イエスに何をしてほしいのですか

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はじめに

言葉を失ってしまう日があります。愛する人が旅立ち、試練が居座り、祈りが答えられないように思える。そして私たちは、子どものように、自分の叫びをどうすればよいのかわからなくなってしまうのです。聖書は、その叫びを黙らせるようにとは求めていません。むしろ聖書は、道端で力の限りその叫びを上げた一人の男と、その男のために立ち止まってくださったイエスの姿を、私たちに示してくれます。

この男は、エリコの盲目の物乞いです(ルカ18:35〜43。並行箇所であるマルコ10:46〜52ではバルティマイという名で呼ばれています)。群衆の中で起きた、短く、ほとんどありふれたこの場面には、イエスが今もなお私たち一人ひとりに問いかけておられる問いが込められています。「わたしに何をしてほしいのか。」

この日曜日、私たちの教会では、愛する兄弟である小松原護さんを主に委ねました。彼は何年にもわたる病との闘いの末、御父のもとに召されました。数か月前に夫を天に送ったばかりであった彼のお母様は、私たちの前で改めてご自分の信仰をこう語られました。「いつか、私もあなたのもとへ行きます。でも、イエスが私をここに残してくださっている限り、私はイエスと共に歩み続けます。」このような状況の中で、イエスのこの問いは、私たちにとって特別な重みを持つのです。

構成

1. 黙らせられることのない叫び

「ダビデの子イエスさま。私をあわれんでください」(ルカ18:38)。道端に座っていたこの盲人は、イエスが通り過ぎようとしているのを耳にします。彼にはすべてがわかっているわけではありませんが、一つだけわかっていることがありました。今しかない、ということです。彼の周りにいた群衆は彼を叱りつけ、黙るようにと言います。彼はさらに大声で叫びます。彼は、自分の苦しみが、皆が見て見ぬふりをして通り過ぎていく、目に見えない風景の一部になることを拒んだのです。

神の前では、取り繕う必要はありません。あなたが怒っているなら、その怒りを神に告げなさい。あなたが傷ついているなら、その傷を神に告げなさい。あなたが理解できないなら、理解できないと神に告げなさい。主は、正直な叫びに気分を害されることはありません。むしろ、それを聞くために立ち止まってくださるのです。

2. あなたを再び立ち上がらせる問い

「わたしに何をしてほしいのか」(ルカ18:41)。この問いは意外なものです。イエスは、この男が盲目であることをよくご存じです。それにもかかわらず、イエスは彼自身に願いを言葉にするよう促されます。なぜでしょうか。それは、この男が処理すべき案件ではなく、耳を傾けるべき一人の人格だからです。イエスは、声を持ち、願いを持ち、歴史を持つ一人の人として、彼を見つめる時間を取られたのです。

イエスは、私たちにもこの問いを投げかけられます。私たちが何を経験しているかをご存じないからではなく、私たちが思い切って口にすることを願っておられるからです。今日、あなたは何を望みますか。痛みがやむことですか。誰かが持ちこたえてくれることですか。あなたの信仰が消えてしまわないことですか。それを言葉にしてください。名前をつけてください。イエスは、あなたに耳を傾けておられます。

3. しもべよりも近い友

最後の晩餐の席で、イエスは弟子たちにこう言われました。「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません……わたしはあなたがたを友と呼びました」(ヨハネ15:15)。さらにこう付け加えられます。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだのです」(ヨハネ15:16)。つまり、あなたが神に向かって叫ぶとき、あなたはあなたを大目に見てくれるだけの遠い主人に話しかけているのではありません。あなたは、あなたを先に選んでくださった友に話しかけているのです。

ヨハネ14章から16章にかけて、イエスは、御父が御名によってお聞きになる祈りについて、三度にわたって語られます。これは魔法の呪文ではありません。あなたが背負っているものを真剣に受け止めてくださる友の約束なのです。

4. あなたに言葉がなくなったとき、御霊が祈ってくださる

祈ることさえ手の届かないところにあるように思える朝があります。パウロはそれを経験し、こう書いています。「同じように御霊も、私たちの弱さを助けてくださいます。私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」(ローマ8:26)。そして御父の右におられるキリストも、「私たちのためにとりなしていてくださる」のです(ローマ8:34)。

あなたに言葉がなくなったとき、もうひとりの方があなたのために語ってくださいます。あなたの沈黙は、祈りが存在しないことを意味するのではありません。それは時に、御霊と御子によって支えられた、最も真実な祈りなのです。

5. あなたを神の愛から引き離すものは何もない

同じローマ書の章は、この確信をもって締めくくられています。「死も、いのちも、御使いたちも……被造物のどんなものも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:38〜39)。悲しみも、病も、恐れも、怒りに満ちた心の闇夜も、そのいずれも、あなたとキリストとの間に亀裂を生じさせることはありません。イエスはあなたを支えてくださっています。たとえあなたがそれを感じられないときでも。

6. 奇跡、そして奇跡の後の道

イエスはこの盲人にこう言われます。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」(ルカ18:42)。そして本文はこう記しています。「すると、たちどころに彼は見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った」(ルカ18:43)。彼は、自分の得たものを数えるために家に帰るのではありません。彼は、自分の声を聞いてくださった方に従って、道を歩み始めるのです。神からのすべての応答は、一つの道を開きます。受け取った恵みは、ささげられる人生となるのです。

まとめ

  • あなたの最も生々しい叫びにも、イエスの前には居場所があります。イエスはあなたを黙らせるのではなく、立ち止まってくださいます。
  • イエスはあなたに問いかけます。「わたしに何をしてほしいのか」。思い切って答えてください。
  • あなたは大目に見られているしもべではありません。あなたはイエスに選ばれた友なのです。
  • あなたの言葉が尽きるとき、御霊はことばにならないうめきをもって、あなたのためにとりなしてくださいます。
  • 何も、本当に何一つとして、キリストにある神の愛からあなたを引き離すことはできません。

個人への適用

  1. 今日、あなたがまだイエスの前で言葉にする勇気を持てずにいる願いは何ですか。
  2. 神に「よく思われない」のではないかという恐れから抑え込んでいる叫び(怒り、悲しみ、理解できないという思い)はありませんか。
  3. あなたの周りに、あの道端の盲人のような人はいませんか。群衆が見て見ぬふりをして通り過ぎてしまう人で、今週あなたが耳を傾けることのできる人は誰ですか。
  4. イエスがあなたの声を聞いてくださった後、あなたはどのように応えたいですか。奇跡の後、あなたの人生はどうなるでしょうか。
  5. 静けさのひとときを取ってください。言葉がなくても、御霊があなたのためにとりなしてくださるのに任せてください。

引用聖句

よくある質問

神に対して不満を抱きながら、クリスチャンであり続けることはできますか。

はい、できます。聖書は、神に向けられた叫びに満ちています(詩篇、ヨブ記、エレミヤ書など)。信仰を傷つけるのは、正直な訴えではありません。それは、扉を閉ざし、語ることをやめてしまうことです。あなたが神に向かって叫んでいる限り、あなたはまだ神との関係の中にいるのです。

言葉がなくなったとき、どのように祈ればよいのですか。

ローマ8:26は私たちを安心させてくれます。「御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださる」のです。ため息一つ、沈黙、神に向かって差し伸べられた手、それだけですでに祈りなのです。言葉が戻ってくるまで、書かれた祈り(詩篇や主の祈りなど)に頼ることもできます。

イエスが自分の声を聞いてくださったと信じるためには、奇跡が必要なのでしょうか。

いいえ、必要ありません。この盲人はいやされましたが、この地上の人生の中でいやされない人もいます。しかし、ローマ8章の約束はすべての人に当てはまります。何もあなたを神の愛から引き離すことはできません。神の応答は、いやしであることも、平安であることも、持ちこたえるための力であることも、あるいはいつか「神はすべての涙をぬぐい取ってくださる」という確信であることもあります。真実な叫びは、決して無駄になることはありません。

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