聖書 — 口語訳 (1955)
申命記 32
概要
申命記32章には、モーセの歌が収められています。モーセが死ぬ前にイスラエルの前で語った長い詩です。この歌は、神を完全で真実な岩としてたたえ、神がどのように民を見いだし、負われたかを思い起こさせます。そして、偶像に向かったイスラエルの忘恩を描きます。詩はさばきを告げると同時に、神がそのしもべたちにあわれみを加えられることも告げます。章の結びは、これらの言葉を心におさめるようにというモーセの呼びかけと、ネボ山に登れという命令です。
この章の6つの区分
1「天よ、耳を傾けよ、わたしは語る、地よ、わたしの口の言葉を聞け
2わたしの教は雨のように降りそそぎ、わたしの言葉は露のようにしたたるであろう。若草の上に降る小雨のように、青草の上にくだる夕立のように。
3わたしは主の名をのべよう、われわれの神に栄光を帰せよ。
4主は岩であって、そのみわざは全く、その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、義であって、正である。
5彼らは主にむかって悪を行い、そのきずのゆえに、もはや主の子らではなく、よこしまで、曲ったやからである。
6愚かな知恵のない民よ、あなたがたはこのようにして主に報いるのか。主はあなたを生み、あなたを造り、あなたを堅く立てられたあなたの父ではないか。
7いにしえの日を覚え、代々の年を思え。あなたの父に問え、彼はあなたに告げるであろう。長老たちに問え、彼らはあなたに語るであろう。
8いと高き者は人の子らを分け、諸国民にその嗣業を与えられたとき、イスラエルの子らの数に照して、もろもろの民の境を定められた。
9主の分はその民であって、ヤコブはその定められた嗣業である。
10主はこれを荒野の地で見いだし、獣のほえる荒れ地で会い、これを巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られた。
11わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、
12主はただひとりで彼を導かれて、ほかの神々はあずからなかった。
13主は彼に地の高き所を乗り通らせ、田畑の産物を食わせ、岩の中から蜜を吸わせ、堅い岩から油を吸わせ、
14牛の凝乳、羊の乳、小羊と雄羊の脂肪、バシャンの牛と雄やぎ、小麦の良い物を食わせられた。またあなたはぶどうのしるのあわ立つ酒を飲んだ。
15しかるにエシュルンは肥え太って、足でけった。あなたは肥え太って、つややかになり、自分を造った神を捨て、救の岩を侮った。
16彼らはほかの神々に仕えて、主のねたみを起し、憎むべきおこないをもって主の怒りをひき起した。
17彼らは神でもない悪霊に犠牲をささげた。それは彼らがかつて知らなかった神々、近ごろ出た新しい神々、先祖たちの恐れることもしなかった者である。
18あなたは自分を生んだ岩を軽んじ、自分を造った神を忘れた。
19主はこれを見、そのむすこ、娘を怒ってそれを捨てられた。
20そして言われた、『わたしはわたしの顔を彼らに隠そう。わたしは彼らの終りがどうなるかを見よう。彼らはそむき、もとるやから、真実のない子らである。
21彼らは神でもない者をもって、わたしにねたみを起させ、偶像をもって、わたしを怒らせた。それゆえ、わたしは民ともいえない者をもって、彼らにねたみを起させ、愚かな民をもって、彼らを怒らせるであろう。
22わたしの怒りによって、火は燃えいで、陰府の深みにまで燃え行き、地とその産物とを焼きつくし、山々の基を燃やすであろう。
23わたしは彼らの上に災を積みかさね、わたしの矢を彼らにむかって射つくすであろう。
24彼らは飢えて、やせ衰え、熱病と悪い疫病によって滅びるであろう。わたしは彼らを獣の歯にかからせ、地に這うものの毒にあたらせるであろう。
25外にはつるぎ、内には恐れがあって、若き男も若き女も、乳のみ子も、しらがの人も滅びるであろう。
26わたしはまさに言おうとした、「彼らを遠く散らし、彼らの事を人々が記憶しないようにしよう」。
27しかし、わたしは敵が誇るのを恐れる。あだびとはまちがえて言うであろう、「われわれの手が勝ちをえたのだ。これはみな主がされたことではない」』。
28彼らは思慮の欠けた民、そのうちには知識がない。
29もし、彼らに知恵があれば、これをさとり、その身の終りをわきまえたであろうに。
30彼らの岩が彼らを売らず、主が彼らをわたされなかったならば、どうして、ひとりで千人を追い、ふたりで万人を敗ることができたであろう。
31彼らの岩はわれらの岩に及ばない。われらの敵もこれを認めている。
32彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から出たもの、またゴモラの野から出たもの、そのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦い。
33そのぶどう酒はへびの毒のよう、まむしの恐ろしい毒のようである。
34これはわたしのもとにたくわえられ、わたしの倉に封じ込められているではないか。
35彼らの足がすべるとき、わたしはあだを返し、報いをするであろう。彼らの災の日は近く、彼らの破滅は、すみやかに来るであろう。
36主はついにその民をさばき、そのしもべらにあわれみを加えられるであろう。これは彼らの力がうせ去り、つながれた者もつながれない者も、もはやいなくなったのを、主が見られるからである。
37そのとき主は言われるであろう、『彼らの神々はどこにいるか、彼らの頼みとした岩はどこにあるか。
38彼らの犠牲のあぶらを食い、灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。立ちあがってあなたがたを助けさせよ、あなたがたを守らせよ。
39今見よ、わたしこそは彼である。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かし、傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出しうるものはない。
40わたしは天にむかい手をあげて誓う、「わたしは永遠に生きる。
41わたしがきらめくつるぎをとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは敵にあだを返し、わたしを憎む者に報復するであろう。
42わたしの矢を血に酔わせ、わたしのつるぎに肉を食わせるであろう。殺された者と捕えられた者の血を飲ませ、敵の長髪の頭の肉を食わせるであろう」』。
43国々の民よ、主の民のために喜び歌え。主はそのしもべの血のために報復し、その敵にあだを返し、その民の地の汚れを清められるからである」。
44モーセとヌンの子ヨシュアは共に行って、この歌の言葉を、ことごとく民に読み聞かせた。
45モーセはこの言葉を、ことごとくイスラエルのすべての人に告げ終って、
46彼らに言った、「あなたがたはわたしが、きょう、あなたがたに命じるこのすべての言葉を心におさめ、子供たちにもこの律法のすべての言葉を守り行うことを命じなければならない。
47この言葉はあなたがたにとって、むなしい言葉ではない。これはあなたがたのいのちである。この言葉により、あなたがたはヨルダンを渡って行って取る地で、長く命を保つことができるであろう」。
48この日、主はモーセに言われた、
49「あなたはエリコに対するモアブの地にあるアバリム山すなわちネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に与えて獲させるカナンの地を見渡せ。
50あなたは登って行くその山で死に、あなたの民に連なるであろう。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に連なったようになるであろう。
51これはあなたがたがチンの荒野にあるメリバテ・カデシの水のほとりで、イスラエルの人々のうちでわたしにそむき、イスラエルの人々のうちでわたしを聖なるものとして敬わなかったからである。
52それであなたはわたしがイスラエルの人々に与える地を、目の前に見るであろう。しかし、その地に、はいることはできない」。
鍵となる聖句
主は岩であって、そのみわざは全く、その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、義であって、正である。
歌は岩のイメージで始まります。揺るがず、確かで、欠けたところがありません。神は真実で、偽りのない方として示され、移り気な民と対照をなしています。
主はこれを荒野の地で見いだし、獣のほえる荒れ地で会い、これを巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られた。 わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、
神は荒野で民を見いだし、「目のひとみのように守られた」。巣のひなの上に舞いかけるわしの姿は、力強いやさしさを表しています。
彼らの岩が彼らを売らず、主が彼らをわたされなかったならば、どうして、ひとりで千人を追い、ふたりで万人を敗ることができたであろう。
この詩の中で、この節は、イスラエルが打ち負かされたのは、彼らの岩が彼らを売ったからだと語ります。多くの説教者が、これを一致の力についての適用に用いますが、それは本来の意味を少し越えています。
この言葉はあなたがたにとって、むなしい言葉ではない。これはあなたがたのいのちである。この言葉により、あなたがたはヨルダンを渡って行って取る地で、長く命を保つことができるであろう」。
モーセにとって、律法はどうでもいいものではなく、民のいのちです。「これはあなたがたのいのちである」。神に聞くことは些細なことではなく、人を生かすものです。
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説教が語っていること
申命記32章についてよくある質問
モーセの歌とは何ですか。
モーセが死ぬ前に民の前で語った詩で、1節から43節にあたります。岩である神の真実をたたえ、その恵みを思い起こし、イスラエルの不忠実を指摘し、さばきを告げるとともに、主がそのしもべたちにあわれみを加えられることも告げます。この歌は、後の世代への証しとなります。
申命記32章30節は何を意味しますか。
文脈では、この節は敗れた民に向けられています。もし彼らの岩が彼らを売らなかったなら、どうして一人の敵がイスラエル人千人を追えたでしょうか。つまり、まず神のさばきについて語っているのです。今日、多くの説教者は一致の力を語るためにこれを用いますが、それはより広い適用であり、本来の意味ではありません。
なぜモーセは約束の地に入れないのですか。
48節から52節で、神はモーセにネボ山に登ってイスラエルに与える地を見渡すよう命じますが、その地には入れないと告げます。理由として挙げられているのは、カデシのメリバの水のほとりで犯した罪で、そこでモーセと民は主を聖なるものとして敬いませんでした。
申命記 32を引用している記事
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。