はじめに
ある日の夕方、仕事を終えるころのことです。ヤン・アントワーヌ(Yann Antoine)は、滞在先の施設の責任者との面談を終えようとしていました。そのとき彼女は突然、数年前から知っていた夫のことを話しはじめ、「アルツハイマー」という言葉を口にしました。何気ない一日が、人と人との出会いの時に変わりました。目の前にいたのはもう責任者ではなく、苦しみの中にいる一人の女性でした。彼は飾らない言葉で、思いやりと、癒やしてくださる神への信仰を分かち合い、祈ることを約束しました。
このメッセージは、Église Lille Métropole の「ボン・ランディ(良い月曜日)」シリーズの一つです。月曜日は、教会が町へ、そして社会のあらゆる場へと散らされていく時です。消費者から貢献者へと立場が変わる時でもあります。出発点となる問いはシンプルです。もし神が日曜日だけの神ではないとしたら、どうでしょうか。
この問いに答えるため、ヤン・アントワーヌは列王記下5章を開き、「月曜日の二つの顔」を紹介します。一人は名の知れたナアマン、もう一人は名前のない、奴隷にされた少女です。彼の確信は一言に集約されます。「神は日曜日だけに収まるには大きすぎる。」
メッセージの流れ
1. 神が働くのに、教会にいる必要はない
- ナアマンはスリヤの王の軍の長で、主君から厚く信頼されていました。主が彼を通してスリヤに勝利を与えられたからです。しかしこの勇士は、彼を汚れた者とする皮膚の病にかかっていました(列王記下5:1)。
- 襲撃でイスラエルから連れ去られた一人の少女が、ナアマンの妻に仕えていました。彼女は女主人に言います。「ああ、わたしの主人がサマリヤにいる預言者のところにおいでになれればよいのですが。そうすれば彼はその病を治してくれるでしょう」(列王記下5:2-3)。
- ナアマンは王の手紙を持ってイスラエルへ向かいます。イスラエルの王はうろたえますが、預言者エリシャはナアマンに、ヨルダン川で七度身を洗うよう伝えます。ナアマンは拒みますが、考え直し、七度目に癒やされて川から上がってきます。
- 「神が働くのに、教会にいる必要はありません。」日曜日に神が私たちの内に置いてくださったものを、神は私たちの生活全体にあふれさせたいと願っておられます。
- 「神を私たちの日曜日の中に閉じ込めておくことはできません。」神の愛、力、ビジョン、そして私たちへの計画はあまりに大きく、私たちはそれを何かの形で生かすよう求められています。
2. 月曜日は履歴書の中身をあらわにする
- ナアマンは神について何も知りません。聖書も、宗教的な背景もありません。けれども、それ以外はすべて持っています。社会的地位、影響力、王への直接のアクセス、勝利、名声、富、権威です。
- それでも彼は、説教者が「月曜日の偶像」と呼ぶものにどっぷり浸かっています。大事なのは履歴書だという考え、成功、業績、肩書き、学位、人脈。そして、弱さは隠そうとすることです。
- 「私たちは、職場のような場にも、人間らしさを取り戻す必要があります。」
- 病気になったとき、ナアマンは自分の偶像に頼ります。お金で癒やしを買おうとし、権力でイスラエルの王にまで人脈を働かせます。悲劇的なときには、私たちも最高の医師や最高の助言者を探します。
- しかしイスラエルの王は答えます。「わたしは人を殺し、また生かす神であろうか」(列王記下5:7)。「履歴書の裏側にあるものに対しては、最も偉大な人でさえ何もできないことがあります。」
- 「ナアマンは儀式を望みましたが、神が差し出したのは小さな川でした。」彼は金で癒やしを買おうとしましたが、そこで出会ったのは、買うことのできない、無償で与えてくださる神でした。
3. すべてをひっくり返す「しかし」
- ナアマンという名前は「快い人、感じのよい人」という意味です。人々は彼をそのように知っていました。けれども、その名の裏には問題がありました。
- 本文では、ごく小さな一言がすべてを変えます。「しかし」です。立派な履歴書、輝かしい経歴、すべてが順調だったところに、この「しかし」が突然襲いかかります。私たちと同じく、彼も事故や脱線を予定してはいませんでした。
- 説教者は問いかけます。あなたの履歴書の裏にある、この「しかし」の後に、あなたは何を書きますか。病気、喪失、苦しみ、依存、不安、危機、性格の問題、疲れ果てた状態でしょうか。
- らい病は小さな皮膚の問題として始まり、やがて人生全体を壊していきます。それは、放っておけば人生を打ち砕きかねない私たちのあらゆる弱さを物語っています。
- それでも神はこの偉大な人を探し出し、謙遜へ、つまり「自分の履歴書や壇上から降りる」ことへと招かれます。人の話を聞くのが苦手な彼は、弱く、公的な立場のない二つの声を聞くことになります。一人はあの少女、もう一つは、彼が川に入ることを拒んだときの家来たちです。
4. 月曜日、神は無名の人を用いられる
- 少女はナアマンとは正反対です。履歴書はありません。注解者によると、おそらく10歳から14歳ぐらいです。家族から引き離され、自由を奪われ、自分の人生を壊した人に仕えることを強いられました。
- 私たちはナアマンやエリシャのことはよく覚えていますが、彼女について語る二つの節は忘れがちです。けれども、物語を変えたのは彼女であり、誰も見ていないときに神が用いられたのも彼女です。
- 彼女は「私の月曜日に、神はどこにおられるのか」と考えてもおかしくありませんでした。間違った国、間違った環境、間違った仕事です。「彼女には名前はありませんでしたが、神がいない人ではありませんでした。」
- 彼女は、すべてを持つ人を救い出せる知識を持っていました。沈黙を選ぶこともできました。その沈黙が復讐にさえなり得たでしょう。ナアマンの病を裁きと見て、「いい気味だ」と思うこともできたはずです。
- 「復讐の代わりに、沈黙の代わりに、彼女は恵みを選びました。」敵を祝福し、不正の只中で思いやりを生き、皮肉な心を拒んだのです。
- ストレスを抱えた上司や、扱いにくい同僚を前にしたとき、私たちにも問いが向けられます。彼女のように、被害者という立場から、和解と変革の担い手へと、どうすれば移れるでしょうか。
- 「彼らは彼女の自由を奪い、国を奪い、家族を奪いました。けれども、神との関係だけは奪えませんでした。」神を脇に置く世界の中で、彼女は自分のアイデンティティを守り抜きました。
5. 奇跡の引き金となった、たった一言
- 彼女の言葉は短いものです。長い演説でも、説教でも、神学的な解説でも、証しですらありません。神が働かれる可能性を開く、ただ一言です。
- 「最も偉大な奇跡は、いつも壇上から始まるわけではありません。ときには、コーヒーマシンの前での何気ない一言から始まります。」
- 対比は鮮やかです。力ある王が病を前にして無力である一方、力のない若い娘が、救いをもたらす大きな影響力を持つ者となります。
- 彼女には欠かせない材料が一つありました。勇気です。敗れた民の神が勝者を癒やせると語ることは、挑発とも受け取られかねませんでした。それでも彼女は思い切って口を開いたのです。
- ヤン・アントワーヌは、この出来事をパウロがコリントの人々に書いた言葉と結びつけます。神は、強い者に恥をかかせるために世の弱い者を選び、世の中で価値あるとされるものを無きものにするために、軽んじられているものを選ばれました(コリント人への手紙第一 1:26-28)。
- ペンテコステを生きるとは、日曜日に手を上げるだけで、来たときのまま帰ることではありません。聖霊に満たされて、一週間を通して口を開く勇気を持つことです。神が私たちに与えてくださったのは、「力と愛と慎みとの霊」だからです(テモテへの手紙第二 1:7)。
- 「私たちは次の大きなリバイバルを待つこともできます。しかし神が待っておられるのは、私たちの次の会話です。」
6. 簡単すぎるように見える恵み
- 少女のメッセージは、非難でも、「今度はあなたが私を必要とするのね」といった仕返しでもありません。それは恵みのメッセージです。「私の知っているお方を知れば、あなたは癒やされるのに。」
- 恵みとは、受けるに値しない好意です。それは謙遜のうちに差し出され、謙遜のうちに受け取られます。
- ナアマンはそれを簡単すぎると感じました。自分の国には大きな川がいくつもあるのに、なぜこの小さなヨルダン川なのか(列王記下5:12)。私たちもときどき、祈り一つで十分なのだろうかと思うことがあります。
- 「はい、それほど簡単です。それ自体が簡単だからではなく、あなたにはできなかった難しいことを、ある方が成し遂げてくださったからです。」イエスは十字架で命を捧げ、私たちに代わって罰を受けてくださいました。
- 本文には書かれていませんが、説教者はこの少女の中にイエスの姿を見ます。知られず、軽んじられ、仕える者として、家族から遠く離れ、自分の人生を壊した人が救われるようにと、その人に仕える姿です。「それは私の人生でも、私の名前でもなく、あのお方です。」
- イエスご自身もこの出来事を引用されました。預言者エリシャの時代、イスラエルには多くの重い皮膚病の人がいたのに、清められたのは、スリヤ人ナアマンのほかにはだれもいませんでした(ルカによる福音書 4:27)。神の恵みは、すでにイスラエルの境界を越えてあふれていました。それは今日、一週間の境界を越え、私たちの家庭や職場の境界を越えてあふれています。
7. あなたは明日のこの時間、どこにいますか
- ナアマンは、体が癒やされただけではありませんでした。ヨルダン川から上がった彼は宣言します。「わたしは今イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました」(列王記下5:15)。彼は自分の国へ帰り、なおも王の前でひざをかがめなければなりませんが、これからの彼の神は、この神です(列王記下5:18)。
- 立派な履歴書の裏に、何もかも順調に見える人生の裏に、神の言葉を待っている人が大勢います。
- 「あなたは今週、今朝の私のような壇上には立たないでしょう。けれども、おそらく会話の機会はあるでしょう。」バスや地下鉄の中、職場や家庭で、小さな声が、癒やし、造り変え、起き上がらせてくださるイエスへと、誰かを導くことができます。
- 説教者は、ナアマンのように奇跡を必要としている人に、謙遜と信仰をもって前に出るよう招きます。また、あまりに長く沈黙してきた信徒にも、裁くことも急かすこともなく語りかけます。「主よ、私を用いてください。私の小さな声を用いてください。」
- 彼は問いかけで結びます。あなたは明日のこの時間、どこにいますか。カフェテリア、レストラン、会議、あるいは家族と一緒の家でしょうか。彼自身は妻と一緒にいるそうです。そして、一人の名前を思い浮かべ、神の恵みがこの月曜日にあふれるように祈ることを、皆に勧めます。
要点
- 神は日曜日だけに収まるには大きすぎます。礼拝で神が私たちの内に置いてくださったものを、神は一週間を通してあふれさせたいと願っておられます。
- 月曜日は履歴書の中身をあらわにします。成功の裏には、お金も人脈も癒やせない「しかし」があることが少なくありません。
- 神は無名の人を用いられます。少女には名前はありませんでしたが、神がいない人ではなく、復讐よりも恵みを選びました。
- 勇気と謙遜をもって語られた一言が、奇跡への扉を開くことがあります。神が待っておられるのは、私たちの次の会話です。
- 恵みが簡単に見えるのは、イエスが私たちに代わって難しいことを成し遂げてくださったからです。
個人への適用
- あなたの履歴書の「しかし」の後に、あなたは何を書きますか。それを謙遜に神のもとへ持っていくことを受け入れましたか。
- あなたが最も頼りにしている「月曜日の偶像」は何ですか。成功、学位、人脈、お金のどれでしょうか。
- 職場や家庭で、恵みの代わりに沈黙や復讐を選びたくなる相手はだれですか。
- 今週、誰かをイエスへ導くために、思い切って言ってみたい簡単な一言は何ですか。
- あなたは明日のこの時間、どこにいますか。そして今日から、どの名前のために祈りはじめますか。
引用された聖句
よくある質問
「神は日曜日だけに収まるには大きすぎる」とはどういう意味ですか。
ヤン・アントワーヌによれば、神を日曜日の礼拝の中に閉じ込めておくことはできません。神の愛、力、ビジョン、そして私たちへの計画はあまりに大きいからです。日曜日に神が私たちの内に置いてくださったものを、神は月曜日にも、一週間を通して、職場でも家庭でも、私たちのいるあらゆる場所であふれさせたいと願っておられます。
ナアマンの物語における「月曜日の偶像」とは何ですか。
自分の価値を決めるために履歴書に書き込むもののことです。成功、業績、肩書き、学位、人脈などがそれにあたります。ナアマンはそれらをたくさん持っていました。病気になると、彼はそれらにしがみつきます。癒やしを買おうとし、人脈をイスラエルの王にまで働かせました。しかし履歴書の裏には、そのどれでも癒やせない「しかし」がありました。
列王記下5章の少女は、なぜそれほど重要なのですか。
彼女には名前も履歴書もなく、家族から引き離された身でした。それでも、神が用いられたのは彼女です。沈黙や復讐の代わりに恵みを選び、サマリヤの預言者のもとへナアマンを導く一言を思い切って口にしました。ヤン・アントワーヌは、そこに、月曜日に誰かをイエスへ導く信仰者の模範を見ています。
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