燃える柴のモーセ:神があなたの名を呼ばれる

読了時間 1分

燃える柴のモーセ:神があなたの名を呼ばれる

聖書には、私たちがどんな年齢であっても、人生のどんな場所にいても、繰り返し語りかけてくる箇所があります。出エジプト記3章に記されている、燃える柴の神とモーセとの出会いも、その一つです。八十歳になる年老いた羊飼いが、荒野でただ一人、柴を焼き尽くさない炎を見つけます。そしてそこで、すべてが動き出します。神は彼の名を呼び、彼に使命を委ね、そして聖書全体を貫く一つの名によってご自身を現されます。「わたしはある」という名前です。

この日曜日、私たちは出エジプト記3:1-14を開き、この場面を通して神に語っていただきました。そして私たちが発見するのは、単なるモーセの物語だけではありません。今日のあなたを、神がどのように見つめ、呼び、共に歩んでくださっているかという物語でもあるのです。

この記事の構成

  1. 時代背景:アブラハムから五百年後、イエスから千五百年前のモーセ
  2. 神は、あなたが見る前からあなたを見ておられる
  3. 神はあなたの名を呼ばれる:「モーセよ、モーセよ」
  4. 神は今すぐ、あなたに具体的な使命を委ねられる
  5. 「わたしはある」:あなたと共にとどまり続ける神

1. 時代背景:アブラハムから五百年後、イエスから千五百年前のモーセ

モーセを時の流れの中に位置づけるために、一つの目安が役立ちます。私たちは今日、イエスの十字架からおよそ二千年後にいます。イエスより二千年前は、アブラハムの時代です。イエスより千年前は、ダビデの時代です。そしてその間、イエスより千五百年前に、モーセがいます。アブラハムの孫であるヨセフの世代の後、イスラエルの民は飢饉から逃れてエジプトに移り住みました。しかしヨセフの後、およそ四百年にわたって、この民は奴隷として扱われました。

五年、十年、百年の苦しみでさえ想像するのは難しいものです。三百年、四百年ともなれば、めまいがするほどです。それでも民は耐え抜きました。なぜなら、彼らの魂の奥底には、創造主なる神、まことの神、ご自分の約束を忘れることのない神への信仰が燃え続けていたからです。

モーセはこの民の中に生まれました。パロは、生まれたヘブル人の男の子をすべて殺すよう命じていました。彼の母は三か月間彼を隠し、それからナイル川にかごに入れて置きました。パロの娘が彼を引き取ります。モーセはエジプトの宮廷で四十年を過ごし、その後、ある暴力的な出来事の後に逃亡します。彼はその後の四十年を、しゅうとであるエテロのもとで、ミデヤンの荒野の羊飼いとして過ごしました。

出エジプト記3章が始まるとき、モーセは八十歳です。それはもはや大きな計画を始める年齢ではなく、むしろ終わりを見つめる年齢です。そしてまさにその時、その場所で、神はホレブ山のふもとで彼を呼び止められるのです。

2. 神は、あなたが見る前からあなたを見ておられる

3節と4節を注意深く読んでみましょう。

「モーセは言った。『さあ、行って、この不思議な光景を見よう。どうして柴が燃え尽きないのだろうか』。主は、彼が見ようとして近づいて来るのをご覧になり、神は柴の中から彼を呼んで言われた。『モーセよ、モーセよ』。彼は言った。『はい、ここにおります』」(出エジプト記3:3-4、新改訳)

ここで物事の順序をよく見てください。モーセが柴に気づき、近づき、その不思議な出来事を確かめようとします。しかし、モーセが柴に目を向けるより前に、本文は主が彼をご覧になったと記しています。つまり、モーセが神に目を向けるよりもずっと前から、神はすでにモーセに目を向けておられたということです。

これは、あなたにとっても、とても具体的な意味を持ちます。あなたが生まれてから、人生のあらゆる段階を通して、試練や逃避、沈黙、そして自分自身の問いの中で過ごした四十年もの荒野の時をも通して、神はあなたから一度も目を離されたことがありません。神はあなたを見失ってはおられません。神はあなたを忘れてはおられません。

そしてこの点は非常に重要です。人生のある時期、苦しみや疲れの中で、あなたはイエスを見失ってしまったように感じることがあるかもしれません。しかし、その逆は決して起こりません。主はあなたを見失うことがなく、あなたを見捨てることもありません。あなたが何歳であっても、あなたが何を失敗したと思っていても、神はあなたを見つめ続け、語り続けてくださっているのです。

3. 神はあなたの名を呼ばれる:「モーセよ、モーセよ」

4節は続きます。「神は柴の中から彼を呼んで言われた。『モーセよ、モーセよ』」。この名前の反復は、決して偶然ではありません。聖書の中で、神がある人の名前を二度繰り返して呼ばれるとき、それは決定的な瞬間、その人に大切な使命が委ねられようとしていることのしるしです。

それはアブラハムの物語にも見られます。イサクの奉献の場面です。アブラハムが息子に刃物を振り上げようとしたとき、主の使いが彼を止められます。

「主の使いが天から彼を呼んで言った。『アブラハムよ、アブラハムよ』。彼は言った。『はい、ここにおります』」(創世記22:11、新改訳)

同じことは、宮の中のサムエルにも、イエスが「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た」(ルカ22:31)と語られたペテロにも、そしてダマスコの途上のパウロにも見られます。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(使徒の働き9:4)。そのたびに、名前が二度呼ばれ、一つの人生が方向を変えていくのです。

聖書において、誰かの名を呼ぶということは、その人の存在、その尊厳、その人格を認めることです。それは「あなたには意味がある」と言うことです。逆に、誰かの名を呼ばないことは、しばしばその人を遠ざけることを意味します。私自身の家庭でも、父は妻のことを好んで「まりこ先生」と呼んでいましたが、私のことは名前でも肩書でも呼ぶことがありませんでした。ささいなことかもしれませんが、それでも心に跡を残すものです。

しかし、神はそうなさいません。神はあなたの名を呼ばれます。神はあなたを、かけがえのない一人の人として見ておられます。イザヤ書43:4はこう語ります。「あなたはわたしの目に高価で尊く、わたしはあなたを愛している」。そしてその少し前にはこうあります。「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ」(イザヤ書43:1)。

この愛の最高の証拠は、単なることばや感情だけではありません。それは十字架です。主は私たちをそこまで愛してくださいました。私たちの代わりに死なれ、三日目によみがえり、今は御霊によって私たちのうちに生きておられます。あなたの名前が、これほどまでに神にとって大切なのです。

4. 神は今すぐ、あなたに具体的な使命を委ねられる

見つめ、呼びかけるだけでは十分ではありません。神は遣わされるのです。7節から10節を聞いてみましょう。

「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見た。追い立てる者のゆえに彼らが叫ぶ声を聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしは下って行き、彼らをエジプト人の手から救い出し、この地から、乳と蜜の流れる良い、広い地に彼らを導き上る……今、行きなさい。わたしはあなたをパロのもとに遣わす。あなたはわたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出しなさい』」(出エジプト記3:7-10、新改訳)

「今、行きなさい」。三年後ではありません。準備ができたときでもありません。体調が戻り、確信や勇気を取り戻したときでもありません。今、なのです。

この使命はモーセだけのものではありません。私たち一人ひとりが、それぞれの生きる場所で(家庭で、地域で、職場で、学校で、教会で)、成し遂げるべき務めを受けています。エペソ人への手紙2:8-10はこれを非常に明確に語っています。

「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。それは、あなたがた自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、あらかじめこれを備えてくださいました」(エペソ人への手紙2:8-10、新改訳)

10節を見てください。「良い行い」という表現が三回出てきます。三回です。そして何よりも、すべてを変えるこの一文があります。「私たちは神の作品である」。つまり、両親から与えられた名前に加えて、あなたは初めから、もう一つの称号を身に帯びているのです。神の傑作という称号です。

あなたが有名であろうと無名であろうと、多くの賜物に恵まれていようと、見た目には何も持っていないように見えようと、関係ありません。「何もできない」ように見える信者でも、家族のために、隣人のために、友のために、地域のために祈るなら、その人はすでに大きなわざを成し遂げています。礼拝のために集うこと、主を賛美して歌うこと、兄弟姉妹を励ますこと。これらはすべて、あらかじめ備えられたわざであり、神の前で重みを持つものなのです。

聖書はこう語ります。いつか主は私たちにこう言われるでしょう。「よくやった、良い忠実なしもべだ」。私たちはこう答えるかもしれません。「主よ、私は大したことは何もできませんでした。失敗ばかりでした」。しかし主は、ご自分の手とわき腹の傷を示してこう言われるでしょう。「あなたが祈ったあの日、あなたが賛美したあの日、あなたがそこにいたあの日、わたしはそれに応え、あなたを通して働くことができたのだ」。

5. 「わたしはある」:あなたと共にとどまり続ける神

14節に戻りましょう。モーセは神に尋ねます。「イスラエルの子らが私に、あなたの名は何かと尋ねたら、私は彼らに何と言えばよいのでしょうか」。すると神はこう答えられます。

「神はモーセに言われた。『わたしは、「わたしはある」という者である』。また言われた。『あなたはイスラエルの子らにこう言わなければならない。「わたしはある」という方が、私をあなたがたに遣わされた、と』」(出エジプト記3:14、新改訳)

「わたしはある」。神ご自身がご自分にお与えになった名前です。過去も未来も持たない名前です。ただ絶対的な現在だけがあります。

本文の一つの細部に注目してみてください。2節では、柴の中に現れるのは「主」ではなく「主の使い」です。矛盾でしょうか。いいえ。他の多くの箇所と同じく、キリスト教の伝統は、これを受肉以前のキリストの現れとして理解してきました。同じ「人物」が旧約聖書の中に何度も現れます。

  • 創世記18章では、三人の人がマムレでアブラハムを訪れます。そのうちの一人はアブラハムと共にとどまり、約束された子について語り、残りの二人はソドムへと下って行きます(創世記19:1)。アブラハムと個人的に語り合うこの第三の「訪問者」は、伝統的に、受肉前のキリストとして読まれています。
  • ダニエル書3章では、シャデラク、メシャク、アベデネゴが炉に投げ込まれたとき、ネブカドネツァル王は驚愕します。彼が火の中を歩く姿を見たのは三人ではなく、四人でした。そして四人目は「神々の子のよう」であったのです(ダニエル書3:25)。

つまり、旧約聖書の「わたしはある」と、福音書のイエスとは、同じ、唯一の主なのです。イエスご自身もこう宣言しておられます。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、わたしはあるのです」(ヨハネの福音書8:58、新改訳)

アブラハムよりも前に。天地創造よりも前に。そして今もなお。新しい天と新しい地が打ち立てられるそのときまで。「わたしはある」は、永遠に現在であり続けます。そして復活とペンテコステ以来、この方は聖霊によってあなたのうちに住んでおられます。パウロがローマ人への手紙8:9-11で思い起こさせているとおりです。

これはつまり、とてもシンプルにこういうことです。あなたはひとりではありません。あなたが神を見失ってしまったように感じるときでさえ、はあなたを見失うことはありません。そして多くの場合、まさにそのような瞬間にこそ、神は最も近くにおられます。モーセが何も期待していなかったときに、まさに神が近くにおられたのと同じようにです。

覚えておきたいポイント

  • 神はあなたが見る前からあなたを見ておられます。あなたと神との関係は、あなたが神に気づいた日ではなく、神があなたを思われた日から始まっています。
  • 神はあなたの名を呼ばれます。あなたは神にとって、個人として大切な存在です。神が救われるのは大衆ではなく、一人ひとりの人格です。
  • 使命に年齢は関係ありません。モーセは八十歳で始めました。あなたの祈り、あなたの存在、あなたが今生きている場所での奉仕は、あらかじめ備えられたわざなのです。
  • あなたは「神の傑作」という名を帯びています。このアイデンティティは、あなたの失敗や才能、評判よりも確かなものです。
  • 「わたしはある」は御霊によってあなたのうちに住んでおられます。あなたは決してひとりではありません。

あなた自身への適用

  1. 人生のどの瞬間に、神に「見失われた」と感じたことがありましたか。この箇所は、その時期の読み直し方をどのように変えるでしょうか。
  2. 私は本当に、神が私を個人的に呼んでおられると信じているでしょうか。それとも「呼ばれているのは他の人たちで、自分ではない」と隠れてはいないでしょうか。
  3. 今週、私の家庭で、職場で、教会で、地域で、神が私のために備えておられる具体的な使命は何でしょうか。
  4. 私は自分の価値を、自分の実績で測る傾向はないでしょうか。「神の傑作」であるという考えは、その反応をどのように揺さぶるでしょうか。
  5. 今週、聖霊が私のうちに住んでおられるという具体的な意識を、どのように育んでいくことができるでしょうか。

引用された聖句

よくある質問

なぜ神は、モーセが八十歳になるまで待って彼を呼ばれたのですか。
本文は直接的な説明を与えていませんが、神の時と私たちの時が同じではないことを示しています。エジプトの宮廷で過ごした四十年と、ミデヤンの荒野で過ごした四十年は、無駄になったわけではありません。それらは、イスラエルを導くことのできるモーセを形作ったのです。使命は年齢によって決まるのではなく、呼びかけてくださる神の真実さによって決まるのです。

柴の中に現れる「主の使い」とは誰ですか。
2節では「主の使い」が現れますが、4節ではすでに「主」ご自身が語っておられます。キリスト教の伝統は、この箇所を創世記18章、ダニエル書3章、ヨハネの福音書8:58と重ね合わせて、これを受肉以前のキリストの現れとして理解してきました。後にベツレヘムで肉体を取られるのと同じ主なのです。

神が「わたしはある」と名乗られることは、私にとって何を意味するのでしょうか。
それは、神が過去の思い出でも、単なる未来への希望でもないということを意味します。神は今、あなたと共に現在しておられます。あなたが今どこにいても、何を経験していても、神はすでにそこにおられます。そして聖霊によって、この「わたしはある」は、一人ひとりの信者のうちに個人的に住んでおられるのです。

「Engagement」の説教をすべて見る

沼津シオン・キリスト教会の説教を見逃さない

新しいメッセージの要約をお届けします。

メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。

関連記事

説教の公開元 沼津シオン・キリスト教会. 説教全体を見る のチャンネルで.

← ブログに戻る

燃える柴のモーセ:神があなたの名を呼ばれる | Efficient Church