はじめに
今夜、自分に残された時間があと24時間だと知らされたら、あなたはどうしますか。どこへ行きますか。誰に電話をかけますか。イエスは、それをご存じでした。ヨハネはこう書いています。「過越の祭りの前のことである。イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知り、世にいるご自分のものを愛して、その愛を残るところなく示された」(ヨハネ13:1)。イエスは最後の楽しみにふけったわけではありません。たらいと手ぬぐいを手に取り、ひざまずいて、ご自分が愛する者たちの足を洗われました。裏切り者の足さえも。そして、新しい戒めを与えられました。「互いに愛し合いなさい。」
このヨハネ13章は、シンプルでありながら決定的な一つの真理をあなたに突きつけます。「イエスがあなたを愛されたように」互いに愛し合うことは、まずこの愛を受け取ることから始まる、ということです。この記事は、あなたをこの最後の晩餐の場面へと招き、なぜイエスが弟子たちの足を洗われたのかを理解し、受け取った愛がどのようにして与える愛の原動力となるのかを見ていきます。
記事の構成
1. 背景:過越の祭り、来たその時、極みまでの愛
ヨハネはこの場面を「過越の祭りの前」に位置づけます。モーセの時代から、この祭りは、イスラエルの家々の門に塗られた小羊の血によって、死がその家を過ぎ越して行った夜を思い起こさせるものでした。それぞれの家庭は小羊をほふり、その血を塗り、こう覚えていました。私たちは、ただ恵みによって免れたのだと。これらすべては、影にすぎませんでした。まことの小羊、それはイエスです。引き渡される24時間前、イエスは十二弟子とともにこの過越の食事を先取りしてとられます。翌日、神殿で小羊がほふられるちょうどその時刻に、イエスご自身が木にかけられるのです。
「自分の時が来たことを知り」。イエスは、起こる出来事に振り回されているのではありません。ご自分の最後の時間を何に用いるか、はっきりと選び取っておられます。そしてその選びとは、逃げることでも、身を守ることでも、「やり残したことリスト」をこなすことでもありません。その選びとは、何も惜しむことなく、極みまで、最後まで愛することでした。
2. しるし:足を洗う主
食事の最中、イエスは立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取り、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い始められます(ヨハネ13:4-5)。この衝撃の大きさをよく理解する必要があります。当時のユダヤ人の家庭では、足を洗うことは、最も身分の低い僕に任される仕事でした。この部屋にいた誰一人として、まだ自分からそこまで身を低くする者はいませんでした。名誉が何より優先されていたのです。
そこに、誰もしたがらなかった行為を、主ご自身がなさいます。それは、そうせざるを得なかったからではなく、ご自分が何者であるかをよくご存じだったからです。「イエスは、父がすべてのものをご自分の手に渡されたこと、また、ご自分が神から出て神に帰ろうとしていることを知り」(ヨハネ13:3)、身を低くされます。父にあって揺るがないアイデンティティが、この奉仕を可能にしたのです。もはや自分を証明する必要のない心だけが、真に人に仕えることができます。
3. 抵抗:ペテロと、愛されることへの私たちの拒絶
ペテロは反発します。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。決して私の足をお洗いにならないでください」(ヨハネ13:6-8)。この反応は謙遜に見えます。しかし実際には、それは抵抗です。イエスから受け取ることは、ペテロがまだ受け入れられずにいた何かをあらわにします。彼には、洗われる必要があるのです。彼は、自分のために身を低くする方ではなく、強く、栄光に満ち、戦う救い主を望んでいました。
イエスははっきりと言われます。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関係もないことになる。」つまり、愛されることを拒むなら、あなたは外にとどまることになるのです。ペテロはすぐに正反対の極端に走ります。「主よ。それでは、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」ここでもなお、決めているのは彼自身です。イエスは彼を、そっと本質へと引き戻されます。ただ身を任せなさい。受け取りなさい。
4. 名誉の席にいる裏切り者
この記事には、心を打つ細部が残されています。食卓では、「イエスが愛しておられた弟子」であるヨハネが、イエスの右側にいました(ヨハネ13:23)。しかし、イエスがパン切れを浸してユダに与えられたとき、その位置は、おそらくイエスのすぐ左側、つまりごく近くにいなければ届かない場所だったと分かります。ところが当時の習慣では、食卓の主のすぐ左側の席こそが、最も名誉ある席でした。
つまり、イエスは、ご自分を裏切る者を、名誉の席に置かれたのです。その足を洗われました。友のためだけに用意される愛情の表れである、浸したパン切れを与えられました。最後の瞬間まで、この方はユダを愛し続けられました。このことが裏切りの痛みを和らげるわけではありません。しかし、これはキリストの愛の本質を、余すところなく物語っています。この愛は、あなたの応答次第で変わるものではないのです。
5. 新しい戒め:愛されているから愛する
ユダが席を立った後、イエスは弟子たちに、あの有名な戒めを与えられます。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が知るようになります」(ヨハネ13:34-35)。
ここで新しいのは、「愛する」という動詞そのものではありません。新しいのは、その基準です。「わたしがあなたがたを愛したように。」基準はもはやあなた自身(「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」)ではなく、身を低くし、足を洗い、いのちを与えられるキリスト、この方なのです。そしてこの愛は、自分の力で作り出せるものではありません。まず受け取ることから始まるのです。
6. 否認の予告:ペテロと私たちの思い上がり
ペテロは、イエスのためにいのちを捨てると力強く断言します。イエスはこう答えられます。「あなたはわたしのためにいのちを捨てるのか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(ヨハネ13:37-38)。イエスが語られる愛は、一瞬の熱意で即席に作り出せるものではありません。それは、まず受け取った愛を受け入れ、日々それに寄りかかることを学んでいく魂の中で育つものです。
心に留めておきたいこと
- イエスはご自分の最後の一日を選び取られました。目前に迫る死を前にして、この方は愛を何も惜しまず、ご自分の民のために「極みまで」注ぎ尽くされました。
- アイデンティティが奉仕を可能にします。ご自分がどこから来てどこへ行くのかを知っていたからこそ、イエスは自分を失うことなく身を低くすることができました。
- 受け取ることを拒む者は、与えることもできません。ペテロは、まず洗われることを受け入れなければなりませんでした。そうでなければ、イエスとの「関係」はないのです。
- キリストの愛は、あなたの応答を待ちません。この方は、ご自分を裏切る者の足を洗い、名誉の席を与えられました。
- 兄弟愛は目に見えるしるしです。「これによって、すべての人があなたがたがわたしの弟子であることを知るようになる。」クリスチャンのしるしは、今も、兄弟姉妹の間にある愛です。
あなたへの適用
- 今日、あなたはどこでペテロのように、イエスがあなたのために身を低くされることを拒んでいますか。イエスに洗ってもらう代わりに、隠しておきたいものは何ですか。
- 今、あなたのアイデンティティは何に基づいていますか。あなたが生み出すもの、人があなたについて考えること、それとも「あなたが父から出て、父のもとへ帰る」という事実にでしょうか。
- あなたの人生に「ユダ」はいますか。あなたを傷つけた、あるいは裏切った誰かが。イエスが、引き渡される前にご自分のユダをどう扱われたかを思い出すことで、何が変わるでしょうか。
- あなたの周りの人々は、あなたの生き方を見て、クリスチャンの間にある愛を具体的にどう感じているでしょうか。今週、あなたはどんなごくシンプルな奉仕の行動を起こせますか。
- 他の人を愛するために出て行く前に、あなたは毎日どれだけの時間、イエスに「わたしはあなたを愛している」ともう一度語らせていますか。
引用された聖句
- ヨハネ13:1-3 · イエスは、その愛を残るところなく示された。
- ヨハネ13:4-5 · 足を洗う場面。
- ヨハネ13:6-10 · ペテロとの対話。
- ヨハネ13:21-30 · ユダに与えられたパン切れ。
- ヨハネ13:34-35 · 新しい戒め。
- ヨハネ13:36-38 · ペテロの否認の予告。
- 出エジプト12章 · 過越の祭りと小羊の血。
よくある質問
なぜイエスは、最後の食事の際に、他のことではなく弟子たちの足を洗われたのですか。
それは、ご自分の愛について、明確で決定的なイメージを弟子たちに残したかったからです。身を低くし、仕え、その歩みを最後まで貫くために、何の見返りも必要としない愛です。この行為は、その24時間後に十字架の上で成し遂げられることのすべてを凝縮しています。
イエスがペテロに「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関係もないことになる」と言われたのは、どういう意味ですか。
これは衛生のことを語っているのではありません。これから起こるイエスの死による清めについて語っているのです。イエスに洗ってもらうことを拒むとは、この方によって救われることを拒むことです。信仰は常に、一つの告白から始まります。「私は洗われる必要がある。自分で自分を救うことはできない。」
日々の生活の中で、どうすれば「イエスが愛されたように愛する」ことができますか。
まず、受け取ることから始まります。あなたは毎日、キリストが最初に、無条件にあなたを愛してくださったことを思い起こす時間を取ります。そして、神があなたの道に置かれる人々、あなたを失望させる人々にさえも、仕えることと赦すことのシンプルな行動を積み重ねていきます。兄弟愛とは偉業ではありません。それはあふれ出るものなのです。
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