2025年11月23日日曜日の説教、長老ルイ・エスメル、モメンタム教会。
はじめに
もう動く勇気が出ない、そんな季節があります。あなたが飲んでいた川はすでに涸れ、あなたを養っていたカラスも、もう来なくなりました。それでもあなたはそこにしがみついています。神が昨日とまったく同じことをもう一度してくださると期待しているのです。しかし神ご自身は、すでに先へと進んでおられます。
今回の礼拝の聖書箇所は列王記第一17:8-9です。「主のことばが彼にあった。『立ってシドンのツァレファテへ行き、そこに住め。見よ、わたしはそこで一人のやもめに命じて、あなたを養わせる。』」ルイ・エスメルは、前回の礼拝の続きとしてこの箇所を語ります。ケリテの川の季節は終わり、ツァレファテの季節が始まったのです。そして、あなたには移動すべき時が来ています。
この説教は、変化一般についての抽象的な話ではありません。とても具体的な牧会的な呼びかけです。神がもういらっしゃらない場所にしがみつくな、ということです。立ち上がりなさい。ツァレファテへ行きなさい。なぜなら、あなたの奇跡はもう涸れた川にはなく、あなたが決して行こうとは思わなかったその場所に、すでに命じられているからです。
説教の流れ
1. 前回の礼拝の振り返り:備えの季節が変わる
ルイ・エスメルはまず前回の振り返りから始めます。先週、彼は、神がエリヤをケリテの川へと送り、そこで水を飲み、カラスがエリヤを養うと約束されたことを示しました(列王記第一17:2-6)。奇跡は実際に起こりました。カラスは、本来なら食べ物を分け与えることのできない汚れた動物ですが、朝と夕に主に従いました。
しかしある日、川の水が涸れました。説教者は強調します。もしエリヤがケリテにしがみつき続けていたら、彼は不満だらけのクリスチャンになっていたはずです。まるで、かつてそこに神の御手を見たからといって、終わった季節にしがみついている今日の多くの信者たちのように。
2. 神がもういらっしゃらない場所にしがみつくな
これがこの牧会的な警告の核心です。「私たちは、神がもういらっしゃらない場所に決してしがみついてはなりません。」ルイ・エスメルは自分自身の証しを語ります。ある日、彼は姉と義理の兄の家に泊まったのですが、追い出される前に自分から出て行くべきだと悟った、という経験です。神が扉を閉じられるのは、あなたを罰するためではなく、あなたを前進させるためなのです。
そこから彼が導き出す原則はこうです。神は、別の扉を開かないうちに、決して一つの扉を閉じられることはありません。小さな扉が閉じるとき、それは別のどこかにすでに大きな扉が開いているからです。問題は、私たちが閉じた扉ばかりを見つめて、今まさに開いた扉のほうに顔を向けないことです。
3. 神は動かれる神である
「今日、神はどこにおられるでしょうか。エリヤはどこにいるでしょうか。今日、神が語られたところによれば、神はツァレファテにおられます。」ルイ・エスメルはこの真理を繰り返し語ります。神は動かれる神であり、場面を変えられる神であり、ご自分のしもべに従って来るようにと呼びかけられる神です。神は一つの場所に縛られず、一つの方法に固定されてもおられません。
説教者は警告します。多くの人が不満を抱えたままなのは、神が「立ち上がりなさい」と言っておられるのに、川がもう一度流れ出すようにと祈り続けているからです。あなたの移動は奇跡の一部です。奇跡は備えの中だけにあるのではなく、あなたが立ち上がって歩き出すという従順の中にもあるのです。
4. 「わたしはそこで命じた」:奇跡はすでに決定されている
ルイ・エスメルは9節の重要な細部に注目します。神は「わたしは命じるであろう」とも「わたしはこれから命じる」とも言っておられません。こう言われます。「わたしはそこで一人のやもめに命じて、あなたを養わせる。」命令はすでに下されています。やもめはすでに指示を受けているのです、かつてカラスが受けたのと同じように。
そこから説教者は一つの原則を引き出します。神が命じられるとき、被造物は従うということです。カラスはあなたの祈りを知りませんが、自分に存在するようにと語られた方の声は知っています。山も、雨も、風も、嵐も、主の声を聞き分けます。弟子たちでさえ驚いてこう言いました。「風や湖まで従わせるこの方は、いったいどういう方なのだろう」(マルコ4:41)。「あなたから逃げていったもの、それはナザレのイエス・キリストの名によって、戻って来るようにと命じられたものです。」
5. ツァレファテ:避難所ではなく、敵地
ここでルイ・エスメルは、すべてを変える一つの観察を示します。ツァレファテは平穏な避難所ではありません。この町はシドンに属しています。つまり、アハブ王の妻イゼベルの領地なのです(列王記第一16:31)。イゼベルはシドンの王の娘です。彼女はエリヤに対して、今で言うところの逮捕命令のようなものを出しており、エリヤは「その時代で最も指名手配された男」となっていました。
そして、まさにその不倶戴天の敵の本拠地に、主はご自分の預言者を送られるのです。「まさに敵の本拠地の中で、神はあなたの働きを栄えさせてくださいます。まさに敵の本拠地の中で、神はあなたに驚くべき仕事の機会を与えてくださいます。」神は、あなたの敵によって制限されることも、脅かされることも、困らされることもないのです。
6. あふれ出る備え:あなたのため、そして多くの人のため
ケリテからツァレファテへの移動は、単なる場所の変化ではなく、次元そのものの変化です。ケリテの川では、エリヤは一人で食べていました。カラスはエリヤだけを養っていたのです。ツァレファテでは、その備えは分かち合われます。やもめ、その息子、そして預言者と(続きは列王記第一17:10-16を参照)。
ルイ・エスメルはここから預言的な言葉を引き出します。「神は、あなただけを、あなた自身だけを、あなたのためだけに祝福される神ではありません。神があなたと共に始められたことは、その働きの輪を広げていきます。神は、ご自分の恵みを受け取る人々の数を増やしたいと願っておられるのです。」神があなたのためにツァレファテで行おうとしておられることは、あなた一人をはるかに超えています。あなたに与えられる備えは、一人のやもめ、一人の孤児、そしてほかの多くの人々をも養うのです。
7. 恐れはもうあなたのものではない
説教者はケリテの場面に戻ります。神がエリヤに「身を隠せ」と言われたのは、しもべの内にまだ恐れが住んでいたからでした。ツァレファテでは、神はもう身を隠せとは言われません。そこに住めと言われるのです。「ツァレファテへ行き、そこに住め。」
これは霊的な立場の変化です。主はケリテの隠れた場所で、エリヤの恐れを取り扱われました。そして今、エリヤを公然と、敵の本拠地の中で生きるようにと送り出されるのです。ルイ・エスメルはあなたに宣言します。「恐れはもうあなたのものではありません。おびえもまた、もうあなたのものではありません。」
8. 自分の内にあるしがみつきの声に気づく
説教の終わりに近づくと、ルイ・エスメルは自己吟味へと招きます。「私は一人でいるのが嫌いだ」、誰かがそう言うことがあります。そうした心の中の小さなつぶやきこそが、神がもうあなたにいてほしくない場所に、あなたを引き留めていることがあるのです。空白への恐れ、未知への恐れ、聞き違えたのではないかという恐れ、ツァレファテには何もないのではないかという恐れです。
説教者はあなたに、声に出してこう宣言するよう招きます。「父よ、私は今ツァレファテにいます。私は何も恐れません。あなたが共におられるからです。あなたこそ、私を守り、まさに敵の本拠地の中で、私のすべての必要を満たしてくださる方です。イエス・キリストの御名によって。」
覚えておきたいポイント
- 神がもういらっしゃらない場所には、決してしがみついてはいけません。川が涸れ、カラスがもう来なくなったとき、それは見捨てられたのではなく、季節が変わったしるしです。
- 神は、別の扉を開かないうちに、決して一つの扉を閉じられません。小さな扉が閉じるとき、大きな扉はすでにどこかで開いています。あなたはただ、そちらへ顔を向けさえすればよいのです。
- あなたの奇跡はすでにツァレファテで命じられています。神は「わたしは命じるであろう」ではなく「わたしはそこで命じた」と言われます。やもめはすでに指示を受けています。あなたが移動することで、その受け取りが始まるのです。
- 神はあなたの敵の本拠地の中で、その力を現されます。神は、あなたの前進に敵対する法律にも、命令にも、人々にも、制限されることも、萎縮させられることもありません。
- ツァレファテの備えは、ケリテの備えよりも広いものです。神はあなたを、一人で受け取るだけの者ではなく、祝福を運ぶ管としてくださろうとしています。
個人的な適用
今週、静かな時間を取り、聖書を列王記第一17章に開いて、正直に自分自身にこう問いかけてみてください。
- 自分の人生の中に「ケリテの川」はないでしょうか。神が別の場所へと招いておられるのに、自分がしがみついている場所、関係、仕事、奉仕はないでしょうか。
- 最近、自分の前でどんな小さな扉が閉じたでしょうか。その周りを見渡して、すでに開いているかもしれない大きな扉を探してみたでしょうか。
- 自分が避けている「ツァレファテ」はないでしょうか。環境が敵対的に思える町、会社、関係、リスクが大きすぎると感じている一歩はないでしょうか。
- 自分がまだ神に何を期待しているのか、言葉にしてみてください。そして、この言葉を受け取ってください。「わたしはあなたの奇跡をそこで命じた。」奇跡はあなたの祈りを待っているのではなく、あなたの移動を待っているのです。
- 説教者による最後の宣言を、声に出して言ってみてください。「父よ、私は今ツァレファテにいます。私は何も恐れません。あなたが共におられるからです。」
引用された聖句
- 列王記第一17:8-9 、基本テキスト:「立ってシドンのツァレファテへ行き、そこに住め……わたしはそこで一人のやもめに命じて、あなたを養わせる。」
- 列王記第一17:2-6 、ケリテの川とカラス
- 列王記第一17:10-16 、ツァレファテのやもめの家での受け入れと、尽きることのない備え
- 列王記第一16:31 、アハブがシドンの王の娘イゼベルをめとる
- マルコ4:41 、「風や湖まで従わせるこの方は、いったいどういう方なのだろう」
FAQ
神が自分にとどまるようにと言っておられるのか、動くようにと言っておられるのか、どうすればわかりますか。
ルイ・エスメルは一つの明確な手がかりを示します。備えが尽きるとき、つまり川が涸れ、カラスがもう来なくなるとき、それは信仰が足りないしるしではなく、多くの場合、季節が変わったという合図なのです。問うべきなのは「なぜ神は私を見捨てたのか」ではなく「今、神はどこへ私を送ろうとしておられるのか」という問いです。主のことばがエリヤに臨んだのは、川が涸れる前ではなく、まさに「その時」、つまりその瞬間だったのです。
なぜ神はエリヤを異邦人のやもめのもとへ送られたのですか。
ツァレファテはフェニキア、つまりイゼベルの国であり、イスラエルの外にあります。神はここで二つのことを示しておられます。神はいかなる地理的、民族的、霊的な境界にも制限されないということ、そして、人間の目から見て最も弱い立場にある人、つまり資源が尽きかけた、敵地にいるやもめにさえ触れてくださるということです。イエスご自身もルカ4:25-26でこの出来事を取り上げ、神が誰に恵みを与えるかを決める主権的な自由を強調しておられます。
季節の変わり目における神の声をどう見分ければよいですか。
この説教は三つの目印を強調しています。主のことばが「臨む」ということ(その移動は自分個人の願望から来るのではなく、与えられた確信から来るということ)、そこに「具体的な指示」が含まれていること(場所、行動、命令)、そしてそこに「すでに実行された約束」が伴っていること(「わたしはそこで命じた」)です。これら三つが重なり合い、あなたの周りのクリスチャンの共同体によっても確認されるなら、立ち上がって従いなさい。
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