使徒行伝2章 ペンテコステ、すべての人に注がれた聖霊

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はじめに

教会の誕生日はいつでしょうか。パリのÉglise Connexionの責任者のひとりであるEduardoは、使徒行伝2章1〜21節のメッセージを、この問いから始めます。この教会はちょうど12周年を迎えたところですが、本当の始まりはいつなのでしょうか。最初の礼拝の日、教会開拓が決まった日、それとも宗教法人格の団体が設立された日でしょうか。

キリスト教会全体についても、同じ問いを立てることができます。イエスが使徒たちを選んだ時、死んだ時、よみがえった時でしょうか。それともペンテコステの日でしょうか。Eduardoは最後のものを選びますが、ほかの選び方をする人がいることも認めています。この出来事は「教会とは何か、そして教会がどのように築かれるかを、かなりよく語っている」からです。

メッセージは三つの問いに沿って進みます。弟子たちはなぜそこにいたのか。何が起こったのか。そして12節の群衆のように、「これはどういうことなのか」。

メッセージの流れ

1. ふたつの誕生日

  • Eduardoの祖父には誕生日がふたつありました。父親が出生届を出すのが遅れ、役所の職員が誕生日ではなく届け出の日を記入したためです。
  • 出来事によっては、市民婚と宗教上の結婚式のように、始まりの日が複数考えられるものがあります。それぞれに意味があり、その出来事が何であるかを照らし出します。
  • キリスト教会については、Eduardoはペンテコステを選びます。この箇所は、教会がどのように生まれ、何者であるかを示しているからです。

2. 彼らはなぜそこにいたのか

  • この出来事は、イエスの死と復活からおよそ50日後に起こりました。40日の間、イエスは弟子たちに現れ、その後、天に上げられました。
  • 昇天の前、イエスは弟子たちに、上からの力を受けるまでエルサレムにとどまるよう求めました。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1章8節、口語訳)。この力は、彼らが証人であることと結びついています。
  • 男性も女性も、若者もそうでない人も含めておよそ120人が、10日前から大きな家の「この部屋のような広間」で祈りながら待っていました。
  • 外では町が人であふれています。ペンテコステ(ヘブライ語でシャブオット)は、敬虔なユダヤ人がエルサレムに上る祭りのひとつです。Eduardoはその雰囲気をパリのオリンピックにたとえます。あらゆる国の人々、音楽、人であふれた通りです。
  • これは収穫祭で、小麦の初穂を祝う祭りです。この日、教会は最初の実を結ぼうとしています。

3. 何が起こったのか

  • まず音がしました。それもただの音ではなく、激しい風のような音です。ヘブライ語の「ルーアッハ」もギリシア語の「プニューマ」も、同じ言葉が「風」とも「霊」とも訳せます。
  • 次に、火のような舌が現れました。この言葉は炎の形を指すと同時に、話される言語(舌)も意味します。ヨハネス・クリュソストモスは、これらの舌がひとつの根から出て、そこから分かれて、その場にいる一人ひとりの上にとどまったことを指摘しています。
  • 「そこで終わっていたとしても、すでに印象的だった」のです。しかし彼らは全員、聖霊に満たされました。数滴ではありません。Eduardoは、瓶を最後の一滴まで飲み干す様子を思い浮かべ、「ごくごくごく」と表現します。
  • 聖霊は、エネルギーでも不思議な力でもありません。聖書は聖霊を神ご自身として示します。父、子、聖霊、唯一の神です。聖霊とは「ここにおられて働いておられる神」なのです。
  • 旧約聖書では、霊は限られた人にだけ、一時的に、特定の使命のために臨みました。預言者、士師、王などです。しかし預言者たちは、神がご自分の霊を民全体の内に置かれる日を告げていました。「わたしはあなたがたに新しい心を与え、新しい霊をあなたがたのうちに置き」「わたしの霊をあなたがたのうちに置いて」(エゼキエル書36章26〜27節、口語訳)。

4. 学ぶことのできない言語

  • Eduardoは、エラム人の巡礼者の一団が足を止める場面を想像します。「ちょっと待て、母語を話している人たちがいるぞ。ここにエラム人の集まりがあるなんて、誰も言っていなかった!」。同じことが、アラビヤ人、エジプト人、ローマ人、クレテ人にも起こります。
  • 話しているのは、ガリラヤ人、つまり教育を受けていない田舎の人々です。しかも彼らは、誰も学んでいない十ほどの言語を話しています。今日なら、英語、スペイン語、中国語(北京語)は学んでも、中国南部の方言やペルーの先住民の言語は学びません。当時も、ラテン語、ギリシア語、アラム語は学んでも、フルギヤやカパドキヤの言葉は学びませんでした。
  • 彼らは「神の大きなみわざ」(11節、口語訳)を語っています。預言の成就、御国の確立、イエスの犠牲による救いと罪の赦し、よみがえったイエスがメシヤ、王として立てられたことです。
  • 群衆は驚き、どう考えてよいかわかりません。あざける人もいます。「かれらは甘いぶどう酒に酔っているのだ」(使徒行伝2章13節、口語訳)。「理解できない状況に対して、皮肉な答えを見つけることは、いつでもできる」ものです。しかし本当の問いを投げかける人たちもいます。これはどういうことなのか。

5. これはどういうことか。ペテロはヨエルで答える

  • ペテロはまず非難を退けます。まだ朝の9時なのです。「120人もが朝の9時にそろって酔っているなど、さすがに無理がある」。
  • 続いて、使徒行伝2章16節で、これは預言者ヨエルが語っていたことだと答えます。彼はイエスが10日前にした約束だけを語ることもできました。しかしペテロは、この約束が何世紀も前にさかのぼり、120人の弟子を超えるものであることを認めています。
  • 「わたしの霊をすべての人に注ごう」(使徒行伝2章17節、口語訳)。この奇跡は力の誇示ではありません。神が「Duolingoがとても得意」だと見せつけているのではないのです。霊がガリラヤ人の小さな集団のためだけのものではない、ということを意味しています。
  • これらのユダヤ人は、敵対する地域から来ていました。ある人々はローマ帝国から、ある人々はパルテヤ帝国からです。神は、互いにまったく関わりのない人々にご自分の霊を注がれます。
  • 「あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」(使徒行伝2章17節、口語訳)。これは、全員が含まれるということを文学的に表した言い方です。「あの人は決して聖霊を受けられない」と他人について言える人はいません。
  • 聖書で預言者とは、占い師、「ノストラダムスのような人」ではありません。神の望まれることを告げるために、霊に満たされた使者です。神の大きなみわざを告げ知らせる弟子たちは預言しており、ペテロもそうです。彼らは約束された力を受け、証人となる備えを与えられ、実際に証人となっています。
  • 「終りの時には」という表現はヨエルの本文にはなく、ペテロが加えたものです。終りの時とは、一方ではイエスの復活と霊の到来の間、他方ではすべてのものの刷新と裁きの間の時代です。「主の御名を呼び求める者は、すべて救われるであろう」(使徒行伝2章21節、口語訳)という時代です。
  • ペテロにとって、この御名とはイエスの名です。ご自分のしもべとはしためである男女に霊を注がれるのは、イエスです(使徒行伝2章33〜36節、次回のメッセージの箇所)。

6. ペンテコステが私たちに意味すること

  • この箇所は、私たちもその一部である物語の始まりです。使徒行伝には本当の結末がありません。「それでよいのです」。ペンテコステに始まったことは終わっていません。今日集まっている教会こそが、預言の成就なのです。
  • 「キリスト教の聖なる言語とは、あなたの母語です」。神があなたの言葉で神の大きなみわざを預言させることによって、その言葉を聖別されたからです。Eduardoはここに、諸国民の中におられる神の民についてのミカの預言など、ほかの預言の成就も見ています。
  • 4世紀から5世紀にかけて生きたアウグスティヌスは、こう語りました。ペンテコステには、霊がガリラヤ人にあらゆる言語を話させた。今日では、あらゆる国の人々から成る教会が、あらゆる言語を話している、と。
  • どんな文化も、背景も、性別も、年齢も、過去の経験も、身体的または心理的な状態も、聖霊を受ける可能性から誰かを締め出すことはありません。「誰かについて、そんなことは言えません。自分自身についても、そんなことは言えません」。
  • これほど多くの違いを前にすると、自分に似た人たちの教会を探したくなるかもしれません。それは人間らしいことであり、ときには賢明でさえあります(歌い、説教される言葉は理解できる必要があります)。しかしそれは時として、「聖霊の力強いみわざの豊かさが見えなくなる近視眼」でもあります。
  • その週は、教皇のフランス訪問が、若者の間での宗教の回帰について多くの論評を呼んでいました。Eduardoは、皮肉な答えを探すのではなく、目に見えるものを、イエスが注がれた霊のみわざに照らして読み取るよう勧めています。
  • ペンテコステは、私たちの日常よりも印象的に見えます。「しかし私たちは今日も同じ証しを担い、今も同じ約束の成就なのです」。次の問い「私たちは何をすべきか」は、次回のメッセージで扱われます。

要点

  • 聖霊は不思議な力ではなく、神ご自身です。今ここにおられて働き、弟子たちに豊かに注がれています。
  • ペンテコステはヨエルの約束を成就します。霊は、言語、文化、年齢、性別の区別なく、すべての人に与えられます。
  • 霊は、使徒行伝1章8節で約束されたとおり、教会が証人となり、神の大きなみわざを告げ知らせるための備えを与えます。
  • 私たちは終りの時に生きています。主イエスの御名を呼び求める者が救われる時代です。
  • ペンテコステに始まったことは続いています。今日の教会は、その多様性のままに、その成就です。

個人への適用

  1. 心の底で「この人は決してクリスチャンにならないだろう」と思っている人はいませんか。そして、自分自身についてそう思うことはありませんか。
  2. あなたは、自分に似た人たちの教会を探していますか。それとも、自分とはまったく違う兄弟姉妹の豊かさを見ることができますか。
  3. あなたは聖霊をどう見ていますか。つかみ取るべきエネルギーですか。それとも、あなたを証人として備えてくださる神ご自身ですか。
  4. 神があなたの周りでしておられることを前に、あなたの反射的な反応は皮肉な答えですか。それとも「これはどういうことなのか」という問いですか。
  5. 今週、あなたは誰に神の大きなみわざを伝えられるでしょうか。自分の言葉で、自分の表現で伝えてみましょう。

引用された聖句

よくある質問

使徒行伝2章のペンテコステの日に何が起こったのですか。

イエスの復活からおよそ50日後、エルサレムに集まっていた約120人の弟子たちは、激しい風のような音を聞きます。火のような舌がひとりひとりの上にとどまり、彼らは聖霊に満たされて、祭りのためにあらゆる国から来た巡礼者たちの母語で、神の大きなみわざを告げ知らせ始めました。

なぜペテロはペンテコステで預言者ヨエルを引用するのですか。

「これはどういうことなのか」と尋ねる群衆に、ペテロは、これはヨエルが告げていたことだと答えます。神はすべての人にご自分の霊を注がれるのです。この約束は10日前のものではなく何世紀も前のものであり、ガリラヤ人の小さな集団に限られません。男も女も、若者も老人も、あらゆる言語と文化の人々が含まれています。

ペンテコステは今日の教会にとって何を意味しますか。

Eduardoにとって、ペンテコステに始まったことは終わっていません。今日集まっている教会は、同じ約束の成就です。どんな文化も、年齢も、過去も、霊を受ける可能性から誰かを締め出すことはありません。主の御名を呼び求める者は、すべて救われるからです。キリスト教の聖なる言語とは、あなたの母語です。

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