はじめに
2026年10月4日、神戸キリスト栄光教会の第一礼拝で、説教者は使徒行伝の続きから、使徒行伝19章8節から20節という長い箇所を読み進めました。メッセージの題はとてもシンプルで、「主の言は人生を変える」です。
エペソでパウロは福音を語ります。心を閉ざす人もいれば、信じる人もいます。神は力ある業を行い、イエスの名はあがめられ、信者たちは魔術の書物を持ち寄って、みんなの前で焼き捨てます。この記事は次のように結ばれます。「このようにして、主の言は力強く広まり、かつ勢いを増していった。」
説教者はこの箇所を四つの段階に分けて読み、最後に一人ひとりに問いかけます。あなたの家には魔術の書物はないかもしれません。しかし、あなたの人生の中で焼き捨てるべきものは何でしょうか。
メッセージの流れ
1. 主の言が語られた
- パウロはエペソの会堂に入り、三か月の間、大胆に神の国について語ります(8節)。神の国とは、神が王として治めておられるところです。この国の王として来られたのがイエス・キリストですから、パウロが語る中心は福音です。
- しかし、この良い知らせを皆が喜んで受け入れるわけではありません。かたくなになって、群衆の前で「この道」を悪く言う人たちもいました(9節)。使徒行伝ではそれは珍しいことではありませんが、パウロは福音を語ることをやめません。弟子たちを連れてそこを離れ、ツラノの講堂で毎日論じました。
- それが二年間続き、アジヤに住む人は、ユダヤ人もギリシヤ人も、みな主の言を聞いたのです(10節)。聖書は淡々と記していますが、直接パウロから聞いた人も、人づてに聞いた人も含めて、これは非常に大きな広がりです。
- 説教者は、これを身近なところに置き換えます。「板宿に住む人はみな主の言を聞いた」、あるいは「長田に住む人はみな主の言を聞いた」と言われる場面を想像してみてください。日本にはまだ福音が広まっていないとよく言われます。しかし彼はこう答えます。「あきらめるには、まだ早い。」福音の種をまき続けている人たちのために神に感謝し、また、先に救われた私たちに使命が与えられていることを感謝します。
2. 主イエスの名があがめられた
- 「神はパウロの手によって、異常な奇跡を行われた」(11節)。パウロの身につけていた手ぬぐいや前掛けを病人にあてると、病気が去り、悪霊も出て行きました(12節)。説教者は文の主語に注目します。働いておられるのは神です。パウロは器にすぎず、その器を通して主ご自身が働かれたのです。
- 彼は個人的な気づきを分かち合います。教会のポスターを作るようになってから、クリスチャンの集会、特に癒しの集会のポスターをよく見るようになりました。時々、違和感を覚えるそうです。ポスターによっては、神が中心になっていないからです。自分が招かれた集会のポスターに自分の写真が載るときや、自分自身が招いた牧師の写真を大きく載せたときにも、この問いは自分にも向けられていると認めます。そして、今は見分ける力が求められる時代であり、教会のリーダーにはこのことについて特別な責任があると結びます。
- 「この集会は間違いない」「この教会は間違いない」と言われると、牧師としてはうれしいものです。しかし、主語を間違えてはなりません。働いておられるのは神です。
- 13節から16節では、各地を巡るユダヤ人の祈禱師たち、スケワの七人の息子が、悪霊につかれた人に向かって、「パウロが宣べ伝えているイエス」の名を唱えようとします。悪霊は彼らに答えます。「イエスなら自分は知っている。パウロもわたしは知っている。だが、おまえたちは、いったい何者だ。」彼らは裸にされ、傷を負って逃げ出しました。彼らはイエスの名を知っていましたが、イエスを自分の主として受け入れてはいなかったのです。
- 説教者にとって、イエスの名は自由に使える魔法の言葉ではありません。イエスは利用する相手ではなく、その前にひれ伏し、畏れをもって仰ぎ見る方です。17節には正しい応答が記されています。人々はみな恐れを感じ、主イエスの名があがめられました。
3. 信じた人たちの生き方が変えられた
- 「信者になった者が多数きて、自分たちの行為を告白し、うち明けた」(18節)。説教者はこれを罪の告白と見ています。そして、自分の行いを人の前で明るみに出すのは、なかなか簡単なことではないとも認めます。
- 19節では、魔術を行っていた人たちが書物を持ち寄り、みんなの前で焼き捨てます。ここで信仰が、生き方の中に目に見える形で表れました。
- 彼は悔い改めとは何かを改めて語ります。神のほうに向き直り、方向を変えることです。これまで自分で握っていた人生を主にゆだね、「あなたが私の主です」と告白することです。
- 私たちは罪を持ったままイエスのもとに来ます。恵みによって信じて救われ、十字架の血によって罪は洗い清められ、信仰によって義と認められ、新しい命が与えられます。すると、その救いを受けた人の中に変化が始まります。「このままではいられない」という思いです。
- 彼は、ほかの牧師から教えられ、よく口にしている言葉を引用します。「あるがままで愛され、あるべき姿へと変えられていく。」これが悔い改めであり、御霊が日々私たちを新しくしてくださる道です。
4. 悔い改めの代価
- 焼き捨てられた書物の値段は、銀五万にのぼりました。一ドラクマはほぼ一日分の賃金にあたるので、およそ五万日分の労働に相当します。
- 説教者は計算してみました。仮に一日一万円とすると、五億円になります。もっと低く見積もったとしても、非常に大きな金額です。
- この数字は、エペソの信者たちの決意を示しています。人間的に見れば、彼らはイエスを信じたことで多くを失いました。それでも彼らの中には喜びがあり、自分から進んでそれを行ったのです。
- そして問いは自分自身に向けられます。「私たちには魔術の書物はありません。」しかし、私たちの手には、まだ焼き捨てるべきものが握られてはいないでしょうか。何かがイエスよりも大きくなると、私たちはそれにしがみついてしまう弱さがあります。自分の人生の中で、あの魔術の書物にあたるものは何かを、一人ひとりが問うことができます。
5. 主の言はさらに広がる
- 「このようにして、主の言は力強く広まり、かつ勢いを増していった」(20節)。みことばが語られ、イエスの名があがめられ、信じる人が増え、罪が告白され、生き方が変わりました。
- 主の言が一人の人に届くと、その人生は根っこから変えられます。そして、変えられた人々を通して、みことばはさらに遠くへ広がっていきます。エペソで起こったのは、まさにそのことでした。
- 説教者は会衆に、主にこう祈るよう招きます。「これをあなたにおゆだねします。私はこれを焼き捨てます。あなたが私の人生の主です。」
- また、今週、「あなたが私の主です」という信仰を、家庭で、職場で、人との関わり方の中で、お金の使い方の中で、具体的に生きるよう勧めます。主は悔い改める心を喜んでくださいます。
- 最後に祝福の言葉で結びます。主の言があなたの人生に、家庭に、教会に力強く働きますように。神がパウロの手によって奇跡を行われたように、あなたの手によっても大きなことを成し遂げてくださいます。
押さえておきたいポイント
- 福音は拒まれても忍耐強く語られ、地方全体が主の言を聞きました。あきらめるには、まだ早いのです。
- 働いておられるのは神です。しもべは器にすぎず、神が中心であり続けなければなりません。
- イエスの名は使いこなす言葉ではありません。イエスはその前にひれ伏す主です。
- 悔い改めは生き方に表れます。あるがままで愛され、あるべき姿へと変えられていきます。
- みことばによって変えられた人生は、みことばがさらに広がっていく通り道になります。
個人的な適用
- あなたの人生の中で、エペソの魔術の書物にあたるもの、焼き捨てるべきものは何ですか。
- イエスよりも大きくなってしまったために、手に握りしめているものはありませんか。
- あなたの奉仕や証しの中心にいるのは、神ですか、それともあなた自身ですか。
- 今週、「あなたが私の主です」という信仰を、家庭、職場、人間関係、お金の使い方の中でどのように生きられますか。
- あなたの周りに、まだ主の言を聞いていない人は誰でしょうか。そのみことばは、あなたを通してどのように届くでしょうか。
引用された聖書箇所
よくある質問
使徒行伝19章8-20節では何が起こりましたか。
パウロは会堂で三か月間神の国を語り、その後ツラノの講堂で二年間、毎日語りました。アジヤに住む人は、ユダヤ人もギリシヤ人もみな主の言を聞きました。神はパウロの手によって異常な奇跡を行い、主イエスの名はあがめられ、多くの信者が自分たちの行いを告白して、魔術の書物を焼き捨てました。
スケワの息子たちから何を学べますか。
各地を巡るこのユダヤ人の祈禱師たちは、イエスの名は知っていましたが、イエスを自分の主として受け入れてはいませんでした。彼らはその名を呪文のように使おうとして、敗走しました。説教者にとって、イエスの名は自由に使える魔法の言葉ではありません。イエスは利用する相手ではなく、その前にひれ伏す方です。
エペソの信者たちはなぜ魔術の書物を焼き捨てたのですか。
それは悔い改めの実でした。神のほうに向き直り、それまで自分で握っていた人生を神にゆだねたのです。書物の値段は銀五万、およそ五万日分の賃金にあたります。人間的に見れば損失でしたが、彼らは自分から進んで、喜びをもってそれを行いました。彼らの信仰は、生き方の中に目に見える形で表れたのです。