準を示しています。「神の御霊に導かれる者は、皆神の子どもです。」あなたもこの次元に到達する必要があります。人間的な計算を減らし、御霊の声に耳を傾けることを増やすのです。
- 神は正確に導かれます。イエス様は「サマリアを通って行かなければならなかった」のであり(ヨハネ 4:4)、スカルの町まで、あの井戸まで、サマリアの女がまさに水を汲みに来るその時刻に、行かれる必要がありました。神はあなたのためにも、漠然とした方向性だけでなく、はっきりとした計画を持っておられます。
3. ルツはボアズに従う:神が与えてくださった畑にとどまること
- ボアズはルツにこう言います。「よく聞きなさい、娘よ。ほかの畑に落ち穂拾いに行ってはいけません。ここから離れず、私の若い女たちのそばにいなさい」(ルツ記2:8)。シンプルなことばであり、明確な指示です。
- 「ここにとどまりなさい」と言われた瞬間、あなたの肉はほかの場所に目を向けたがるでしょう。しかしルツはそのような計算をしません。彼女はボアズを敬い、そのことばに従います。これは、キリストに従う教会の姿を映し出しています。
- 疲れ、日々の繰り返し、朝から晩まで続く落ち穂拾いという骨の折れる作業は、一つの試練です。キリストが「ほかによい場所はない」と言われるなら、そのことばを、イエス様ご自身のことばとして信じなさい。
- もしルツがこの指示に背いていたら、彼女は神の御心の外に出てしまっていたことでしょう。あなたの従順も、同じような点で試されます。神が置いてくださった教会にとどまること、みことばに堅く結びついていること、もっと「魅力的」に見える畑を求めて出て行かないことです。
- 畑から離れてはいけません。その畑とは、神の臨在そのものです。キリストがあなたを養い、守り、しもべたちが汲んだ水を飲ませてくださる場所(ルツ記2:9)、そここそが、とどまるべき場所なのです。
4. よそ者への恵み:福音はあなたのためのものでもある
- ルツはモアブ人であり、契約の外にいるよそ者でした。彼女は驚いてこう言います。「どうして私はあなたの心に留めていただき、恵みを受けたのでしょうか。私はよそ者ですのに」(ルツ記2:10)。これは、諸国の民から救われたすべての信者が、キリストに向かって問いかけることのできる問いです。
- エペソ 2:13はこう答えています。「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今はキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者とされたのです。」新しい契約は、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、信じるすべての者に開かれています。
- ルツは、ユダヤ人と異邦人からなる教会の姿を映し出しています。信仰によって神の民の中に入れられた者たちです。もしあなたが今日イエス様を自分の救い主として信じているなら、あなたも同じ恵みの中に入れられているのです。
- 一方ナオミは、飢饉と人間的な選択によってベツレヘムを離れました。彼女はモアブですべてを失いました。それでも、彼女は帰って来ました。ベツレヘムは今もパンの家であり、神の家であり、苦い心を持つ者にとっての回復の場所であり続けています。
心に留めておきたいポイント
- 祈りがなければ、摂理もありません。決断の前に祈らなければ、あなたは偶然と、自分自身の計算がもたらす結果の中にとどまり続けることになります。
- ボアズはキリストの姿です。力強く、豊かで、ベツレヘムからあなたの畑へと降りて来られ、あなたを贖い、信仰によって近づくその瞬間に、あなたのうちに力を湧き上がらせてくださる方です。
- 摂理は正確です。イエス様がまさにその時刻にスカルの井戸へ行かれたように、神はあなたの人生にも、漠然とした方向性ではなく、はっきりとした計画を持っておられます。
- 畑にとどまることは信仰の行為です。疲れがほかの場所を求めるようあなたを駆り立てるとき、キリストのみことばがあなたを神の計画の中に留めてくれます。
- 恵みは誰にでも開かれています。モアブ人であったルツのように、あなたもキリストの血によって近い者とされています。手ぶらのままでも、ベツレヘムに帰ることができるのです。
個人への適用
- 次に大切な決断(仕事、引っ越し、献身、人間関係)を下す前に、神の御心を求めるために、どれくらいの祈りの時間を確保しますか。
- 最近、祈らずに進めてしまった選択はありませんか。そこからどんな結果が生まれ、何を神の御手に委ねたいと思いますか。
- 神があなたに与えてくださった「畑」(教会、奉仕、結婚、仕事)の中で、神の導きではなく、ただの疲れから離れたいと誘惑されているものはありませんか。
- ナオミのように、あなたの人生のどこかで「モアブ」へと出て行ってしまったことはありませんか。パンの家であるベツレヘムに帰るために、今週踏み出せる具体的な第一歩は何でしょうか。
- 今週、神に仕える歩み方において、あなたはカイン(自分に都合のよいものをささげる)に似ていますか、それともアベル(霊的な敏感さを求める)に似ていますか。
引用聖句
- ルツ記 2:1-9 · ボアズの畑で落ち穂を拾うルツ
- ローマ 8:14 · 神の御霊に導かれる者たち
- エペソ 2:13 · キリストの血によって近い者とされる
- ヨハネ 4:4-26 · イエス様とスカルのサマリアの女
- マルコ 5:25-34 · イエス様の衣に触れて癒やされた女
- マルコ 4:35-41 · イエス様が嵐を静める
- ヨハネ 11:38-44 · ラザロの復活
- マタイ 14:22-33 · イエス様が水の上を歩く
- マタイ 28:18 · すべての権威が私に与えられている
- ヨハネ 6:48 · わたしはいのちのパンです
- 創世記 4:3-5 · カインとアベルのささげ物
よくある質問
ある選択が神から来ているのか、自分自身から来ているのか、どう見分けたらよいのでしょうか。
神に導かれた選択は、まず祈りから始まります。ルツは落ち穂を拾いに行く前に祈り、自分を迎え入れてくれる人の畑で恵みを受けられるようにと願い求めました(ルツ記2:2)。もしあなたが決断の前に祈らないなら、あなたは偶然と自分自身の計算の中にとどまり続けることになります。しかし祈るなら、神があなたの歩みを導き、偶然を摂理へと変えてくださいます。ルツが知らないうちにボアズの畑にたどり着いたように、です。ローマ 8:14ははっきりとこう告げています。「神の御霊に導かれる者は、皆神の子どもです。」
モアブですべてを失ったのに、なぜベツレヘムに帰る必要があるのですか。
ベツレヘムとは「パンの家」という意味です。そこは神の臨在の場所、霊的な糧の場所であり、いのちのパンであるイエス様がお生まれになった場所です。ナオミは飢饉と人間的な選択によってモアブへ出て行き、手ぶらで帰って来ました。それでも、彼女は帰って来たのです。あなたもまた、神の臨在を離れてすべてを失ってしまったとしても、帰って来ることができます。父の家はいつも開かれており、回復は神のパンがある場所から始まります。
疲れを感じているその場所にとどまるようにと神に言われたら、どうすればよいのでしょうか。
ボアズはルツにこう言いました。「ほかの畑に落ち穂拾いに行ってはいけません。ここから離れず、私の若い女たちのそばにいなさい」(ルツ記2:8)。あなたの肉はほかの場所を見たがるでしょう。しかし、キリストのみことばへの従順は、あなたを神の計画の中にとどまらせてくれます。疲れは離れるべきという合図ではなく、忠実さが試されているのです。神があなたに与えてくださった畑にとどまり、みことばに堅く結びついていなさい。そうすれば、あなたの働きの上に恵みが注がれるのを見るでしょう。
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