はじめに:信仰が壁にぶつかるとき
ケンタさんは新しくクリスチャンになった青年です。彼はうつと不安に苦しんできましたが、イエス・キリストのうちに、それまで知らなかった喜びをついに見出しました。これからの歩みはもっと穏やかになると期待していました。ところが、イエスに従うという選択は、すぐに新しい問題を引き寄せました。家族は彼の決断に反対し、彼を責め続けました。友人の中には、彼が「おかしくなった」と思う人もいます。信仰が人間関係にもたらした緊張のせいで、彼は再びうつと不安に苦しむようになりました。そして、イエスに従うことに本当に意味があるのだろうかと、疑い始めています。
由美さんは長年クリスチャンをしていますが、少しも前進していないように感じています。同じ罪が繰り返され、同じ悪い習慣が離れません。上司はいつも彼女を苦しめます。独身であることにも満足できません。結婚相手のための祈りに、神がまだ答えてくださらないのはなぜかと考えています。「本当に神はおられるのだろうか。本当に私のことを見てくださっているのだろうか」という疑いが、繰り返し心に浮かびます。
もしかすると、あなたもケンタさんや由美さんのように感じているかもしれません。神の約束が遠く感じられ、敵の方が神よりも強く見える。そんな季節を過ごしているかもしれません。出エジプト記5章と6章は、まさにそういう場面です。神の民は苦しんでいます。疑い始めています。それでも神は沈黙されず、ご自分が誰であるかを繰り返し語られます。
この箇所の構成
1. 強く狡猾な敵の前で(出エジプト記5章1〜23節)
2. 神はご自分の名と約束を改めて示される(出エジプト記6章1〜9節)
3. 弱い使者たちを通して成し遂げられる約束(出エジプト記6章10〜28節)
1. 強く狡猾な敵の前で(出エジプト記5章)
イスラエルの長老たちに温かく迎えられ、自信を得たモーセとアロンは、まっすぐパロのもとへ向かいます。ひと言告げれば、パロは民を解放してくれる、そう思っていたかもしれません。1節にはこうあります。「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしの民を去らせて」。沈黙と緊張の一瞬。そして返ってきた答えは、冷たく突き放すものでした。「主とはいったい何者だ。わたしがその声に聞き従い、イスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。イスラエルを去らせはしない」。
モーセとアロンは互いに顔を見合わせます。今度は神が与えてくださった言葉をそのまま繰り返して、もう一度訴えます。それでも何も変わりません。問題は言い方ではないのです。パロは主を知らないのです。これは無知の問題です。もし彼が本当に、自分が誰に向かって話しているのか(万物の創造主、宇宙の神)を知っていたなら、あのような返答はしなかったでしょう。忘れてはならないのは、パロがおそらく当時の世界で最も強大な支配者だったということです。名も知らぬ神について語る、一人の年老いた羊飼いの言うことを、なぜ聞かなければならないのでしょうか。60万人にも及ぶ労働力を、なぜ手放さなければならないのでしょうか。彼にとって、それはまったく理にかなわないことでした。パロには啓示が必要だったのです。
耳を貸そうとしないだけでなく、パロは力と策略をもって抵抗し始めます。モーセとイスラエルの民について嘘を広めます。この訴えそのものを、労働を逃れるための言い訳にすぎないと決めつけます。8節。「彼らは怠け者だ。だから叫んで、『行って自分たちの神にいけにえをささげよう』と言っているのだ」。パロは自分自身の被害者を責めているのです。そして、さらに困難を二重にします。イスラエルの民は、れんがの数を減らされることなく、自分たちでわらを集めなければならなくなりました。民は肉体的な苦しみを味わいます。イスラエル人の監督たちは打たれることになります。
この対立は、そもそも政治的なものではありません。これは霊的な戦いです。パロは主を、自分に対抗する者として見ています。1節でモーセは「主はこう言われる」と語ります。10節では、パロの使いたちが同じ言い回しで「パロはこう言われる」と言います。彼は自らを、神に対抗する者として立てているのです。そして戦略の仕上げとして、パロは分裂を生み出します。民はモーセとアロンに背を向け、まるでこの不幸がすべて彼らのせいであるかのように振る舞います。21節。「主があなたがたを見て、さばいてくださるように。あなたがたは、パロとその家臣たちの目に、私たちをいとわしいものとし、私たちを殺すための剣を、彼らの手に渡したのです」。
モーセ自身も、ついに耐えきれなくなります。主のもとに戻り、まるで悪の原因を主に問うかのように訴えます。「主よ、なぜこの民に災いを下されたのですか。なぜ私を遣わされたのですか……あなたはこの民を少しも救い出してくださいませんでした」。モーセは、神が約束を守ってくださるかどうか、疑い始めているのです。
この記事は、神の民の歩みを貫く一つのパターンを浮かび上がらせます。約束が遅れ、苦しみがあなたの生活に入り込み、敵があまりにも強く見えるとき、あなたは疑い始めます。本当に神は善い方なのだろうか。本当に私を救うことができるのだろうか。これは特に、信仰を持ったばかりの人によく起こることです。多くの場合、物事は良くなる前にまず悪くなります。中毒や自己中心、罪から解放されたくて神に従う決断をしたのに、以前の生き方から抜け出すことが思っていたよりずっと難しいと気づく。自分の力ではどうにもできないと感じる。約束はなかなか実現しない。周りの人は嘲笑う。
けれども、この抵抗は驚くべきことではありません。神はあらかじめそれを告げておられたからです。出エジプト記3章19節。「わたしは、エジプトの王が、力強い手で強いられなければ、あなたがたを行かせないことを知っている」。出エジプト記4章21節。「わたしは彼の心をかたくなにする。それで彼は民を去らせないであろう」。そしてクリスチャンにとっては、新約聖書も同じように警告しています。第一ペテロ4章12節。「愛する者たちよ、あなたがたを試みるために降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しんではなりません」。イエスご自身も弟子たちにこう言われました。「彼らがわたしを迫害したのなら、あなたがたをも迫害するでしょう」(ヨハネ15:20)。困難が訪れるという約束は、すでに与えられているのです。ただ、私たちはすぐに忘れてしまいます。神のことばを何度も思い出させてもらう必要があるのです。
2. 神はご自分の名と約束を改めて示される(出エジプト記6章1〜9節)
この危機の中で、モーセは正しいことをします。神に叫び求めるのです。不満も、疑いも、そのまま神にぶつけます。すると神は、モーセを罰したり見捨てたりするどころか、耳を傾けてくださいます。パロは聞こうとしませんでしたが、神は聞いてくださいます。疑いと落胆に対する解毒剤は、神と語り合い、神がどのような方であるかを思い出すことなのです。
興味深いのは、ここで神が新しい啓示を与えておられるわけではないということです。神はすでに語られたことを、忍耐強く繰り返しておられるのです。まず神は、この苦しみの中にご計画があることを明らかにされます。出エジプト記6章1節。「今、あなたはわたしがパロに行うことを見るであろう。力強い手によって、パロは彼らを去らせるようになり、力強い手によって、彼らを自分の国から追い出すようになる」。神はすぐにでもパロを打ち砕くことができたはずです。しかし、この困難を通して、もっと大きなご計画をお持ちなのです。
続いて神は、ご自分の名を改めて示されます。2節。「わたしは主である」。これはまさに、パロが投げかけていた問いへの答えです。「主とは何者か。私はそれを知らない」。神はこれに、まずパロにではなく、モーセに答えられます。「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、わたしの名は主であることを、彼らに知らせなかった」。この名はすでに創世記に出てくるので、少し不思議に思えるかもしれません。しかし、ここで重要なのは、名が初めて口にされたということではなく、神がご自分の契約を成し遂げる方として、ご自分を完全に現される瞬間だということです。「主」という名(ヘブル語で「わたしはある」という動詞に由来します)は、時間と空間を超えた存在、すべてのものの源であることを示しています。神を、被造物によって定義することはできません。神は被造物を超えておられるからです。それでも、この超越された神は、ご自分を知らせたいと願っておられます。私たちの言葉を用い、ご自分を低くし、歴史の中で働かれるのです。
そして、神が成し遂げようとしておられる歴史とは、契約の歴史です。出エジプト記6章6〜8節は、未来形の約束を一人称で次々と重ねていきます。「わたしはあなたがたを、エジプト人の労役から連れ出し、その奴隷の身分から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきをもって、あなたがたを贖う。わたしはあなたがたを、わたしの民として取り、あなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓った地に、あなたがたを導き入れ、これをあなたがたの所有として与える。わたしは主である」。七つの未来形の動詞、七つの「わたしは」。イスラエルの民が完全に無力である中で、神はご自分がすべてを、一方的に成し遂げると宣言されます。神は全能であるだけでなく、真実な方です。その力を、パロのように自分自身のために用いるのではなく、ご自分の民との約束を守るために用いられるのです。
その反応はどうだったでしょうか。9節。「モーセはこのようにイスラエルの人々に語ったが、彼らは苦しい労働のために気力を失い、モーセの言うことを聞かなかった」。私たちの苦しみの真っただ中で、敵が私たちよりも大きく見えるとき、神がそこで働いてくださると信じることは、簡単ではありません。あなたも、この不信仰に自分を重ねているかもしれません。神のことばが不可能に思え、自分の現実とかみ合わないように感じられる。もしかしたら、それはただの美しい話にすぎないのではないかと思い始める。悪人が勝ち、不義がはびこり、人間関係が壊れていくこの世界には、本当の解決などないのではないか。そして内側では、自分の罪深い性質があなたを押しつぶし、本当にいつか解放される日が来るのだろうかと問い続けているのです。
これに対して神は、「もっと頑張りなさい」とは言われません。新しい戦略を提示されるのでもありません。神はこう言われます。「あなたは見ることになる。わたしがすでに行ったことを思い出しなさい。わたしがすでに語ったことを覚えていなさい。そして、わたしがどのように働くかを見なさい」。
3. 弱い使者たちを通して成し遂げられる約束(出エジプト記6章10〜28節)
神は再びモーセに命じられます。「行って、エジプトの王パロに語り、イスラエルの人々を彼の国から去らせるように言いなさい」。すると、少し情けないことに、モーセはこう答えます。「ご覧のとおり、イスラエルの人々でさえ私の言うことを聞かなかったのに、話すことの下手な私の言うことを、パロが聞くでしょうか」。燃える柴のときと同じ言い訳を、モーセは繰り返しているのです。モーセはすでに80歳の老人でした。おそらく、話すことに何らかの障がいを抱えていたのでしょう。これが出エジプト記の主人公です。年老いて弱く、疑いに満ちた一人の男。神が選ばれたのは、まさにこの人物でした。
ここには、どこかユーモラスな響きさえあります。物語は緊張の頂点に達しています。民は苦しみ、パロは優勢で、主人公の信仰は揺らいでいる。これからどうなるのか。ちょうどそこで、まるでコマーシャルの中断のように、本文は系図(14〜27節)によって中断されます。なぜでしょうか。この系図は、いくつかの大切なことを思い出させてくれます。
まず、出エジプトの出来事が神話ではなく歴史であることを示しています。この系図は、イスラエルの長子ルベンから、士師記に登場し当時の読者にもよく知られていたピネハスまで、一本の線をたどっています。著者は、この物語を実際の歴史の中にしっかりと位置づけているのです。これらは実際に起こった出来事であり、実在の民に起こったことなのです。だからこそ、系図は26〜27節で、厳粛な繰り返しをもって締めくくられます。「これはあのアロンとモーセである……彼らこそ、エジプトの王パロに語り、イスラエルの人々をエジプトから連れ出した者たちである」。
次に、この系図は、神の民の不完全な姿を思い起こさせます。神が彼らを救われるのは、彼らが模範的だからではありません。この一覧を読むと、すぐに彼らの失敗を思い出します。14節、ルベン。父のそばめと関係を持ったことで知られています。15節、シメオン。シェケムの住民をだまし、虐殺したことで知られています。同じ節には「カナン人の女の子サウル」も記されており、これは神の律法で禁じられていた結婚です。しかも、これはほんの最初の二節にすぎません。モーセとアロンは実在の、歴史的な、弱い人物であり、不完全な民の一員です。それでも神は、まさにこの二人に語りかけ、この二人をお遣わしになったのです。
この中断のあと、物語は再開し、モーセは相変わらず同じ言い訳を続けます。29〜30節。「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをすべて、エジプトの王パロに告げなさい。すると、モーセは主の前でこう言った。ご覧のとおり、私は話すことの下手な者です。パロが私の言うことを聞くでしょうか」。メッセージは明白です。神は、弱い使者たちを通して、ご自分の計画を成し遂げられるのです。
これは聖書全体を貫くパターンであり、その頂点はイエスにあります。ナザレのイエス。この方は、世の目には弱く取るに足りないように見えながら、実は神の御子であり、モーセにまさる預言者でした。宣教の初め、イエスはイザヤ書の巻物を開いてこう読まれました。「主の霊がわたしの上にある。主がわたしに油を注ぎ、貧しい人々に福音を伝えさせるためである。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、目の見えない人には目の開かれることを告げ知らせ、しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために」。そして続けて言われました。「今日、聖書のこのことばが実現しました」。イエスは、モーセにまさる方です。使命から逃げることなく、この世の権力の前で、神のメッセージを忠実に告げ知らせられました。パウロはこう記しています。「神は世の弱い者を選ばれました。強い者をはずかしめるためです……それは、どんな肉も神の前で誇ることのないようにするためです」(第一コリント1:27〜29)。神は、弱く見えるものを通して働くことを喜ばれます。それは、すべての人が、解放をもたらすのは主ご自身であると知るためです。栄光は、ただ主おひとりのものです。
神の約束の実現は、遅れているように見えることがあるかもしれません。それでも、あなたは神に信頼することができます。神はあなたの益のため、そしてご自分の栄光のために働いておられます。神は約束を守ってくださる方だからです。
覚えておきたいポイント
- 苦しみが長引き、約束が遅れると、疑いが生まれます。これは新しいことではなく、神の民に繰り返し起こってきたパターンです。
- 疑いへの解毒剤は、もっと努力することではなく、もっと啓示を受けることです。神がどのような方であり、何をしてくださり、何を約束してくださったかを、改めて聞く必要があります。
- 「主」という名は、契約を守られる神の名です。神の力は、その真実さのために用いられます。
- 神は弱い使者たちを通してご計画を成し遂げられます。それは、栄光がただ神おひとりに帰されるためです。
- イエスは、モーセにまさる方です。使命から逃げることなく、真実の解放をもたらしてくださいました。
個人的な適用
- 疑いを感じるとき、あなたはまず何に答えを求めますか。自分の力でしょうか、自分の戦略でしょうか、それとも神のことばでしょうか。
- 神があなたの人生ですでに実現してくださった具体的な約束を、三つ挙げられますか。それを定期的に思い出すことは、あなたの習慣になっていますか。
- 今、あなたが直面している苦しみのために、神が不在である、あるいは自分に敵対していると感じることはありませんか。この箇所は、それについて何と語っていますか。
- 周りの人にイエスについて語るには、自分は「口が重すぎる」と感じていませんか。モーセの物語は、あなたをどのように自由にしてくれますか。
- もしまだクリスチャンでないなら、たとえばヨハネの福音書を開いて、イエスご自身に語っていただく準備はできていますか。
引用された聖句
- 出エジプト記5章(口語訳)
- 出エジプト記6章(口語訳)
- 出エジプト記3:19(口語訳)
- 出エジプト記4:21(口語訳)
- 第一ペテロ4:12(口語訳)
- ヨハネ15:20(口語訳)
- ルカ4:18〜21(口語訳)
- 第一コリント1:27〜29(口語訳)
よくある質問
イエスに従うと決めた後、なぜクリスチャン生活はかえって難しくなることがあるのですか。
それは、神が私たちに、対立のない人生を約束しておられるのではなく、対立の中で共にいてくださる人生を約束しておられるからです。出エジプト記5章と6章は、それをはっきりと示しています。解放の知らせは、まずパロの敵意を引き起こしました。出エジプト記3章19節と4章21節で、モーセにそのことを告げておられました。イエスも弟子たちに同じ警告を与えられ(ヨハネ15:20)、ペテロも「試みの火」に驚かないようにと勧めています(第一ペテロ4:12)。対立は、神が約束を破られた証拠ではなく、この道のりの一部なのです。
出エジプト記6章2節の「わたしは主である」とは、正確にはどういう意味ですか。
「主」という名は、「ある」という意味のヘブル語の動詞に由来します。これは、神が時間と空間を超えた方であり、存在するすべてのものの源であることを表しています。しかし出エジプト記6章の文脈では、この名は何よりも契約と結びついています。これは、ご自分の約束を覚え、それを成し遂げてくださる神の名なのです。神が「わたしは主である」と言われるとき、それは単なる形而上学的な宣言ではありません。ご自分がご自分の民に対して真実な方であり、約束を守られる神であることを、改めて示しておられるのです。
神が遅れているように感じられるとき、どのように疑いと向き合えばよいのでしょうか。
この箇所は、はっきりとした答えを示しています。それは努力によってではなく、啓示によってです。神はモーセに「もっと強く信じなさい」とは言われません。ご自分が誰であるか、すでに何をなさったか、そしてこれから何をなさるかを、改めて思い出させてくださるのです。具体的には、聖書に立ち返って神のことばに再び耳を傾けること、聖書の中で、また自分自身の人生の中で神が守ってくださった約束を思い出すこと、そしてモーセがしたように、率直に自分の疑いを神に打ち明けることです。パロは聞こうとしませんでしたが、神は聞いてくださいます。
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