はじめに
第二次世界大戦中、強制収容所に連れて行かれたあるクリスチャンが、移送を待つ古い修道院の中で、隠れることなく毎晩妻と祈っていました。ある朝、二人の仲間が非難がましい口調で彼のところに来て言いました。「昨日の夜、あなたが何を祈ったか知っていますか。あなたはSS隊員たちのために、収容所の所長のために祈りましたね。彼らに神の祝福と回心を願った。あの者たちは私たちにあれほどの苦しみを与えたのに、水一滴だって与えるべきではないのに、あなたは彼らのために祈るのですか……」「神が私たちにそんなことを求めるはずがありません。これほどの悪を前にして、決してあり得ません。」
この問いは、私たちの心に迫ってきます。痛みや不正義、迫害を前にして、いつから愛することをやめてもよいのでしょうか。私たちのほとんどは強制収容を経験しませんが、それでも愛することを拒み、復讐したいと思う場面には誰もが出会います。聖書は何と語っているでしょうか。イエス様は何とおっしゃるでしょうか。
「食卓から宣教へ」というシリーズのこのメッセージは、私たちをヨハネの福音書13章、イエス様が弟子たちと過ごされた最後の食事の場面へと導き、この問いへの答えを受け取らせてくれます。その答えは、ある衝撃的な行動から始まります。神の御子が膝をかがめて、弟子たちの足を洗われるのです。
この記事の構成
- イエス様は最後まで愛される(ヨハネ13:1)
- きよめる愛(ヨハネ13:6-11)
- 仕える愛(ヨハネ13:12-17)
- 従う愛(ヨハネ13:17)
- では、いつ愛することをやめればよいのでしょうか
1. イエス様は最後まで愛される(ヨハネ13:1)
「さて、過越の祭りの前のことである。イエスは、この世を去って父のもとに行くべき自分の時が来たことを知られた。」(ヨハネ13:1)
イエス様はすべてをご存じでした。ご自分がどこから来られたのか(神の御子であること)、なぜ来られたのか(人類を救うため)、そしてこれから何が待ち受けているのか(十字架)を知っておられました。父はすべてを御子の手にゆだねられました。そして、まさにこのときに、イエス様は十二人の弟子たちとの親密な時間を選ばれます。ほかの誰でもない、彼らだけと。
1節のギリシャ語「エイス・テロス」という表現は、日本語にはうまく訳しきれない重みを持っています。それは「極みまで」「成し遂げるところまで」「終わりまで」という意味です。決して途切れることのない愛、何ものにも止められない愛、最後まで、すなわち十字架まで貫かれる愛です。イエス様は愛することをやめられません。決して。
そしてイエス様は、ユダが自分を裏切ることをすでにご存じでした。「悪魔はすでに、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた。」(ヨハネ13:2)それでもなお、イエス様はご自分の民に仕え、愛するための時間を取られます。ユダをも含めて。
2. きよめる愛(ヨハネ13:6-11)
イエス様は食卓から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻き、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い始められます(4-5節)。
ユダヤの伝統では、足は自分で洗うものでした。唯一の例外は、妻が夫の足を洗う場合、子どもが親の足を洗う場合です。裕福な家庭では、この務めは奴隷や召使いに任されていました。ところが、ここで膝をかがめられるのは、ほかならぬイエス様(神の御子、神ご自身)です。屈辱的で、衝撃的な光景でした。
ペテロは抗議します。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」(6節)ギリシャ語の原文はもっと激しい調子です。「あなたが、私の足を?いいえ、あなたには決して、永遠に私の足を洗わせません。」
イエス様はこう答えられます。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もないことになる。」(8節)つまり、この洗いなしには、御国の相続も、神の子としての身分も、永遠のいのちもないということです。これは、はるかに深い霊的な現実を示す具体的なイメージです。イエス様の血だけが、罪からきよめてくださるのです。
「イエス・キリストの血が、私たちをすべての罪からきよめてくださる。」(ヨハネの手紙第一1:7参照)
ペテロは考えを翻して懇願します。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」(9節)イエス様は答えられます。「すでに体を洗った者は、足以外は洗う必要がない。」(10節)キリストに信仰を置いた者は、すでに全身きよめられているのです。道を歩む中で汚れてしまったときには、ただ立ち返って告白し、赦しを受け取ればよいのです。
そして10節の最後には、恐ろしい言葉が語られます。「あなたがたはきよいのです。ただし、みなではありません。」ユダでさえ、自分がイエス様を拒むことになると分かっていながら、イエス様からその奉仕を受けていたのです。
3. 仕える愛(ヨハネ13:12-17)
「あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいるが、それは正しい。事実そのとおりだからである。それで、主であり、師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(13-14節)
イエス様は「神のあり方を捨てられないとは考えず、かえって、ご自分を無にして、しもべの姿をとり」ました(ピリピ2:6-7参照)。ご自分の地位を手放されたのです。礼拝される立場にありながら、仕えることを選ばれました。
聖書における愛とは、何よりもまず感情ではありません。それは具体的な行動です。仕えること。自分を差し出すこと。助けること。耳を傾けること。困っている人を助けること。宿を貸すこと。クリスチャンであることは、隣人の世話をしないための言い訳には決してなりません。
具体的に仕えるためには、次の三つが助けになります。
- 賜物:自分の能力、才能、仕事、思いやり、傾聴する力、手先の器用さ、車など。
- 時間:貴重で、あっという間に過ぎ去っていくもの。惜しみなく用い、失った時間を取り戻していきましょう。
- 財産:私たちのお金や持ち物。教会への献金は良いことです(教会は予算の10%を助け合いのために分配しています)が、神はそれをはるかに超えて、私たちを召しておられます。あなたのお金や家は、隣人のために用いられているでしょうか。
ある単純な例をご紹介します。あるクリスチャンの経営者は、社員が出社する前の朝7時半に自ら会社の食器洗いと掃除をします。その模範的な姿は、一人の同僚の心を動かします。その同僚は、研修先で、部下が片づけをしている間座ったままの上司の姿を見て、デザートの片づけを自ら進んで手伝うようになります。神の栄光を現す、愛の連鎖です。「使いの者はその主人にまさるものではない。」(16節)
4. 従う愛(ヨハネ13:17)
「これらのことがわかれば、それを行うところに幸いがあります。」(17節)
イエス様の戒めに従うことは、イエス様を愛することであり、私たちの喜びです。それこそ、ユダがしなかったことでした。共同の財布に入っていたお金に心を引かれ、彼は最良の師を持ちながらも従わず、道を外れてしまいました。神に従うことを決してやめないようにしましょう。従うことをやめるとき、私たちは必然的に、愛することもやめてしまうのです。
5. では、いつ愛することをやめればよいのでしょうか
それは、決してありません。イエス様は一度も愛することをやめられませんでしたし、今も私たちを愛し続けておられます。イエス様の弟子である私たちも、どんな代償を払ってでも、愛することを決してやめないよう召されています。
きよめる愛をもって愛するとは、イエス様の死を宣べ伝え、御言葉を分かち合うことです。私たちは、証しを通してきよめをもたらす器なのです。愛することは、赦すことでもあります。徹底的に。十字架の上のイエス様のように。赦すとは、悪を大目に見たり軽く見たりすることではありません。悪を悪として名指し、光のもとに置き、神がそれを滅ぼしてくださるよう祈り、そして罪の奴隷となっているその人自身を愛することです。
裁きは、聖なる神にゆだねましょう。神は悪を憎み、決してそのままにはされません。私たちに求められているのは、ただ愛することです。
覚えておきたいポイント
- イエス様は決して愛することをやめられません。キリストの愛は「極みまで」、十字架に至るまで貫かれます。何ものもそれを止めることはできません。
- きよめるのはイエス様の血だけです。バプテスマはしるしですが、私たちをきよめ、父の子とするのはキリストへの信仰です。
- 愛は行動であって、感情だけではありません。賜物・時間・財産をもって具体的に仕えることは、私たちに注がれたイエス様の愛の直接的な延長です。
- 赦すことは、軽く見ることではありません。悪を名指しし、裁きを神にゆだね、罪人を愛することです。
- 従うことは、愛することです。従うことをやめれば、遅かれ早かれ、愛することもやめてしまいます。
個人的な適用
- 今日、意識的にせよ無意識にせよ、赦すことをやめてしまった相手はいませんか。その人をイエス様にゆだねることを妨げているものは何でしょうか。
- あなたは今も福音に心を動かされていますか、それとも、それは単なる習慣になっていませんか。少し時間を取って、もう一度、十字架の愛に心を揺さぶられてみましょう。
- 賜物・時間・財産のどの領域で、神は今週あなたにさらに仕えるよう招いておられるでしょうか。
- すぐにイエス様のもとに来てきよめていただくべきなのに、告白を「先延ばしにしている」罪はありませんか。
- 復讐したり黙り込んだりする代わりに、今週あなたが祝福できる、あの難しい人物とは誰でしょうか。
引用聖句
- ヨハネ 13:1-30 ・ イエスが弟子たちの足を洗われる
- マルコ 10:45 ・ 人の子は仕えられるためではなく仕えるために来られた
- ピリピ 2:6-7 ・ イエスはご自分を無にされた
- ヨハネの手紙第一 1:7-9 ・ イエスの血が私たちをきよめる
- 使徒の働き 22:16 ・ 立ち上がってバプテスマを受け、罪を洗い流されなさい
- マタイ 5:43-45 ・ 敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい
よくある質問
赦しを求めていない相手を、本当に赦す必要があるのでしょうか。
はい。イエス様は、十字架の上で、自分を処刑した者たちがまだ悔い改める前から赦されたように、私たちにも赦すよう招いておられます。赦すとは、悪を大目に見ることでも、軽く見ることでも、自分を再び危険にさらすことでもありません。それは、憎しみに私たちの心の中で最後の言葉を言わせないこと、そして裁きを、聖く正しい神にゆだねることです。
足を洗うという行為は、今日も繰り返すべき聖礼典なのでしょうか。
この具体的な行為そのものは、バプテスマや聖餐のように制定された聖礼典ではありません。イエス様がここではっきりと示されたのは、一つの原則です。私たちは、膝をかがめられた主と同じ具体的な献身の心をもって、へりくだって互いに仕え合うべきだということです。
なぜヨハネはこの章で聖餐の制定について語らないのでしょうか。
ほかの福音書がパンとぶどう酒を分かち合う場面を伝えているのに対し、ヨハネは足を洗う場面を語ることを選びました。これは、聖餐において祝われる新しい契約が、まず自らを低くされたキリストの姿にならって、互いに仕え合う共同体を生み出すということを、私たちに思い起こさせるためです。
ヤンによる「食卓から宣教へ」シリーズの中で語られたメッセージ(モメンタム教会)。
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