はじめに
イースターの日、あなたはこの力強い呼びかけを聞きました。「よみがえった者として生きなさい。」これは美しい道徳的なイメージでも、手の届かない霊的な理想でもありませんでした。それは、あなたがキリストにあって得た新しい現実についての宣言でした。
けれども今日、この問いはもっと具体的になります。月曜の朝、仕事に戻るとき、批判に傷つくとき、計画が崩れるとき、この新しいいのちはどのような姿を取るのでしょうか。H.ヴェッセル牧師はコロサイ3:1-17に基づいて、復活とは2000年前に起きた外側の出来事だけではないことを示してくれます。復活は、キリストに結ばれた者たちの内側の現実にもなっているのです。
長い冬を越えた北国の木を思い浮かべてください。枝はむき出しで、硬く、折れやすく、まるで見捨てられたかのようです。けれども春が来ます。それは枝に貼られた宣言文ではありません。新しい樹液がすべての葉を満たし、木全体を作り変えていくのです。キリストにある新しいいのちとは、まさにこのような内側からの変化なのです。
説教の流れ
1. あなたはすでによみがえった者:直説法が命令法に先立つ
コロサイ書3章全体は、パウロの思想における基本的な構造の上に立っています。まず直説法(神がなさったこと)、その後に命令法(私たちが生きるべきこと)が来る、という構造です。神がまず行動され、私たちの生き方はそれに応答するのです。
言い換えれば、私たちはよみがえった者になるために、ある生き方をするのではありません。私たちはすでによみがえった者であるから、そのように生きるのです。
パウロはまず大きな神学的な確認から始めます。「もしあなたがたがキリストとともによみがえらされたのなら…」。日本語で「もし」と聞くと、疑いを表しているように感じるかもしれません。しかしギリシア語のこの表現は、いわゆる「第一種条件文」と呼ばれるもので、述べられている事柄の現実性を前提としています。ですから、こう訳すこともできます。「あなたがたはキリストとともによみがえらされたのですから…」。
クリスチャンはキリストに結ばれています。この結びつきこそが福音の中心です。救いとは外側だけのもの、法的な赦し、消された裁判記録にとどまるものではありません。それは、いのちそのものの結合です。クリスチャンはただキリストに従うだけでなく、キリストのいのちにあずかっているのです。「キリストが私のうちに住み、私はキリストにあって生き、キリストは私のうちにおられる」のです。
2. あなたのいのちはキリストとともに神のうちに隠されている
「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです」(3節)。ここでの「隠す」とは、恥ずべき秘密を隠すという意味ではありません。むしろ、守られている、神的な領域に根ざしている、敵対する霊的な力の届かないところにあるという意味です。
遠い国に派遣されたフランス人外交官を思い浮かべてください。彼はその土地に住み、その文化に溶け込み、現地の当局とともに働き、その国の食事を分かち合います。けれども彼は、自分の第一の忠誠がフランスにあることを決して忘れません。
クリスチャンが生きているのも、これと同じ緊張関係です。あなたはこの地上で目に見える存在ですが、あなたの本当の住まいは天にあります。あなたの本当の所属は、ここでキリストを表すことにあります。神の御国はすでにあなたのうちにあり、あなたは永遠にわたって主が備えてくださるものを、すでに味わい始めているのです。
パウロはこう記します。「キリストが現れるとき、あなたがたも、彼とともに栄光のうちに現れます」(4節)。私たちは神学者たちが「終末論的な緊張」と呼ぶものの中を生きています。キリストにあるあなたの復活の「すでに」と、来たるべき栄化の「まだ」です。あなたはもうかつてのあなたではありません。けれども、まだ栄光のうちに完成された姿にもなっていないのです。
3. 批判や失敗にも揺るがないアイデンティティ
この真理は、あなたの日々の生活を変えます。
批判されるとき、あなたの本当のアイデンティティはキリストにあります。あなたの最も深いところは、誰にも触れることができません。批判を聞いても、それに打ちのめされることなく、望みを失うことなく、自分を見失うことなく受け止めることができます。
計画に失敗するとき、会社が倒れるとき、病気のために夢見ていたことができなくなるとき、それらの失敗はあなたを定義しません。あなたは、すでに勝利された方のうちにいるのです。だからこそ、物事を相対化し、来たるべき栄化における本当のいのちの回復を待ち望みながら、苦難を忍耐して受け止めることができます。
試練は決定的なものではありません。あなたのいのちは、すでに始まっている未来という現実に根ざしています。それは、あなたをますますキリストの姿へと変えてくださる聖霊によるものです。
4. 上にあるものを求めなさい:内なるGPS
「ですから、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地にあるものに心を引かれないようにしなさい」(1-2節)。
「求める」という言葉は、単なる一時的な好奇心を意味していません。この動詞は、絶えず続く方向づけ、意図的な努力、生き方そのものを形づくる願いを表しています。それは一時的な感情ではなく、人生の向かう方向なのです。
「心を留める」は、あなたの内側のあり方に触れる言葉です。あなたの思いが信仰によって上にあるものを見つめるとき、あなたの心も変わっていきます。
キリストは、あなたの内なるコンパスです。今日、キリストなしでは、コンパスは地上のものへと向かいます。もっと多くのもの、もっと多くの満足へと。しかしキリストにあっていのちが変えられるとき、その磁極は変わります。地上のものへの関心は少しずつ薄れていき、それを失っても打ちのめされなくなるのです。
ただし注意してください。天にあるものを求めるとは、抽象的な神秘主義に逃げ込み、世から切り離された修道士のようになることではありません。主は、私たちが世に深く関わりながら生きることを求めておられます。ただし、現実のあらゆる一片を、キリストを通して読み解きながら生きるのです。
それはちょうどカーナビのようなものです。目的地を入力すると、道を外れても機械が経路を修正してくれます。車内の優しい声が、あなたを正しい道へと戻してくれます。なぜでしょうか。目的地がすでに定まっているからです。あなたの目的地が上にあるものに定まるとき、聖霊は少しずつあなたのいのちを、そこへと導くように変えてくださいます。
5. 地にあるものを殺すこと:外科的な行為
「ですから、地にあるからだの部分、すなわち…を殺してしまいなさい」(5節)。これは徹底したことばです。あなたの新しいアイデンティティと、古い人との間には、決して両立しないものがあるのです。
しかし、そこには微妙なニュアンスがあります。ローマ6章で、パウロは、信じる者はすでにキリストにあって罪に対して死んでいると語ります。ここにパラドックスがあります。あなたは死ぬために罪を殺すのではありません。すでに死んでいるからこそ、罪を殺すのです。聖化とは、あなたの行いを、キリストにある新しいアイデンティティに一致させていくことなのです。
パウロは古い人の症状を並べます。不品行、貪欲、怒り、偽り。これらは単なる悪い習慣ではありません。堕落した性質の現れです。そしてパウロは、神の怒りがこれらのものに対して下ることを思い起こさせます。
本文には「不従順の子らの上に」という言葉が添えられています。この一節は重要です。これを読むと、特定の悪人たちへの裁きだけを思い浮かべるかもしれません。しかし実際には、神の怒りはこの世の仕組みそのものに対して下るのです。それはすべての人を包み込みます。この裁きは、キリストの再臨のときに完全に行われますが、すでに始まっているのです。
良い知らせがあります。キリストは、私たちの代わりに神の怒りの杯を飲み干してくださいました。すべてを成し遂げてくださったのです。私たちは自由にされています。
強く有害な場所で一日を過ごしたと想像してください。家に帰ったとき、あなたはソファに座り込んだり、汚れた服のままベッドに入ったりはしません。服を脱ぎ捨て、投げ捨てます。罪は汚れた、汚染された衣服であり、あなたの新しい存在にとっては異物なのです。それと交渉するのではなく、取り除くのです。
6. 新しい人を着ること:回復された人間性
「あなたがたは新しい人を着たのであり、この新しい人は、創造者のかたちに似せられて、真の知識に至るまで新しくされ続けているのです」(10節)。
ここには単なるより良い行いではなく、新しい人間性があります。これは創世記、堕落以前の最初の創造にさかのぼります。私たちの人間性は汚染され、私たちはそれを受け継いでいました。しかし、この新しい人間性においては、すべてがキリストにあって回復されます。キリストは新しいアダムだからです。
だからこそパウロはこう書いています。「そこにはもはやギリシア人とユダヤ人の区別はなく…キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです」(11節)。あらゆる民族的、社会的、文化的な分断は相対化されます。今朝ここに集う教会は和解の星、御国の先取りです。なぜなら、私たちは互いに愛によって織り合わされているからです。
7. クリスチャンの衣:あわれみ、赦し、愛
「ですから、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あわれみの心、親切、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」(12節)。
クリスチャンの倫理は、常に神の選び、神の愛のうちにある選びから流れ出るものです。それは、愛されるために果たすべき業績では決してありません。
その中心にあるのは、愛と赦しです。「キリストがあなたがたを赦してくださったように、あなたがたも赦し合いなさい」(13節)。まずキリストがあなたのためになしてくださったことを見つめなければ、赦しは不可能になります。負債を帳消しにされた人は、もう誰にも何の借りもありません。彼は自由です。恨みから自由です。赦す備えができています。なぜなら、キリストが彼のために代価を払われたからです。
そしてパウロはこう付け加えます。「これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです」(14節)。愛こそが、パウロがここまで語ってきたすべての集大成なのです。
今週のあなたの生活への適用
抽象的に自分の人生を分析するだけで終わらせないでください。今聞いたことを、あなたの月曜の朝に照らし合わせてみましょう。
- あなたの仕事、あなたのキャリア。あなたは自分自身の栄光や富を築くために働いていますか。それとも、神を敬うという真の召命を持っていますか。あなたの働き方は卓越したものとなり、あなたが得るものは神に栄光を帰し、あなたを寛大な人にしていきます。
- あなたの余暇。休暇を取り、心身を整えるとき、それ自体は良いことです。けれども、それは古い性質へ戻るためでしょうか。それとも、再び神の国を求め続ける力を得るためでしょうか。
- あなたの会話。それは恵みといのちを運ぶもの、愛によって特徴づけられるものでしょうか。それとも、あまりにも多くの批判や恨みで満ちていないでしょうか。人を壊すことばを積極的に手放してください。あなたが生き方の中で許容するものは、やがてあなた自身を定義するようになるからです。
- あなたの失敗や受けた批判。思い出してください。あなたは、すでに勝利された方のうちにいるのです。批判も、失敗も、病気も、あなたを定義することはできません。
- くり返される罪。自分を正当化したり、軽く見たり、自分に理屈をつけたりするのをやめましょう。あなたのアイデンティティは、今や、その罪を打ち砕かれることなく名指し、聖霊の力によってそれを死に至らせることを可能にしています。
覚えておきたいポイント
- あなたはよみがえった者になるのではなく、すでにそうなのです。直説法は常に命令法に先立ちます。神がまず行動され、あなたのいのちはそれに応答するのです。
- あなたの本当のいのちは、キリストとともに神のうちに隠されています。あなたは地上における天の「外交官」であり、守られ、神的な領域に根ざしています。
- キリストはあなたの内なるコンパスです。上にあるものを求めるとは、世から逃げることではなく、あなたの現実のあらゆる一片をキリストを通して読み解くことです。
- 罪を殺すことは外科的な行為です。あなたは死ぬためにそれを殺すのではなく、キリストとともにすでに死んでいるからこそ、それを殺すのです。
- 十字架を見つめるとき、赦しが可能になります。キリストがあなたを赦してくださったように、あなたも赦すことができます。
さらに深めるための問い
- あなたはまだどの領域で、すでに受け取っている復活のいのちを生きる代わりに、よみがえった者になろうとしていますか。
- 今週、あなたの内なるコンパスは本当はどこを指していますか。上にあるものでしょうか、それとも純粋に地上的な目標でしょうか。
- 最近、どんな批判があなたを揺さぶりましたか。キリストにあるあなたのアイデンティティは、その受け止め方をどのように変えるでしょうか。
- キリストが脱ぎ捨てるようにと勧めておられるのに、あなたがまだ着続けている「汚れた衣」はありませんか。
- 誰を赦すことが難しいと感じていますか。キリストがあなたのために帳消しにしてくださったものの大きさを、もう一度受け止め直してみましょう。
引用された聖句
- コロサイ 3:1-17 · この説教の中心テキスト
- コロサイ 3:3 · 「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている」
- コロサイ 3:4 · 「キリストが現れるとき、あなたがたも、彼とともに栄光のうちに現れる」
- コロサイ 3:11 · 「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」
- ローマ 6章 · 信じる者はキリストにあって罪に対して死んでいる
- 詩篇 95:1-7 · 礼拝の交読文
よくある質問
コロサイ3章における「キリストとともによみがえる」とはどういう意味ですか。
これは詩的なイメージではありません。パウロは、よみがえられたキリストとの本当の結びつきについて語っています。あなたの本質は変えられ、あなたはキリストのいのちにあずかっているのです。「もしあなたがたがよみがえらされたのなら」という表現は、ギリシア語では「〜のですから」を意味します。それは仮定ではなく、すでに定められた現実なのです。
律法主義に陥らずに、どうすれば罪を殺すことができますか。
聖化とは、罪に対して死んだ者になるために戦うことではありません。あなたはキリストにあって、すでにそうなのです。あなたは、それを勝ち取るためにではなく、あなたの新しいアイデンティティから出発して戦うのです。聖霊は、キリストがあなたのために成し遂げてくださったことを、あなたのうちに実現してくださいます。
コロサイ3章6節の神の怒りは、誰に向けられているのですか。
本文は、古い人の現れに対して下る神の怒りについて語っています。「不従順の子らの上に」という一節は、一部の写本に見られる補足です。これは、特定の「悪い」人々だけを狙った裁きではなく、この世の堕落した仕組み全体に対する神の裁きです。この裁きは、キリストにあるすべての人のために、キリストが十字架の上で負ってくださったものなのです。
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