聖書 — 口語訳 (1955)

イザヤ書 50

概要

イザヤ書50章は叱責から始まります。イスラエルは理由なく離縁されたのではなく、自分の罪のためでした。神は、ご自分の手は救うには短すぎないと宣言されます。続いて、しもべの声が聞こえてきます。神が毎朝その耳を開かれる弟子であり、退くことなく苦しみを受け入れ、神に信頼する人です。クリスチャンはここにイエス・キリストの姿と、キリストに従う者の模範を見ています。

この章の4つの区分

  1. 1-3節神は民を離縁されたのではなく、その手は短くない
  2. 4-5節弟子であるしもべ:毎朝開かれる耳
  3. 6-9節苦しむしもべを、主が助けてくださる
  4. 10-11節暗闇の中で主に信頼するか、自分で火をともすか

1主はこう言われる、「わたしがあなたがたの母を去らせたその離縁状は、どこにあるか。わたしはどの債主にあなたがたを売りわたしたか。見よ、あなたがたは、その不義のために売られ、あなたがたの母は、あなたがたのとがのために出されたのだ。

2わたしが来たとき、なぜひとりもいなかったか。わたしが呼んだとき、なぜひとりも答える者がなかったか。わたしの手が短くて、あがなうことができないのか。わたしは救う力を持たないのか。見よ、わたしが、しかると海はかれ、川は荒野となり、その中の魚は水がないために、かわき死んで悪臭を放つ。

3わたしは黒い衣を天に着せ、荒布をもってそのおおいとする」。

4主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。

5主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは、そむくことをせず、退くことをしなかった。

6わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった。

7しかし主なる神はわたしを助けられる。それゆえ、わたしは恥じることがなかった。それゆえ、わたしは顔を火打石のようにした。わたしは決してはずかしめられないことを知る。

8わたしを義とする者が近くおられる。だれがわたしと争うだろうか、われわれは共に立とう。わたしのあだはだれか、わたしの所へ近くこさせよ。

9見よ、主なる神はわたしを助けられる。だれがわたしを罪に定めるだろうか。見よ、彼らは皆衣のようにふるび、しみのために食いつくされる。

10あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。

11見よ、火を燃やし、たいまつをともす者よ、皆その火の炎の中を歩め、またその燃やした、たいまつの中を歩め。あなたがたは、これをわたしの手から受けて、苦しみのうちに伏し倒れる。

鍵となる聖句

2節
わたしが来たとき、なぜひとりもいなかったか。わたしが呼んだとき、なぜひとりも答える者がなかったか。わたしの手が短くて、あがなうことができないのか。わたしは救う力を持たないのか。見よ、わたしが、しかると海はかれ、川は荒野となり、その中の魚は水がないために、かわき死んで悪臭を放つ。

神は非難をひっくり返す問いを投げかけます。わたしは来た、呼んだ、しかしだれも答えなかった。神の手は贖うには短すぎません。ですから責任は神の力ではなく、民の側にあります。

4節
主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。

しもべは神から、疲れた者を言葉で助ける訓練された舌と、毎朝開かれる耳を与えられます。役に立つ言葉は、まず聞くことから生まれます。

5節
主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは、そむくことをせず、退くことをしなかった。

開かれた耳は従順へ導きます。しもべはそむかず、退きませんでした。神に従順であることは弱さではなく、神のみこころに従う一つの方法です。

6節
わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった。

しもべは背を打つ者にまかせ、顔を隠しませんでした。クリスチャンはこの節に、イエスの苦しみの予告を読み取り、神への従順には代価が伴うことがあると思い起こします。

説教が語っていること

イザヤ書50章についてよくある質問

イザヤ書50章4節はどういう意味ですか

しもべは、神が疲れた者を支える訓練された舌を与え、毎朝その耳を開いて、弟子のように聞かせてくださると語ります。意味は単純です。まず神に聞くことを学んだ人だけが、言葉によって他の人を励ませるのです。定期的に聞くことが、語ることに先立ち、それを養います。

イザヤ書50章のしもべとはだれですか

イザヤ書50章には、主のしもべの第三の歌があります。元のテキストでは、苦しみを受け入れる忠実な弟子が描かれています。キリスト教の伝統は、そこに侮辱を前にして退かなかった完全なしもべ、イエス・キリストを見ており、同時にすべての信じる者にとっての模範も見いだします。

イザヤ書50章2節の、神の手は短くないとはどういう意味ですか

神は、もう救えないと思っていた人々に答えられます。ご自分には贖い、救い出す力があると、海や川を支配する力を挙げて思い起こさせます。民が苦しみの中にとどまっているなら、その原因は神の力の不足ではなく、神の呼びかけに答えないことにあります。

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