はじめに
小さな神には、小さな救いしかありません。大いなる神には、大いなる救いがあります。これが、説教者が出エジプト記3章と4章を黙想しながら、冒頭で示す一貫したテーマです。あなたがアブラハムと契約を結ばれ、御子イエス・キリストを遣わされた神様を知りたいと願うなら、神様ご自身に自己紹介していただくほかありません。あなたの印象や感情から神様を知ることはできません。神様が語ってくださり、あなたはそれに耳を傾けるのです。
まさにそれが、燃える柴のもとで起こったことです。モーセは、しゅうとであるミディアンのエテロの羊の群れを飼っていました。日々の生活が続いていました。ところが突然、柴が燃えているのに、燃え尽きないのです。モーセは道をそれて近づいていきます。そこで、目に見えない神様がご自分を現し、語りかけ、ご自分の名前を告げられます。この出会いは、私たちのために一度だけ経験された出来事です。そしてそれは、さらに大きな出会い、すなわちイエス・キリストにおける出会いを備えるものでした。イエス様こそ、「わたしはある」というこの名前をご自分のものとされる方だからです。
出エジプト記3章と4章全体を貫く問いは、「約束の神様とはどなたか」というものです。アブラハムになされた約束、そしてイエス・キリストを信じるすべての国民のために成就する約束です。この箇所は三つの明確な答えを与えています。神様は契約の神です。神様は救いの神です。神様は信頼するに値する神です。
説教の構成
1. 神様は契約の神です(出エジプト記3章1〜6節)
モーセは、しゅうとであるエテロの羊の群れを飼っていました。かつてはエジプトの王子として見られていたかもしれない人が、荒野のどこかで、家族と共に毛皮の衣を着て過ごしています。日々の生活が続いていましたが、ある時、主の使いが柴の間の炎の中でモーセに現れます。柴は燃えていましたが、燃え尽きませんでした。
これはすでに、神様について何かを語っています。神様は簡単には近づけないお方でありながら、ご自分を現したいと願っておられるお方でもあるのです。神様はモーセに言われます。「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる地だからである。」そして続けて言われます。「わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
神様が語られる理由、ご自分を現される理由、そして介入される理由は、神様が契約の神だからです。神様はアブラハムと契約を結ばれ、ご自身がその契約の保証人となられました。アブラハム、イサク、ヤコブには、契約を守り抜く力はありませんでした。彼らはとうの昔に世を去っています。それでも神様はこう言われます。「わたしはその人たちの神である。」神様ご自身が契約を保証してくださるのです。
あなたの周りを見てください。友人同士の約束も、夫婦の関係も、仕事上の取り決めも、国と国との協定も、すぐに揺らぎ、軽んじられ、しばしば破られてしまいます。良い知らせは、あなたが契約の神に属しているということです。決して嘘をつかれない神様です。神様が何かを言われるなら、それを必ず実行されます。あなたはそのことによって新たにされることができるのです。
2. 神様は救いの神です(出エジプト記3章7〜22節)
神様の真実さは、どのように現れるのでしょうか。それは、ご自分の民のために成し遂げられる大いなる救いによってです。約束の神様は、約束を守られる契約の神であると同時に、救いの神でもあります。それは3章7節から3章の終わりにかけて、特にはっきりと示されています。
本文の前後、7〜10節と16〜22節には、こだまのように神様の計画が明かされています。「わたしはわたしの民の叫びを聞いた。彼らを圧迫するエジプト人のゆえに。わたしは下って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この地から良い広い地、乳と蜜の流れる地へ導き上る。」筋書きはすでに書き上げられています。神様こそ、これから起こることの偉大な作者です。神様は、経緯も、結末も、展開も、行き詰まりも、突破口も、救いも、目的地もすべて備えておられます。
この計画の開示の中心に、神様のお名前の啓示があります。モーセは尋ねます。「もし彼らが、その名は何かと尋ねたら、何と答えればよいでしょうか。」神様は答えられます。「わたしはある。わたしはあるという者である。イスラエルの人々にこう言いなさい。『わたしはある』という方が、わたしをあなたがたのもとに遣わされた、と。」この言葉については、実に多くのことが語られてきました。まずこの言葉が語るのは、神様が私たちの手には収まらないお方だということです。神様は自由で、主権をお持ちです。昨日も今日も、とこしえに変わらないお方です。あなたは神様を小さな箱に閉じ込めることはできません。
しかし神様がモーセに、それを民にどう伝えるかを説明されるとき、契約と救いの話に戻られます。言い換えれば、「わたしはこれからあるという者になる。わたしを知るためには、わたしがなすことを見なければならない」ということです。生ける神様を知るためには、神様の救いを知る必要があります。神様は、ご自分の民の解放のために働かれる神として知られることを望んでおられます。なぜなら、大いなる約束の成就は、大いなる救いを通してもたらされるからです。
聖書が語る救いは、小さな出来事ではありません。それは、神様に反逆した人間と神様ご自身との間にある、埋めがたい溝を埋めることです。それは、イスラエルのためだけでなく、あらゆる形の奴隷状態に置かれた人類全体のために、牢獄を開くことです。それは、死に対する勝利です。それはヨハネの黙示録21章が約束していることです。もはや悲しみもなく、叫び声もなく、痛みもありません。以前のものが過ぎ去ったからです。
3. 神様は信頼するに値する神です(出エジプト記4章1〜31節)
神様がこれほどまでにすべてを成し遂げてくださり、筋書きがすでに書かれているのなら、モーセの役割は何なのでしょうか。それは決して無駄なものではありません。神様は、モーセを彼の持ち場に据えることを強く求められます。モーセもその重みをよく理解していました。1節でこう答えます。「彼らは私を信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。」問題は、民が行動しなければならないということではなく、民が信じなければならないということなのです。
そこで登場するのが、しるしです。杖が蛇に変わること、らい病になった手が元通りになること、ナイル川の水が血に変わること。5節を見てください。「これは、彼らの父祖の神、主が、あなたに現れたことを彼らが信じるためである。」8節。「もし彼らが最初のしるしを信じず、耳を傾けないなら、後のしるしを信じるであろう。」しるしの目的は、人々がモーセの伝える言葉を信じるためです。信仰とは、御言葉への信頼を通して生まれるのです。
それでもモーセは後ずさりを続けます。「主よ、私は口の重い者です。」神様は、口を与えるのはご自分であることを思い起こさせられます。それでもモーセはこう言うに至ります。「ああ主よ、どうか、ほかの人を遣わしてください。」すると主の怒りがモーセに向かって燃え上がります。それでも神様はモーセを見捨てられません。モーセの兄アロンを彼に与え、モーセの口となるようにされます。アロンは、神様がモーセに語られる御言葉を、民に語り伝えることになります。
主は、ご自分の救いの計画を成し遂げることを、何ものにも妨げさせません。パロの頑なさも、モーセの抵抗も、そのときどきの状況も、それを止めることはできません。ツィポラが息子に割礼を施し、モーセを裁きから救ったあの困難な出来事(出エジプト記4章24〜26節)でさえ、契約の民に属する者にとって、契約のしるしは大切に守られなければならないことを思い起こさせます。その結果が31節に記されています。「民は信じた。主がイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを見られたことを知って、彼らはひざまずき、礼拝した。」神様は、民が契約の神、救いの神、信頼するに値する神を信じるように備えてくださったのです。
覚えておきたいポイント
- 小さな神には小さな救いしかなく、大いなる神には大いなる救いがあります。 あなたが自分の感情から神様を形づくり続ける限り、あなたの手元に残るのは、ポケットに入るほどの小さな神です。神様ご自身が、御言葉の中でご自分を現してくださるのに任せなければなりません。
- 契約の神様は、ご自身によって真実なお方です。 神様はアブラハム、イサク、ヤコブに対する約束を、彼らの死後何世紀も経ってから守られました。あなたがこの神様に属していることは、あなたの周りにある、揺らぎやすいあらゆる人間の契約よりもはるかに確かなことです。
- 「わたしはある」というお名前は、神様の神秘と臨在を語っています。 神様はあなたの手には収まらないお方でありながら、ご自分がなさることを通して、ご自分を知らせてくださいます。生ける神様を知るためには、神様の救いに目を向ける必要があります。
- 出エジプトの救いは、より大いなる救いを備える小さな救いです。 海の通過、災い、らい病の手など、これらは歴史の中で一度限りの出来事です。しかしそれは、イエス・キリストの十字架で成し遂げられる大いなる救いを予告しているのです。
- 神様が求めておられる応答は、信じることです。 民はひざまずき、礼拝しました。今日も神様は、あなたに耳を傾け、驚き、信じ、礼拝することを求めておられます。
あなた自身への適用
- あなたが神様について考えるとき、それはどんな神様のことを指していますか。出エジプト記3章と4章に現れる神様でしょうか、それともあなたの感情から作り上げた神様でしょうか。
- 「私は何者でしょうか」というモーセの問いのように、あなたが行き詰まりを感じているのはどんな場面ですか。神様が「わたしはあなたと共にいる」と答えてくださることは、今週のあなたの歩み方をどのように変えるでしょうか。
- 今、あなたの周りにある人間の契約で、あなたを失望させているものは何ですか。契約の神様に属していることは、他者に無関心になることなく、どのようにあなたを強めてくれるでしょうか。
- イエス・キリストの十字架は、契約の神、救いの神、信頼するに値する神を見ることができる場所です。あなたが最後に、急いで通り過ぎることなく十字架を見つめたのはいつですか。
- 今週、あなたの周りの誰に、イエス様を信じることは「人間の分類を変えること」ではなく、大いなる物語の中に入ることなのだと伝えられるでしょうか。
引用聖句
- 出エジプト記3章 ・ 燃える柴とモーセの派遣。
- 出エジプト記3章14〜15節 ・「わたしはある。わたしはあるという者である。」
- 出エジプト記4章 ・ しるし、アロンの使命、信じる民。
- イザヤ書43章10〜13節 ・「わたしのほかに救い主はいない。」
- ヨハネ17章3節 ・「永遠のいのちとは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
- ヨハネ8章58節 ・「アブラハムが生まれる前から、わたしはあるのです。」
- ローマ15章4節 ・「かつて書かれたすべての事柄は、私たちを教え導くために書かれたのです。」
- ヨハネの黙示録21章 ・ もはや悲しみもなく、叫び声もなく、痛みもない。
よくある質問(FAQ)
「わたしはある」という言葉はどういう意味ですか?
出エジプト記3章14節で、神様がご自分につけられた名前です。この言葉は二つのことを語っています。まず、神様は私たちの手には収まらないお方だということです。自由で、主権をお持ちで、永遠であり、昨日も今日も、いつまでも変わらないお方です。そして、神様がご自分の民のためになさることを通して、私たちは神様を知るようになるということです。モーセにとっても、あなたにとっても、この神様を知ることは、神様の救いを見ることを通して起こるのです。
なぜ神様はモーセに「あなたが何者か」ではなく「わたしはあなたと共にいる」と答えられたのですか?
モーセは「私は何者でしょうか」と問いかけます。神様の答えは、中心を移し替えます。問題はモーセ自身や彼の能力ではなく、彼を遣わされる神様なのです。キリスト教とは、この中心の転換そのものです。中心は私ではなく、生きておられるまことの神様です。モーセに与えられたしるし(「あなたがたはこの山で神に仕える」)は、すべてが成し遂げられたときに実現します。それは、神様がご自分のなさることを確信しておられるからです。
燃える柴とイエス・キリストの十字架にはどんな関係がありますか?
燃える柴は歴史の中で一度限りの出来事です。しかしそれは、より大いなる救いを予告する小さな救いなのです。イエス様はヨハネの福音書の中で「わたしはある」という名前をご自分のものとして用いられます。わたしはいのちのパンである、世の光である、門である、良い羊飼いである、よみがえりであり、いのちである、道であり、真理であり、いのちである、まことのぶどうの木である、と。十字架の上で、あなたは神様の聖さ、正しさ、愛、恵み、そして真実を見ることができます。イエス様の血によって、契約は決して壊れることなく、救いは完全であり、神様は信頼するに値するお方なのです。
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