はじめに
おいしい料理について話を聞くことと、実際に味わうことの間には違いがあります。あなたが人生最高の食事について一時間かけて説明してくれたとしても、私はあなたが何を感じたのかを知ることはできません。「百聞は一見に如かず」ということわざがあります。イエス・キリストについても同じことが言えます。イエス様について話を聞くことは信仰の始まりであり、それは欠かせないことです。しかし、あなた自身が近づき、見つめ、味わってご覧になるまでは、その方の偉大さと、その祝福の豊かさは、頭の中の一つの考えにとどまったままです。今日、ヨハネ1章14〜51節の中で、使徒ヨハネは私たちに三つの歩みへと招いています。来ること、見ること、そしてイエス・キリストを体験することです。
メッセージの流れ
1. 肉となった御言葉:神はイエス様の中でご自身を見せてくださった(14〜18節)
- ヨハネは目撃者として書いています。「私たちはその栄光を見た」、「私たちの手はその方に触れた」(ヨハネの手紙第一1:1)。イエス様は人々の間で生き、歩き、食事をされました。
- バプテスマのヨハネはこう証しします。「私の後に来る方は、私よりも先におられたので、私よりも上位にあるのです。」イエス様は単なる宗教的な人物ではありません。永遠の御言葉が肉となられたのです。
- 私たちはみな、その満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けました。イエス様は使い尽くされる蓄えではなく、尽きることのない源です。あなたが来れば来るほど、より多くを受け取ることができるのです。
- 律法はモーセを通して与えられ、恵みとまことはイエス・キリストを通して来ました。いまだかつて神を見た者はいません。ひとり子である御子が、神を知らせてくださったのです。
2. バプテスマのヨハネの証し:道を備える(19〜34節)
- 祭司たちとレビ人たちが彼に尋ねに来ます。「あなたはだれですか。」彼は順番にこう答えます。「私はキリストではありません。私はエリヤでもありません。私はあの預言者でもありません。私は、荒野で叫ぶ者の声です。主の道をまっすぐにせよ、と。」
- ヨハネは、文化的にはバプテスマを受ける習慣のなかったユダヤの民にバプテスマを授けていました。バプテスマは本来、契約に入る異邦人のためのものだったからです。それゆえ多くの人が自分の罪を認めていました。それはまさにリバイバルでした。
- イエス様が近づいて来られると、ヨハネは指をさしてこう言います。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」覆うのではなく、取り除く。これが旧い契約と新しい契約の違いなのです。
- 「私は、その方のサンダルのひもを解く値打ちもありません。」力強い働きにもかかわらず、ヨハネは自分をキリストの前では小さな者と見なしていました。彼は、イエス様が聖霊と火によってバプテスマを授けられると告げ知らせます。
3. 最初の弟子たち:来て、見なさい(35〜51節)
- ヨハネの二人の弟子は、師のもとを離れてイエス様に従います。ヨハネはそれを喜びます。彼の役割は、人々をキリストへと導くことであり、自分のもとに人々をとどめておくことではなかったからです。
- イエス様は彼らにこう尋ねられます。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らはこう答えます。「どこにお泊まりですか。」彼らは住所を知りたかったのではなく、その方とともにいたかったのです。イエス様は言われます。「来なさい。そうすればわかります。」彼らはその日一日、イエス様とともに過ごします。
- 確信を得たアンデレは、走って自分の兄弟シモンを探しに行きます。イエス様は彼を見つめて、ケファ、すなわち小さな岩と呼ばれます。この人がのちにペテロとなるのです。
- ピリポはナタナエルを見つけます。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは議論しません。「来て、見なさい」と言うだけです。ナタナエルが来ると、イエス様は、祈りと黙想の場所であったいちじくの木の下で彼を見ていたことを示されます。ナタナエルはこう告白します。「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」そしてイエス様は約束されます。「あなたはもっと大きなことを見ることになります。」
覚えておきたいポイント
- 聞くことは始まりであり、体験することが鍵です。頭で受け入れた真理は、心で味わわれるまで、人生を変えることはありません。
- イエス様は蓄えではなく、源です。あなたがそこから汲み取っても、その恵みが減ることは決してありません。毎日、イエス様は昨日の恵みの上に、新しい恵みを加えてくださいます。
- クリスチャンの人生では、すべてが恵みです。赦しも恵み、信仰も恵み、従う力も恵みです。自分自身を頼りにし始めた瞬間から、あなたは枯渇していきます。
- 「見よ、神の小羊。」イエス様はあなたの罪を覆ったのではなく、取り除いてくださいました。その十字架はあなたの過ちを覆い隠すのではなく、完全に消し去るのです。
- 「来て、見なさい。」これは福音書の中で最も短く、そして最も決定的な招きです。信仰は議論の中ではなく、その方の臨在の中で成長するのです。
個人的な適用
- 私はイエス様のもとに来ているだろうか。それとも、教会に、デボーションの本に、単なる習慣に来ているだけだろうか。
- 今日、イエス様が私に差し出しておられる新しい恵みは何だろうか。昨日の恵みでまだ生きているために、それを見逃してしまってはいないだろうか。
- 聖霊に求める代わりに、自分の力で何とかしようとしている場面はどこだろうか。
- 今週、私の周りに「来て、見なさい」とシンプルに言える「シモン」や「ナタナエル」はいないだろうか。
- 聖書を開くとき、私はイエス様が語りかけてくださるのを待っているだろうか、それとも単にチェック項目を消しているだけだろうか。
引用された聖句
- ヨハネ1:14〜18・肉となった御言葉
- ヨハネ1:19〜34・バプテスマのヨハネの証し
- ヨハネ1:35〜51・最初の弟子たち
- ヨハネの手紙第一1:1〜4・私たちの手が触れたもの
- マタイ11:28・疲れた人はわたしのもとに来なさい
- ヨハネ6:35・わたしはいのちのパンです
- マラキ4:5〜6・エリヤの派遣
よくある質問
具体的に「イエス・キリストを体験する」とはどういうことですか。
それは単にイエス様についての知識を蓄えることではありません。祈りと御言葉を通してイエス様のもとに来て、その恵みを求め、日々の生活の中でその真実さが応えてくださるのを見ること、赦し、力、平安、導きの中でです。信仰は聞くことから始まりますが、出会いの中に根を下ろすのです。
バプテスマのヨハネは6か月早く生まれたのに、なぜ「その方は私よりも先におられた」と言うのですか。
それは、イエス様がベツレヘムで存在し始めたわけではないからです。御言葉、ロゴスは、永遠から神であられます。肉体的にはヨハネのほうが先に生まれましたが、その神としての存在においては、イエス様は初めからそこにおられ、すべてのものを創造された方なのです。
自分のデボーションで、本当にイエス様のもとに行っているかどうか、どうすればわかりますか。
自分に問いかけてみましょう。聖書を開くのは、チェック項目を消すためか、それともその方に出会うためか。イエス様が語りかけてくださるのを待っていますか。自分を変えてくださるようにお願いしていますか。教会に行くことと、キリストのもとに行くことは同じではありません。デボーションとは、自分の心をその方の前に差し出し、耳を傾けることなのです。
メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。