民数記26章から30章についての聖書研究。日本語で説教されたものを、フランス語に翻訳・翻案。
はじめに
民数記26章から30章は、長い箇所を扱っています。イスラエルの第二回の人口調査、ツェロフハデの娘たちの訴え、モーセの後継者としてのヨシュアの任命、そして日々のささげ物、年ごとの祭り、誓願についての詳細な確認です。一見すると、なぜ神が約束の地をめぐる戦いの直前に、これほど多くの礼拝の規定を差し挟まれるのか、疑問に思うかもしれません。答えはシンプルです。戦いに出て行く前に、まずあなたの心を神に向けなければならないということです。これが、この五つの章を貫く中心的なメッセージです。
メッセージの構成
1. 第二回の人口調査:部族ごとに示される神の真実さ(民数記26章)
最初の人口調査(民数記1章)は、その四十年前、エジプトを出たすぐ後に行われていました。ここでは、カナンに入る前夜にあたり、神はモーセとエルアザルに、二十歳以上で軍務に就くことのできるすべての男子を、再び数えるよう命じられます。
この第二回の人口調査には、二つの目的があります。第一に、これから来る戦いの備えです。約束の地に入るには数多くの戦いが伴い、軍隊を組織する必要がありました。第二に、くじによって領土を公平に分配することです。大きな部族はより大きな割り当てを、小さな部族はより小さな割り当てを受けることになります。
数字は雄弁です。ルベン族は2,770人減少しました。シメオン族は37,100人も減少し、十二部族の中で最も大きな落ち込みとなりました。バアル・ペオルの災害(民数記25章)で命を落とした24,000人の多くは、この部族の者だったと考えられます。なぜなら、ミデヤン人の女コズビとともに殺されたジムリが、シメオン族の首長だったからです。反対に、ユダ族は増加し、最初の人口調査のときと同様に、最も人数の多い部族であり続けます。これは、ヤコブの預言の成就です。「杖はユダを離れず」(創世記49:10)。それはユダがより徳の高い部族だったからではなく、神がご自分の約束を守られるからです。
最大の驚きは、マナセ族です。20,500人の増加という、最も大きな伸びを見せました。マナセはヨセフの息子たちの中で長子でしたが、ヤコブは手を交差させて、弟のエフライムに右手の祝福を与えていました(創世記48章)。マナセは、兄弟の陰に隠れ、忘れられた存在のように見えたかもしれません。しかし神は、まさに小さく、二番目に見え、脇に置かれたもののことを覚えておられます。この成長は、恵みによってしか説明がつきません。それは、私たちが値したわけでも、引き起こしたわけでもない、一方的な好意です。
合計すると、第二世代は601,730人となり、四十年間でわずか120人ほどの差にとどまっています。神は民を人為的に増やしたり減らしたりされませんでした。約束されたとおりに、荒野を通って約束の地の入り口まで、真実をもって民を導かれたのです。
2. ダタン、アビラム、そしてコラの子ら:罪は世襲されない(民数記26:9〜11)
ある一つの細部が、この章全体に光を当てています。ルベン族のダタンとアビラムは、モーセとアロンに逆らって反逆したコラに加わっていました(民数記16章)。彼らの家族が反逆において彼らの側についたため、地は口を開いて、彼らを家族もろとも呑み込んだのです。
しかし11節はこう明記しています。「ただし、コラの子らは死ななかった。」ダタンとアビラムの子どもたちとは異なり、彼らは父の反逆に従わなかったのです。そしてその後、このコラの子らは、今も聖書に収められているいくつもの詩篇を書き記すことになります。
教訓は明らかです。子どもは、親の罪を自動的に受け継ぐわけではありません。一人ひとりが、自分自身の神に対する態度について責任を負うのです。あなたの両親がどれほど失敗していたとしても、あなたは神の前に立ち、赦しを受け、神に用いられ、ついには神の宮で歌うことさえできるのです。神は恵みの神です。
3. 公平な相続地:御国には「役職手当」がない
神は、それぞれの部族の人数を考慮しながら、くじによって地を分けるよう命じられます。誰も、地位に応じて他の人より多く受け取ることはありません。それぞれの家族が、自分の分を受け取るのです。
この公平さは、もっと大きなことを指し示しています。御国には、牧師やリーダーのための「役職手当」はありません。誰かが牧師だからといって、天によりも近いわけではありませんし、自動的に天国に行けるわけでもありません。私たちがみな神の子どもとなり、キリストとともに相続人となるのは、イエス・キリストへの信仰によってです。この相続の約束は、牧師にとっても、どんな信者にとっても同じものなのです。
その後で変わってくるのは、神の前で受け取る報いであり、それは実績ではなく、忠実さに応じたものです。イエスがタラントのたとえで語られたとおりです。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから……主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21)。大切なのは生み出した量ではなく、神があなたに委ねられた場所における忠実さなのです。
4. ツェロフハデの娘たち:明け渡しの精神(民数記27:1〜11)
五人の姉妹(マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァ)が、モーセの前に進み出ます。彼女たちの父は荒野で死にましたが、それはコラの反逆によるものではなく、自分自身の罪のためでした。彼には息子がいませんでした。彼女たちは、父の名と相続地が消え去らないようにと願い出ます。
律法が想定していなかったこの事例を前にして、モーセは場当たり的な答えをひねり出したりはしません。彼はとてもシンプルなことをします。「モーセは彼女たちの訴えを主の前に持って行った」(5節)。神は答えられ、彼女たちの願いを認め、補足の律法を加えられます。
これこそ、説教者が「明け渡しの精神」と呼ぶものです。自分では解決できないことを、明け渡すすべを知らなければなりません。誰かに相談されると、すべてに自分なりの答えを見つけようとする誘惑は大きなものです。しかし、あなたの経験も、知性も、先を見通す力も、他の人の人生全体を包み込むことはできません。ある時点で、こう言わなければならないのです。「わからない。一緒に祈ろう。」
教会は、能力だけで築かれるものではありません。そこには、歩んできた道も、成熟度も、感性もまったく異なる人々が集まっています。一致して生きること、本当に愛し合うこと、対立を乗り越えること、人々がキリストのもとに来るのを見ること、これらをあなた自身で作り出すことはできません。あなたにできるただ一つのことは、こう認めることです。「私にはできません。主よ、助けてください。」そして、その祈りを続けることです。そこにこそ、本当の信仰の戦いが繰り広げられるのです。
5. ヨシュア:御霊に満たされ、みことばによって形作られた者(民数記27:12〜23)
神はモーセに、メリバでの過ちのゆえに(民数記20章)、彼が約束の地に入ることはできないと告げられます。モーセはその宣告に異議を唱えません。彼のただ一つの祈りは、こうでした。「すべての肉なる者の霊の神、主が、この会衆の上にひとりの人を立て……主の集会が、飼い主のいない羊のようにならないようにしてください」(16〜17節)。
神はヨシュアを指名することで応えられます。なぜモーセの息子たち(ゲルショムとエリエゼル)ではなく、彼なのでしょうか。それは、この時代のイスラエルの民において、王であられるのは神ご自身だったからです。神は、ご自分の望む者を選ばれます。その理由は18節に記されています。「あなたは、その中に御霊が宿っている者、ヌンの子ヨシュアを取り……」。
ヨシュアが選ばれたのは、神の御霊が彼のうちに住んでおられたからです。これは、健全なリーダーシップの唯一の条件ではありませんが、第一の条件です。民数記11章では、すでに七十人の長老たちが御霊を受けていました。それでも、彼らは第一世代に属していたため、その多くは荒野で死にました。御霊を受けることは、信仰を免除するものではありません。コリントでは、賜物は豊かにありましたが、教会は分裂していました。御霊とみことばは、共に歩まなければなりません。あなたはみことばを知り、そのみことばをあなたの内に働かせてくださる御霊に導かれる必要があるのです。
6. 日々のささげ物と祭り:まず礼拝し、それから戦う(民数記28〜29章)
民数記28章と29章は、礼拝のカレンダーを詳しく記しています。毎日の朝と夕の全焼のいけにえ、安息日ごとの追加のささげ物、月の初めのささげ物、そして年ごとの祭りです。
- 過越の祭りと種なしパンの祭り(民数記28:16〜25):イエスの十字架と復活において成就しました。
- 七週の祭り、すなわちペンテコステ(民数記28:26〜31):御霊が教会の上に下られた日に成就しました(使徒2章)。
- ラッパの祭り(民数記29:1〜6)、大贖罪日(7〜11節)、仮庵の祭り(12〜40節):これらは、まだ来ていないもの、すなわち主の再臨と御国の完成を指し示しています。
その論理は印象的です。イスラエルがミデヤンとの戦いに出て行く民数記31章の直前に、神は時間を取って、新しい世代にどのように礼拝すべきかを思い起こさせられます。なぜでしょうか。第一世代は、まさにそこで失敗したからです。彼らは自分の欲求を神よりも優先させました。「肉が食べたい。きゅうりやすいかが食べたい。マナにはもう飽きた。」(民数記11章参照)。空腹、渇き、エジプトへの郷愁、そのたびに、欲望が神への感謝と信頼よりも先に置かれてきたのです。
ですから神は、第二世代にあらかじめ告げておられます。礼拝がなければ、わたしとの正しい関係がなければ、勝利はない、と。約束の地がどれほど近くにあろうとも、まず自分の心を自分の神に向けることなしに、それを相続することはできないのです。
7. 民数記30章:誓願、自ら進んで神に献身すること
民数記30章は、自発的な誓願を扱っています。誓願とは、神の前で自ら進んで負う約束のことです。人生のある期間、あるいは人生全体を、神への奉仕にささげることです。この章は、神に対して交わした言葉に一定の枠組みを与えています。なぜなら、神は私たちが神に約束したことを真剣に受け止められるからです。
これから来る戦いを前にして、この箇所には重みがあります。民は、ただ受け取るだけでなく、口と心をもって神に対して約束するよう招かれているのです。あなたの献身は、あなたの勝ち取りに先立つのです。
8. 新しい契約:神がキリストにあって可能としてくださったこと
この教え全体は、エレミヤが告げた新しい契約において頂点に達します。「見よ、その日が来る……その日、わたしはイスラエルの家とユダの家に、新しい契約を結ぶ……わたしはわたしの律法を彼らのうちに置き、彼らの心にこれを書きしるす……わたしは彼らの咎を赦し、もはや彼らの罪を思い出さない」(エレミヤ31:31〜34)。
杯を取られた夜、イエスはこう言われました。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による、新しい契約です」(ルカ22:20)。この契約は、あなたの実績によるのではなく、キリストの血によるものです。キリストへの信仰によって、あなたはアブラハムの子とされ(ガラテヤ3章)、天の市民とされます。この契約は、すでにあなたに適用されています。あなたの失敗も、あなたの成功も、それを無効にすることはできません。
覚えておきたいポイント
- 神は、部族ごとに、世代を重ねるごとに真実であられます。民の総数がほとんど変わらなかったことは、神が疲れることなく、ご自分の計画を最後まで導かれることを示しています。
- 罪は世襲されません。コラの子らは父に従わず、ついには神殿で歌うようになりました。
- 御国においては、すべてが恵みによって受け取られます。どんな奉仕も、神の前でより高い地位を与えるものではありません。大切なのは実績ではなく、忠実さです。
- 「明け渡しの精神」。自分では解決できないことは、神のもとに持って行き、祈り続けなさい。
- 戦いの前に、礼拝があります。あなたのクリスチャン生活における勝ち取りは、まず神に向けられた心の中で決まるのです。
個人への適用
- 今週、あなたはどこで、正当な欲求(休息、快適さ、評価)を神よりも優先させましたか。それをどこに置き直したいですか。
- あなたが受け継がざるを得ないと思い込んでいる、両親の罪はありますか。この箇所は、キリストにあるあなたの自由について何を語っていますか。
- あなたの人生の、どの「事例」について、一人で解決策を見つけようと疲れ果てていますか。「主よ、私にはわかりません。助けてください」と言い、その祈りを続ける備えはできていますか。
- あなたの人生において、神のみことばと御霊の導きは、どのように組み合わされていますか。どちらかがおろそかにされていませんか。
- 今週、一日の戦いの前に、本当の礼拝をするとしたら、どのようなものになるでしょうか。
引用聖句
- 民数記26章(人口調査)
- 民数記27章(ツェロフハデの娘たち、ヨシュアの任命)
- 民数記28〜30章(ささげ物、祭り、誓願)
- 民数記11章(七十人の長老たち)
- 民数記16章(コラ、ダタン、アビラムの反逆)
- 創世記48章(ヤコブがエフライムとマナセを祝福する)
- エレミヤ31:31〜34(新しい契約)
- ルカ22:20(新しい契約の杯)
- ガラテヤ3章(信仰によるアブラハムの子)
- ルカ17:10(取るに足りないしもべたち)
- マタイ25:21(良い忠実なしもべ)
よくある質問
なぜ神は、約束の地をめぐる戦いの直前に、礼拝のカレンダーを差し挟まれるのですか。
それは、第一世代がまさにそこで失敗したからです。彼らは自分の欲求を神よりも優先させました。征服の前に、神は第二世代に、神との正しい関係なしにはどんな勝利も得られないことを思い起こさせられます。戦いは、まず礼拝の中で決まるのです。
子どもは、親の罪のために罰せられるのでしょうか。
いいえ。父の反逆に従わず、滅びなかったコラの子らの記事(民数記26:11)が、それを示しています。一人ひとりが、自分自身の神に対する態度について責任を負うのです。厳しい家庭環境は、キリストにあっては決して有罪宣告にはなりません。
「明け渡しの精神」とは、どういう意味ですか。
それは、ある種の状況が自分の力を超えていることを認め、場当たり的な解決策をひねり出す代わりに、それを神のもとに持って行くことです。モーセがツェロフハデの娘たちに対してしたことが、まさにそれです。「モーセは彼女たちの訴えを主の前に持って行った」(民数記27:5)。祈ることをあきらめずに、自分一人で切り抜けることをあきらめるのです。
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