はじめに
浜寺聖書教会(日本)の牧師、近藤崇志(Takashi Kondo)牧師は、シリーズ「建築家として生きる信仰者」を続けています。主イエスは設計者であり施工主として、ご自分の教会を建て上げておられます。人々を隔てていた壁を取り壊し、一人ひとりの信仰者を、御言葉、交わり、パン裂き、祈りという大工の四つの道具とともに、その建築現場に置いてくださいました。
第6回のメッセージは、建築現場そのものに目を向けます。現場では、自分とは考え方の違う人たちと一緒に働きます。私たちは同じ環境で育ったわけではなく、同じ経験をしてきたわけでもなく、御言葉の理解も同じではありません。これほど違う人たちが集まれば、分裂や対立はすぐに起こります。
ローマ人への手紙14章は、とても実際的な問いに答えています。同じ主を愛していても確信が同じではない信仰者どうしが、どうすれば共に生きていけるのでしょうか。牧師はこの章から七つの真理を挙げており、このメッセージでは最初の二つを取り上げます。
メッセージの流れ
1. 聖書がはっきり語っていることと、私たちの知恵にゆだねられていること
- 信仰者にとって、聖書は神の言葉であり、絶対的な権威を持っています。そこには、殺してはならない、盗んではならない、互いに愛し仕え合いなさい、といった明確な命令があります。これらの点については、誰も議論しません。
- けれども聖書は、あらゆる状況を網羅した取扱説明書ではありません。転職で迷っているとき、聖書は会社の名前を教えてはくれません。誰と結婚すべきか祈って聖書を開いても、そのページに相手の名前は書かれていません。
- 聖書が与えているのは、神を恐れつつ選ぶための原則と知恵です。問題はそこから始まります。同じ聖書、同じ主を持つ信仰者でも、聖書がはっきり述べていないことについては、同じ結論に至るとは限らないのです。
- クリスチャンはどんな音楽を聴いてよいのか。日曜日には何をして、何をしてはいけないのか。礼拝にはどんな服装で行くのか。どんな娯楽がふさわしいのか。教会でこうした問いを投げかけても、答えは一つにまとまりません。
- こうした違いは、いつの間にか裁きへと滑り落ちていきます。自分が正しいと確信するあまり、心の中で相手を責め、「私を理解しない人」から距離を置き、少しずつ分裂が入り込んでいきます。
2. ローマの教会、違いに満ちた建築現場
- ローマの教会には、ユダヤ人と異邦人が同じ教会に集まっていました。交わることのなかった二つの集団が、イエスにあって一つの家族になったのです。しかし、救われる前に生きてきた年月が、一瞬で消えるわけではありませんでした。
- ユダヤ人の信仰者は、食物の規定や安息日を含むモーセの律法のもとで育ってきました。レビ記11章には、食べてよい動物の一覧があります。これらの律法を守ることで、イスラエルは自分たちが聖なる民であることを示していました。
- これらの律法はイエスにおいて成就しました。イエスは、外から人の中に入るものは人を汚すことができない、と教えておられます(マルコ7:18-19)。それでも想像してみてください。決して食べてはいけないと教えられてきたものを、突然、食べてよいと言われるのです。多くの人がためらいました。
- ペテロ自身も、幻の中で抵抗しました。「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないものや汚れたものを、何一つ食べたことがありません」。すると、声が二度目にかかってきました。「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」(使徒行伝10:14-15)。この教えを十分に受け入れるまでには、時間が必要でした。
- 一方、異邦人の信仰者は、偶像礼拝の世界から出てきた人たちでした。偶像に供えた肉が市場で売られ、宗教的な祭りには食事が伴い、特定の日は神聖とされていました。かつての生活を思い出させるものに、もう触れてよいのだろうかと、多くの人が迷いました。
3. 第一の真理:兄弟姉妹の間には違いがある
- 「何を食べてもさしつかえないと信じている者もあれば、弱い人は野菜だけを食べる」(ローマ14:2)。「また、ある日を他の日よりも大事だと考える人もあれば、どの日も同じだと考える人もある。各自はそれぞれ心の中で、確信をもっていなければならない」(ローマ14:5)。
- 意見が違うことは罪でしょうか。いいえ。さまざまな背景を持つ人たちが主にあって一つになるとき、違いがあるのは当然です。同じ主を信じていても、過去は同じではないのです。
- これは私たちにも当てはまります。私たちは同じ福音によって救われましたが、同じ家庭、同じ文化、同じ伝統の中で育ったわけではありません。成熟の度合いも、御言葉の理解も違います。
- 牧師は、これを知識として知っているだけでなく、本当に信じることを求めています。兄弟が違う考え方をしているのを見ると、最初の反応はたいてい「なぜあんなことをするのだろう」「あの人はどこかおかしい」というものだからです。
- 「問題は、違いがあるかどうかではありません。違いはあります。問題は、その違いをどう扱うかです。」
4. 「信仰の弱い人」とは誰か
- ローマ人への手紙14章1節は「信仰の弱い者」について語っています。これは、イエスをあまり信頼していない人のことではなく、誘惑に負けやすい人のことでも、体が弱い人のことでもありません。
- それは、霊的にまだ未熟で、良心がデリケートなままの信仰者です。御言葉や福音を少しは知っていますが、理解が限られているために、日々の生活で何が許されているのかを、確信をもって選ぶことができません。
- 牧師はレオン・モリス(Leon Morris)を引用します。パウロが語っているのは、キリストへの信頼が弱い人ではなく、信仰者としてどう生きるかをまだつかみきれていない人、つまり信仰を具体的な生活にまだ当てはめていない人のことだというのです。
- ローマでは、信仰者は何を食べても自由であり、それは罪ではありませんでした。それでも弱い人は、昔の習慣を手放すことができませんでした。キリストにある自由を教えられても、なお良心がうずいたのです。
5. 第二の真理:受け入れなさい、裁いてはいけない
- 「信仰の弱い者を受けいれなさい。その意見を批判してはならない」(ローマ14:1)。これは提案ではなく、命令です。
- 「受け入れる」という言葉は、人を自分の輪の中に迎え入れ、関心を持ち、自分のそばに引き寄せることを意味します。嫌々ながらの歓迎ではなく、優しさと愛にあふれた歓迎です。
- 使徒行伝28章2節にも出てきます。マルタ島の人々は、「にわかに雨が降り出して寒くなってきたので、火をたいて、わたしたちみんなを迎えてくれた」のです。また、ピレモンへの手紙17節で、パウロはオネシモを送り返すときにこう書いています。「だから、もしあなたがわたしを親しい友と思っているなら、わたしを迎えるように、彼を迎えてやってほしい」。
- 「裁く」「批判する」と訳される動詞には、分離、分裂、口論、対立を思わせる意味もあります。互いを受け入れないとき、まさにそれが生まれます。
- 牧師は一人ひとりに問いかけます。聖書が白黒をつけていないことについて、自分のやり方を基準にしていませんか。何も口にしなくても、違う歩み方をしている兄弟を心の中で裁いていませんか。
6. 裁きは両方向に働く
- 「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない」(ローマ14:3)。危険は両側にあります。
- 強い人は弱い人を見下すことがあります。「あれは律法主義者だ」「聖書は禁じていないのだから、あれこれ言わないでほしい」「未熟な信仰者だ」。自分の自由を楽しむ邪魔になる存在として見てしまうのです。
- 弱い人は強い人を裁くことがあります。「あの人は神を恐れていない」「罪を犯している」。ときには、その人との交わりを断ってしまうほどになります。
- どちらの態度も同じ過ちを犯しています。強い人も弱い人も、自分と違う人を受け入れることを拒むとき、福音を忘れています。誰かを裁くとき、私たちの心から福音は消えています。
7. 神が彼を受け入れてくださった、あなたも受け入れなさい
- 3節はこう結ばれています。「神は彼を受けいれて下さったのであるから」。これは1節と同じ言葉です。互いを受け入れることの土台は、神が私たちを受け入れてくださったということです。
- 私たちが受け入れられたのは、完全だったからでも、考え方が非の打ちどころのないものだったからでもありません。私たちは羊のようにさまよう罪人であり、神に背いていました。イエスは私たちの身代わりに十字架につけられ、私たちが信じたとき、神は私たちをご自分のものとして受け入れてくださいました。
- 同じ恵みを受けておきながら、兄弟に向かって「あなたの考え方は好きではないから、受け入れられない」「私の基準に達していないから、交わりたくない」と言うでしょうか。それはおかしなことです。
- 牧師は念を押します。聖書がはっきり罪と断じていることを、違いという名前で覆い隠してはいけません。それは御言葉に従い、恵みをもって向き合います。しかし、聖書が罪と呼んでいないことで兄弟を裁いてはいけません。自分の意見が神の命令であるかのように扱うべきではないのです。
- 「恵みを知った者こそ、互いへの接し方において、最も恵み深くあるべきです。」
- 私たちを一つにするのは、性格でも文化でも好みでもなく、イエス・キリストです。牧師はマーク・デヴァー(Mark Dever)とポール・アレクサンダー(Paul Alexander)の著書(The Deliberate Church)を引いて結びます。キリスト以外に何も共通点がないのに、福音によって愛のうちに生きることができるなら、それは、自己中心的な罪人を互いに愛し合う共同体へと変える福音の力の証拠だというのです。
覚えておきたいポイント
- 聖書は明確な命令を与え、それ以外のことについては知恵を与えています。そうした事柄では、忠実な信仰者どうしでも異なる確信に至ることがあります。
- 兄弟姉妹の間に違いがあるのは普通のことです。大切なのは、その違いをどう扱うかです。
- 信仰の弱い人とは、イエスを疑う人ではなく、信仰を具体的な生活に当てはめる自由を、良心がまだ得ていない人のことです。
- 受け入れるとは、嫌々我慢することではなく、マルタ島の人々が火のそばで迎えたように、相手を温かく迎え入れることです。
- 見下す強い人も、裁く弱い人も、同じ過ちを犯しています。神が同じ恵みによって相手を受け入れてくださったことを忘れているのです。
個人への適用
- 聖書が白黒をつけていないことのうち、どの点で自分のやり方を基準にしてしまいがちですか。
- 何も言わなくても、心の中で裁いている兄弟姉妹はいませんか。「神は彼を受け入れてくださった」という思いは、何を変えるでしょうか。
- あなたは、見下す強い人と、裁く弱い人のどちらに近いと感じますか。
- 今週、使徒行伝28章2節のような温かさで、誰を受け入れることができるでしょうか。その人に本当に関心を向けてみてください。
- 神があなたをどのように受け入れてくださったかを思い起こし、その恵みを感謝する時間を持ちましょう。
引用した聖句
よくある質問
ローマ人への手紙14章の「信仰の弱い人」とは誰ですか。
近藤崇志牧師によれば、イエスをあまり信頼していない人のことではありません。まだ未熟で、良心がデリケートなままの信仰者です。福音は知っていても、日常生活で何が許され、何が許されないのかを、確信をもって決めることがまだできません。
ローマ人への手紙14章1節の「受け入れる」とはどういう意味ですか。
この言葉は温かい歓迎を表します。人を自分の輪に迎え入れ、関心を持つことです。同じ動詞が、マルタ島で難破した人々を火のそばで迎えた場面(使徒行伝28:2)や、パウロがピレモンに、オネシモを自分自身のように迎えてほしいと頼む場面(ピレモンへの手紙17)で使われています。
違いを理由に、すべてを受け入れなければなりませんか。
いいえ。説教者は、聖書がはっきり罪と断じていることを、違いを口実に容認してはならず、御言葉に従って恵みをもって向き合うのだと述べています。ローマ人への手紙14章が扱うのは、聖書がはっきりとは語っていない事柄であり、そこでは誰も自分の意見を神の命令であるかのように押しつけてはならないのです。
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