はじめに
聖書の中には、お祝いの香りがする箇所があります。ルカ15章1節から10節は、まさにそのひとつです。羊飼いが荒野で一匹の羊を追いかけ、女性がともし火の明かりの中で家を掃除する。そして二度繰り返される同じ言葉、「私と一緒に喜んでください」。イエス様がこの二つの小さな物語を語られたのは、取税人や「罪人」たちと食卓を共にすることに不満をつぶやくパリサイ人たちに答えるためでした。イエス様はそこで、見つかるまで探し続ける父の心と、その再会が天に引き起こす尽きることのない喜びを、率直に示してくださいます。
説教者はここで、メッセージ全体を貫くシンプルな対比を示します。宗教とは、人間が自分のやり方で、自分の規則と自分が思い描いた楽園でもって神を探し求めることです。それに対して関係とは、神ご自身が、愛のゆえに失われた人間を探し求めることです。私たちの誰一人として、この問いから逃れることはできません。もしあなたの心が宗教によってすり減っているなら、もし自分の人生にもう味わいがないと感じているなら、あるいはもし神についてもう「すべて分かった」と思っているなら、この箇所はあなたのためのものです。この箇所は、あなたが見つけていただくことを勧めているのです。
メッセージの構成
1. 驚くべき出会い(1〜2節)
- イエス様はエルサレムへと向かう途上におられました。そこで人々に御国への道を開くために、ご自身のいのちを献げようとしておられたのです。その周りには、ルカによれば三つのグループがいました。イエス様ご自身、取税人(徴税請負人)と罪人たち、そしてもう一方にパリサイ人と律法学者たちです。
- 当時の取税人は、ユダヤの民から見れば、ローマの占領者に協力する裏切り者でした。彼らはローマのために税を取り立てながら、その途中で自分の懐も潤していたのです。「罪人たち」とは、ユダヤの律法に従わなかったすべての人々、素行の悪い人々、宗教的に排除された人々、評判の落ちた人々のことでした。聖なる者を自称する人物の食卓に、最も似つかわしくないと思われていた人たちです。
- それでも本文には、彼らが「イエスの話を聞こうとして近寄って来ていた」とあります。彼らは、14章でイエス様が語られたばかりの招き、「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉を、そのまま真剣に受け止めたのです。彼らはそこにいて、受け入れられることを切実に願っていました。そしてイエス様は、彼らを迎え入れられました。
- イエス様のなさったことは衝撃を与えました。良い意味での衝撃ではありますが、やはり衝撃です。パリサイ人たちはつぶやきました。声をひそめて、あるいは心の中だけで語っていたのかもしれません。声に出して言うには、あまりにも見苦しかったからです。彼らにとって、イエス様にはあのような人々と席を共にする資格などありませんでした。聖なる食卓は「分かっている人」のためのものだったのです。
- この二節の中に、すでに本文の二つの力学が浮かび上がっています。裁き、断罪し、自分と考えの違う人に対して心を頑なにする宗教。そして、すべての人が拒む者に手を差し伸べるイエス様に体現された関係です。
2. あふれる喜び(3〜10節):二つのたとえ、一つの心
- パリサイ人たちの頑なさに応えるため、イエス様は双子のような二つのたとえを語られます。羊飼いは百匹のうち一匹を見失います。女性は十枚のうち一枚のドラクマ銀貨を見失います。どちらの場合も、その人物はすべてを後回しにして、見つかるまで探し、それから隣人や友人を呼び集めて、共に喜びます。
- 羊飼いにとって羊は、単なる家畜の一頭ではありません。彼にとって最も大切な財産です。羊飼いには家も、お金もないかもしれません。彼にとって群れこそが人生そのものなのです。女性にとってのドラクマ銀貨は、ほぼ一日分の労賃に相当しました。女性がほとんど何も持てなかった時代において、一日分の稼ぎを失うことは、非常に大きな出来事だったのです。
- この二つの失われたものは、私たち自身の姿です。私たちは迷い出た羊であり、家具の下に転がり込んだドラクマ銀貨です。もし自分の罪の重さに押しつぶされそうになっているなら、もし日曜の礼拝、機械的な祈り、BGMのように流れる聖書の言葉といった宗教的な習慣が、もはや自分の心を何も変えていないと気づいているなら、まさにあなたこそ、神が探しておられる者なのです。
- ここで重要なのは、探し求める方向です。羊を追いかけるのは羊飼いであり、家を掃除するのは女性です。決してその逆ではありません。行動を起こすのはいつも神の側なのです。
3. 探し求める神の二つの姿
- なぜ二つのたとえなのでしょうか。イエス様は、救い主なる神の二つの側面を見せようとしておられるからです。
- 羊飼いは力強く、勇敢で、危険をも恐れません。彼は九十九匹を残して、荒野へ一匹だけを探しに行きます。見つけたときには、「喜んで自分の肩に」担ぎます。羊を安全な場所へと導くのです。もう誰にも奪われることはありません。これは、神が時として私たちを力ずくで捕らえ、時には打ち砕き、試練の時を通らせてでも、滅びから引き離してくださる姿です。
- 一方、女性はじっくりと時間をかけます。ともし火をともし、家を掃除し、「注意深く」探します。彼女は穏やかで、忍耐強く、粘り強いのです。これは、忍耐をもって私たちに関わり、優しい声で語りかけ、私たちの周りに恵みを積み重ねてくださる神の姿です。神が必ずしもあなたに苦しみを与えて注意を引くわけではないと知ってください。神はあなたを満たし続け、やがてある日、あなたが持っているすべては神から与えられたものだと気づかせてくださることもあるのです。
- 羊飼いの声は、宗教によって頑なになった私たちの心を震わせます。女性の声は、うまく整えられていると思っていた人生に、静かに入り込んできます。どちらの場合も、行動を起こすのは神であり、神は探し求めることに決して疲れることがありません。
4. 悔い改めの喜び
- この天の喜びには、一つの条件があります。それは悔い改めです。イエス様はこれを二度語られます。「悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、悔い改める一人の罪人のために、天では大きな喜びがある」(7節)。そして、「悔い改める一人の罪人のために、神の御使いたちの前に喜びがある」(10節)。
- 悔い改めとは、難しい宗教用語ではありません。それは心と考え方、態度の本当の変化です。自分が、聞いたこともないような最悪の犯罪者と同じくらい、神から遠く離れているかもしれないと認めることです。イエス様の前で泣き、自分の言い訳と自分の宗教を手放し、「自分の理屈を空にして」イエス様のもとに来て、従う覚悟をすることです。
- それが起こるとき、天のすべてが祝いの時を迎えます。御使いたちの喜びをどう思い描けばよいでしょうか。あなたがこの地上で経験した最大の喜びを想像し、それを十億倍にしてみてください。それでようやく、誰かがイエス様に「はい」と答えるとき天で起こっていることに、少し近づき始めるのです。
5. あふれ出る喜び
- 羊飼いも女性も、探していたものを見つけたとき、一人でひっそりと味わうことはしません。友人や隣人を呼び集めて、「私と一緒に喜んでください」と言うのです。この喜びは個人的なものではありません。分かち合われ、伝えられ、公にされる喜びなのです。
- 神が罪人の悔い改めに対してなさることも、まさにこれです。神の喜びは分かち合われる喜びです。なぜなら神は関係の神だからです。神は私たちに、ご自分のもとに帰るよう招くだけでなく、天のすべての取り巻きに、共に喜ぶようにと招かれるのです。
- この光景の中には、高慢も、自己中心も、パリサイ人たちのつぶやきも、もはや入り込む余地がありません。問われるのは、誰かがイエス様のもとに来たとき、あなたの喜びは天の喜びに似ているだろうか、ということです。それとも、その新しい信者が「まだあなたのように分かっていない」からといって、警戒してしまうでしょうか。
- 説教者は自分自身の回心について語ります。友人のジョージは何か月も彼のために祈り続けていました。彼がついに主に人生をゆだねたとき、ジョージは彼を祈り会に招きました。すでに彼のために祈っていた十人ほどの兄弟姉妹たちが、その夜、詩篇を読みながら一時間近く共に喜び合ったのです。彼はそのことに大きな驚きを覚えました。この小さな規模の喜びこそが、天の喜びを映し出すものなのです。
6. 見逃してはならない警告
- このたとえは、約束であると同時に警告でもあります。約束とは、神は探し求めることに疲れず、最後には必ず見つけてくださるということです。警告とは、「悔い改める必要のない者」たちへの注意です。
- 福音派であれ、カトリックであれ、プロテスタントであれ、肩書きは関係ありません。すべてを分かったと思った瞬間、御言葉に心を動かされなくなった瞬間、私たちはつぶやくパリサイ人たちの列に加わってしまいます。そしてその喜びを逃してしまうのです。
- イエス様との関係は、生きたものであり続けなければなりません。開かれたものであり続けなければなりません。「もし私たちが一度救われたのなら、私たちは毎日救われ続けているのです。」
覚えておきたいポイント
- 宗教とは、人間が自分のやり方で神を探し求めることです。関係とは、神が失われた人間を探し求めることです。この二つの力学は、決して同じ方向を向いていません。
- 私たちは羊であり、ドラクマ銀貨です。神を見つけるのは私たちではなく、神が私たちを見つけに来てくださるのです。羊飼いの力強い呼び声によって、あるいは女性の粘り強い忍耐によって。
- 天の喜びは、詩的なイメージではありません。それは現実の喜びであり、一人の罪人が悔い改めるとき、無限にあふれ出す喜びです。
- この喜びは、分かち合われるためのものです。関係の神は、決して一人だけで喜ばれることはありません。
- この箇所の本当の危険は、イエス様のもとに来る取税人ではありません。すでに到達したと思い込み、気づかないうちに父から離れてしまうパリサイ人こそが、本当の危険なのです。
自分への適用
- あなたは神を思い浮かべるとき、まず自分の努力で到達すべき方だと考えますか。それとも、すでにあなたを探しておられる方だと考えますか。この箇所は、あなたが神の前に立つ姿勢をどのように変えるでしょうか。
- 探し求める神の二つの姿のうち、今のあなたはどちらに自分を重ねますか。あなたを揺さぶりに来る羊飼いの姿でしょうか、それとも日々優しく語りかけ続ける女性の姿でしょうか。
- あなたの人生の中に、イエス様との関係の代わりになってしまった「宗教」はありますか。誇りに思っているけれど、もう心を温めなくなった儀式、習慣、クリスチャンとしてのアイデンティティはありませんか。
- あなたの身近な誰か(家族、教会、周りの人)が回心するとき、あなたの最初の反応は、羊飼いや女性のように「私と一緒に喜んでください」と言うものでしょうか。それとも、つぶやくパリサイ人のようなものでしょうか。
- 今週、あなたの周りにいる失われた人のために、具体的に祈る時間を持ってみてください。神がすでにその人を探しておられることを心に留めながら。あなたは自分の小さな場所で、どのようにその人のために「イエス様に従う者」となれるでしょうか。
引用された聖句
- ルカ 15:1-10 ・ 見失った羊と失われたドラクマ銀貨のたとえ。
- 創世記 3:9 ・ 「あなたはどこにいるのか」。隠れる人間への神の最初の呼びかけ。
- ルカ 14:35 ・ 「聞く耳のある者は聞きなさい。」
- ヨハネ 14:6 ・ 「わたしは道であり、真理であり、いのちである。」
よくある質問
なぜイエス様は一つではなく、二つのたとえを語られたのですか。
それは、同じ神の二つの側面を見せようとされたからです。羊飼いは力強さ、勇気、決意を表します。神は時にリスクを取り、私たちを打ち砕いてでも滅びから引き離してくださいます。女性は優しさ、忍耐、粘り強さを表します。神はともし火をともし、私たちを急かすことなく語りかけ続け、私たちの心が動くまで恵みを積み重ねてくださいます。この二つはどちらも真実です。時期によって、あなたはどちらか一方を経験することになるでしょう。
この箇所における悔い改めとは何ですか。
それは空虚な宗教用語ではありません。心と態度の本当の変化です。自分が、自分が裁いている最悪の人々と同じくらい神から遠く離れているかもしれないと認めること、言い訳を手放すこと、「自分の理屈を空にして」イエス様のもとに来て、従うと決めることです。これは、御使いたちが喜ぶ罪人がすることであり、何も必要ないと思い込んでいるパリサイ人たちの態度とは、まさに正反対のものです。
この箇所は、すでに福音を「知っている」クリスチャンに何を語りかけていますか。
それは、警告に耳を傾けなさいということです。この箇所はまさに「悔い改める必要のない者」たちに向けられています。すべてを分かったと思い込み、御言葉にもう心を動かされなくなり、自分と考えの違う人を裁くようになった瞬間、私たちはつぶやくパリサイ人たちの列に加わり、天の喜びを逃してしまいます。その処方箋はシンプルです。凝り固まった宗教にとどまるのではなく、イエス様との生きた関係にとどまり続けることです。
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