はじめに:本当に自分に問うべきこと
先週、この箇所を通して問われていたのは、「誰がファラオの前に立つことができるのか」という問いでした。強大で敵意に満ちたこの王は、民の道を塞ぎ、労働の負担を倍にします。この王を前にすると、私たちは自分がとても小さく感じられ、出口などないように思えてしまいます。それは、心が沈むような経験です。
しかし、出エジプト記7章と8章では、視点の大きな転換が起こります。本当に問うべきなのは、「誰がファラオの前に立つことができるのか」ではありません。「誰が私たちの神、主の前に立つことができるのか」なのです。この問いに答えないままでは、あなたは自分の人生も、行き詰まった状況も、歴史の意味も、本当には理解できません。
私たちが神について知っていることが、私たちの人生、価値観、選択、そして運命を形づくります。人間が神に対して繰り返し反抗し続けるのは、神を本当に知ろうとしないところから来ています。そして、私たちが神に信頼しきれないこと、選択にあいまいさが残ること、周りの人に信仰を語ることを恐れること、これらはすべて同じところから来ています。私たちは、自分が属している神を、十分に知らないのです。神のために何かを始めたり、走り出したりする前に、まず問うべきなのです。主とはどなたなのか、と。
本文の構成
1. 主は歴史を治める主権者です(出エジプト記7:1-13)
2. 主はさばきを行われる創造者です(出エジプト記7:14〜8:15)
1. 主は歴史を治める主権者です(出エジプト記7:1-13)
7章の冒頭を見てみましょう。最初のしるしが起こる前から、神はすでに物語の全体を書いておられます。「わたしがあなたに命じることをすべて語りなさい。あなたの兄弟アロンはそれをファラオに告げ、イスラエルの子らを自分の国から去らせるようにしなさい。わたしはファラオの心をかたくなにする。わたしはエジプトの国でわたしのしるしと不思議を数多く行う。しかしファラオはあなたがたの言うことを聞かない。わたしはエジプトの上に手を置き、大いなるさばきをもってわたしの軍勢、わたしの民、イスラエルの子らをエジプトの国から導き出す。エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」
神は起こることをあらかじめ告げておられます。ファラオの拒絶、しるし、さばき、民の脱出。神は出来事に翻弄されているのではなく、ご自身がその物語を書いておられるのです。相手が誰であるかを考えると、これは決して小さなことではありません。エジプトのファラオたちは、歴史そのものを書く王でした。彼らは神殿の碑文にこう刻ませました。「すべての国は私の力の前に震える。私は太陽神ラーが全地を治めるために選んだ完全な王である。」カルナック神殿の碑文にはこうあります。「これらの勝利は、その記憶が永遠に残るよう石に刻まれた。」しかし今日、トトメス3世の名を覚えている人がどれだけいるでしょうか。誰もいません。永遠に残るはずだったものは、残りませんでした。神がなさることは、そうではありません。
ファラオは自分が歴史の主だと思っていました。しかし実際には、歴史の神の主権のもとに置かれていたのです。テキストがまるでリフレインのように繰り返しているのを見てください。「ファラオの心はかたくなになり、主が言われたとおり、彼はモーセとアロンの言うことを聞かなかった」(7:13、7:22、8:11、8:15)。神が告げられた筋書きが、言葉どおりに実現していきます。この力比べは、モーセとファラオの間の争いではありません。生きて真実であられる神と、反逆する一人の王との間の争いなのです。そして、その結末はすでに書かれています。
そして最初のしるしが起こります。神はアロンに、杖をファラオの前に投げるよう命じられます。杖は爬虫類となります。ここで使われている言葉は、3章の「へび」とは別の言葉です。これは当時の中東の文化において、原初の巨大な闇の力を表すために使われた言葉です。へびとは、味方につけるためになだめすかさなければならない地下の力の象徴でした。ファラオが冠にへびのしるしを身につけていたのは、偶然ではありません。モーセは、いわばアウェーで、ファラオの陣地で戦っているのです。ホームで戦っているのはファラオのほうです。
それでも、その場所で神はご自身の支配を示されます。エジプトの呪法師たちも同じ奇跡を再現し、彼らの杖もまた爬虫類となります。この点に、あなたは立ち止まるべきです。彼らは偽物の芝居をしているのではありません。この世で働く力は、本当に力を持っています。それは実際に人を支配し、実際に現象を引き起こすのです。ポストキリスト教的な西洋文化は、超自然的なもの、悪霊、悪魔を、「そんなものは存在しない」という箱にしまい込みがちです。この偽りは、私たちの心と世界を形づくっているものを、正しく見る目を曇らせてしまいます。
しかし、12節の終わりをよく読んでください。「アロンの杖は彼らの杖を飲み込んだ。」この同じ動詞は、後にファラオの軍勢が海に飲み込まれる場面でも使われます。これはネタバレです。誰が勝つのか、私たちはすでに知っているのです。歴史の結末は、この最初のしるしの中に、すでに告げられています。主は、人を惑わした昔のへびから、そのへびが最終的に打ち砕かれる勝利の日に至るまで、歴史のすべてを御手の中に治めておられます。
この世の権力者たちの大きな主張の前で、人類にとって決定的だと自称するイデオロギーの前で、力を誇示する政治権力の前で、この一節を思い出してください。「しかしアロンの杖は彼らの杖を飲み込んだ。」歴史は、ファラオや大統領や帝国の栄光に向かって進んでいるのではありません。歴史は抗いがたく、生きて真実であられる神の栄光へと向かって進んでいるのです。その御名は主です。
2. 主はさばきを行われる創造者です(出エジプト記7:14〜8:15)
この最初のしるしのあとに、さばきが続きます。本文の構成では、最初のしるしのあとに、三つずつ三つの周期に分かれた九つのさばきが記されています。これらはよく「エジプトの十の災い」と呼ばれます。けれども、むしろ「十のさばき」と呼ぶべきでしょう。創造者である神が、ご自身に反逆した者に対して正義を行っておられるのです。
ナイル川が血に変わる(7:14-25)。神はまず、ナイル川に手を下されます。これは無作為な選択ではありません。ナイル川は、エジプトで神格化されていました。あらゆる命の源、あらゆる豊かさの源として、人々はそれを神として拝んでいました。アロンが杖を上げて水を打つと、ナイル川全体が血に変わります。魚は死に、エジプト人はもう水を飲むことができません。神格化された命の源が、まことの命の主によって辱められるのです。
しかし、なぜ血なのでしょうか。この書物の始まりで何が起こったかを思い出してください。前の代のファラオが、ヘブライ人の赤ん坊たちを溺れさせるために投げ込ませたのは、まさにこのナイル川でした。そこでは、ユダヤの民に対する不義として血が流されました。そして今、神はその血を、正義を求める叫びのようによみがえらせるのです。ナイル川のこの血は、流されたすべての血、世界のすべての不義に対して正義を求める神の血でもあります。神は、さばきを行われる創造者です。私たちはこれを聞いて、震えるべきなのです。
ここでもまた、呪法師たちは同じことをします。よく見てください。彼らは奇跡を再現することはできます。しかし、それを元に戻すことはできません。彼らは血に血を加えることで、問題をさらに悪化させます。彼らの力は本物ですが、限られたものです。それは決して物事を元に戻すことができないのです。
かえる(8:1-11)。続いて、かえるが何千匹もナイル川からわき出て、宮殿、寝室、寝台、かまど、こね鉢に至るまで、すべてを覆い尽くします。これは単なる迷惑ではありません。的を絞ったさばきなのです。エジプトでは、豊穣の女神ヘケトが、かえるの頭を持つ姿で表されていました。前の代のファラオは、ヘブライ人の赤ん坊をナイル川に投げ込むことで、彼らの繁栄を抑えようとしました。ここで神は、その象徴を逆転させます。「豊穣の女神」は、もはや命を与えるのではなく、死をもたらし、すべてを覆い尽くし、悪臭を放つのです。
ここでもまた、呪法師たちは事態を悪化させます。すでにかえるだらけになった国に、さらにかえるを上らせるのです。ファラオよ、あなたはいったい何を望んでいたのでしょうか。結果として、ファラオ自身がモーセを呼び、主に取り成しをしてこの災いをやめさせてくれるよう頼まざるを得なくなります。神に逆らって立ち上がる力は、確かに本物の力を持っています。しかし、それらは決してこの世界の状況を改善しません。むしろ悪化させるのです。
ぶよ(8:12-15)。この三番目のさばきは、予告なしに訪れます。三つずつの周期の終わりには、もう予告がありません。これはおそらく、神の忍耐にも限りがあることを思い起こさせる意図があるのでしょう。「あなたの杖を伸ばして、地のちりを打て。それはぶよとなる。」ここには一つの響きがあります。神が人間を土のちりから造られ、人間はそのちりに帰っていくのです。そして今、その同じちりが、創造者の御手の中で、さばきとして立ち上がるのです。
今度は、呪法師たちも失敗します。彼らは奇跡を再現しようとしますが、できません。そして彼ら自身がファラオにこう告げます。「これは神の指です。」これこそ、神のさばきに対する唯一正しい応答です。神のみわざを認めることです。この世で働く力を軽く見てはいけません。しかし、それ以上に、生けるまことの神の抗いがたい力を軽く見てはいけません。
ファラオの反応:そして、あなたはどう応えますか
ファラオは自分の心をかたくなにします。「彼は息をつけたのを見て、心をかたくなにし、主が言われたとおり、モーセとアロンの言うことを聞かなかった」(8:11)。この同じ場面が、いったい何度繰り返されることでしょうか。あなたは困難な状況の中にいます。あなたは神にこう言います。「私の祈りに答えてくださるなら、私は変わります。」神は答え、あなたに息つく間を与えてくださいます。そしてあなたはまた元に戻ってしまいます。同じ状態に逆戻りするのです。神があなたに与えてくださる猶予を、そして神が何度も与えてくださる、御もとに立ち返り悔い改める機会を、あなたはどうしているでしょうか。
神が、ご自身を拒む人々をさばかれる一つの方法は、彼らをその拒絶に引き渡すことです。神から離れて自分で選んだものを味わわせ、生けるまことの神に逆らって生きることがどれほど恐ろしいことかを、ついに彼ら自身に見させるのです。
では、なぜこのような「小さな」さばきが十回も繰り返されるのでしょうか。それは単純に、主権者であり、創造者であり、さばき主である神が、同時に忍耐深い神でもあられるからです。それぞれの災いは、ひざを折るための、もう一つの機会なのです。
良い知らせ:イエスはへびを打ち砕かれました
この力比べは、今すぐやめなければなりません。あなたは主に勝つことはできません。あなたの心はあまりにもかたくなで、あなたには救い主が必要です。そして、その救い主を、神は与えてくださいました。
すべてのものが主イエスによって、主イエスのために、そして主イエスにあって造られました。この主が、あらゆる要素を治められる方です。水をぶどう酒に変え、病人をいやし、嵐を静められました。主は、さばきと救いに対する権威をお持ちであることを証明されました。そして、アロンの杖が他の杖を飲み込んだという、あのネタバレを思い出してください。これこそ、福音そのもののメッセージです。エデンの園で、神はへびにこう言われました。「わたしは、おまえと女との間に、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼はおまえの頭を踏み砕く」(創世記3:15)。そして書物の最後、ヨハネの黙示録はこう告げます。「この巨大な竜、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれ、全世界を惑わす昔からのへびは、投げ落とされた」(ヨハネの黙示録12:9-10)。神の御子は、私たちをその支配から解放し、栄光の御国へと導くために来てくださったのです。
もしかすると、この箇所に対するあなたの応答は、何かをすることではなく、何かを語ること、宣言すること、礼拝することかもしれません。出エジプト記14章14節を思い出してください。「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなさい。」十のさばきを前にして、民には何もすることがありませんでした。ただ、自分の神が自分のために戦われるのを見つめるだけだったのです。
覚えておきたいポイント
- 本当の問いは「誰が自分を圧迫する力の前に立つことができるのか」ではなく、「誰が私たちの神、主の前に立つことができるのか」です。
- 神はあらかじめ歴史の筋書きを書いておられます。ファラオは自分が支配していると思っていましたが、実際には歴史の神の主権のもとにありました。
- この世で働く力は本物ですが、限りがあります。悪を再現することはできても、それを元に戻すことはできません。状況を改善するのではなく、悪化させるだけです。
- アロンの杖が他の杖を飲み込んだという最初のしるしは、最終的な勝利のネタバレです。昔のへびは打ち砕かれます。
- 十のさばきは、単に力を示すためだけのものではありません。それは、それぞれの段階で悔い改めの機会を与えてくださる神の忍耐でもあるのです。
個人への適用
- 今のあなたにとって、主とはどなたですか。覚えた言葉以外の言葉で、この問いに答えることができますか。
- どんな状況で、あなたは「アウェーで戦っている」ように感じ、相手の力があまりにも大きく思えますか。「しかしアロンの杖は彼らの杖を飲み込んだ」というこの一節は、あなたの見方をどのように変えるでしょうか。
- あなたは、自分の周りで働く霊的な力を軽く見過ぎているでしょうか。それとも、神の前でのその力を過大に見積もっているでしょうか。
- 最近、神があなたに与えてくださった「息つく間」を、思い当たることはありますか。あなたはそれに、悔い改めで応えましたか、それとも心をかたくなにすることで応えましたか。
- もしまだクリスチャンでないなら、あなたが思い描く神ではなく、あるがままのご自身を現してくださる神に出会うために、聖書を開く準備はできていますか。
引用された聖句
よくある質問
なぜエジプトの呪法師たちは、モーセの奇跡を再現できたのですか。
それは、オカルト的な力が本当に存在するからです。この箇所は決して見せかけの話をしていません。呪法師たちも杖をへびに変え、水を血に変え、かえるを上らせています。西洋文化は、こうしたことをすべて「そんなものは存在しない」という箱にしまい込みがちです。それは危険な偽りです。しかし、彼らの力には、本文の中にはっきりと三つの限界があります。彼らは再現はできても、決して元に戻すことはできません(血に血を、かえるにかえるを加えるだけです)。彼らは状況を改善するのではなく悪化させます。そして三番目の災いでは完全に失敗し、「これは神の指です」と認めるほかなくなります。
なぜこの箇所は「十の災い」ではなく「十のさばき」と呼ぶべきなのですか。
「災い」という言葉は、自然の惨事、天災を連想させます。しかし本文は7章4節ではっきりと、神が「大いなるさばきをもって」ご自身の民を導き出すと語っています。これはエジプトを襲った単なる不運ではありません。創造者である神の正義が、ご自身に反逆した世界に対して、その権利を求めているのです。そしてそれは、まさにエジプトの偶像(神格化されたナイル川、かえるの女神ヘケト、人が造られたちり)を狙い撃ちしています。
その間、民は何をしているのですか。何もしていないのですか。
まさにそのとおりです。民には何もすることがなく、ただ自分の神が自分のために戦われるのを見つめるだけです。出エジプト記14章14節のパラダイムです。「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなさい。」神が歴史の中で成し遂げておられることを前にして、最初に取るべき正しい応答は、神のために何かをしようと走り出すことではありません。ひざをかがめ、神を畏れ、神を礼拝することです。神がどなたであるかを知ることは、いつでも行動の前に来るのです。
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