はじめに
「神、われらと共にいます」。説教者は、このメッセージをÉglise Évangélique de Pentecôte de Nantesで語り始めるにあたり、御使いたちが告げた「インマヌエル」という名前に触れます。イスラエルがエジプトを出たとき、民は自分たちがどこへ向かうのか分かっていませんでしたが、主が共におられ、どこへ導こうとしておられるかを主ご自身が知っておられるという確信がありました。
この日の聖書箇所は使徒行伝2章です。弟子たちが聖霊を受けたばかりのところで、ペテロが群衆に語りかけます。「悔い改めなさい。そして、あなたがたの各自は、罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子らにも、また遠くの者一同、すなわち、わたしたちの主なる神が召される者には誰にでも、与えられているものである」。
説教者が心を留めるのは、この最後の一句です。主はこれほど多くの人々を召しておられますが、その召しは一人ひとりに向けられています。主が各自に求めておられるのは、アブラハム、モーセ、イザヤが答えたような、シンプルな応答です。「ここにいます」。
メッセージの構成
1. これほど多くの人々に向けられた約束
- 預言者ヨエルはすでにこれを告げていました。主はご自分の霊をすべての人に注ぎ、あなたがたの息子や娘は預言する、と。この預言は五旬節の日、階上の間で成就しました。
- 使徒行伝1章8節でこれを約束しておられました。「しかし、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
- 当時、すべての人が聖霊を受けるとは思われていませんでした。それでも主は、この約束を一人ひとりのために備えておられました。
- 「正確な数字は覚えていませんが、地上には七十億から八十億ほどの人がいると思います」。主はそのすべての人を召しておられ、それは一人ひとりへの召しです。悔い改めへの召しであり、主のもとに来るようにとの召しです。
2. アダムからイザヤまで、神は召し、「ここにいます」という応答を待っておられる
- アダムとエバは、園を耕し、守るために置かれました。悪魔の誘惑に惑わされた二人は身を隠します。主は園に来てアダムを呼ばれ、アダムは身を隠していたと答えます。
- 召しはアブラハムへと続きます。彼は、カルデヤのウルという故郷を出て、主が示される地へ向かうように召されました。創世記22章1節で、神が彼を呼ばれると、アブラハムは「ここにいます」と答えます。
- 「これが、主が私たち一人ひとりをお呼びになるときに待っておられる答えです」。隠れるのではなく、自分をさらけ出すこと。そもそも、人の心の奥底まで探られる方の前で、誰が身を隠せるでしょうか。
- 水の中から救い出されたモーセは、ファラオの家で育ちました。同胞を救おうとしましたが、拒まれて逃げ出しました。エジプトから遠く離れ、ひとりきりでいるそのとき、神が彼を探しに来られます。出エジプト記3章4節で、モーセは「ここにいます」と答えます。
- 「私たち一人ひとりにとっても、ひとりきりになるときこそ、主が召しに来てくださる時なのかもしれません」。
- イザヤは、主が御座に着いておられるのを見て、「聖なる、聖なる、聖なる」と叫ぶ声を聞きます。聖なる神の御前で、自分が罪人であることを知ります。「わたしは誰をつかわそうか。誰がわれわれのために行くだろうか」という問いに、彼は「わたしがここにおります。わたしをつかわして下さい」と答えます。自分の力で務まると思ったからではなく、自分を神にささげたのです。
- 神の召しへの最もシンプルな答えは、次の数語に収まります。「主よ、あなたが私を呼んでおられます。ここにいます。私を用いてください。私の人生を造り変えてください。私の人生は廃墟でした。荒れ果てていました。けれども今日、あなたがみわざを行ってくださるように、御前に出ます」。
3. 神は重荷を取り除くために召される
- 主がアダムを呼ばれたとき、彼の人生は混乱と罪と恥の中にありました。人類の状況は今も同じです。恥と迷い、そして、造られた目的を果たせていないという重みです。
- 神は目的をもって私たちを造られました。この重荷と罪責感を取り除くために、神は召しておられます。
- 同胞に拒まれたモーセに、主はこう語りかけておられるようです。「たとえ他の人々があなたを拒んでも、わたしはあなたを拒まない」。イザヤ書49章15節も同じ方向を指しています。たとえ女が乳飲み子を忘れることがあっても、主は決して私たちを忘れない、と。
- バプテスマのヨハネはヨルダン川のほとりを歩き回り、「悔い改めよ」と叫んでいました。イエスはこの召しを、さらに明らかにされました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)。私たちが悔い改めるのは目的のためです。イエスのもとに来るためです。
- 「あなたは『主よ、ここにいます』と答えますか。それとも、口をつぐんだまま動じることなく、この召しに背を向けますか。召しは今も続いています」。
4. 全世界のために死なれたイエスが、今日あなたを呼んでおられる
- イエスは私たちの罪のために死なれました。私たちの罪だけでなく、全世界の罪のためにです(ヨハネ第一2:2)。説教者はユーモアを交えて強調します。自分自身の罪だけでも、教会の牧師たちの罪だけでもない、と。
- 旧約の時代には、動物を神殿に携えて来た人は、自分のため、さらに広くは家族のために、いけにえをささげました。イエスは、全世界のために完全ないけにえをささげてくださいました。
- ニューヨークのギャングに身を置き、「悪魔の子」と呼ばれたニッキー・クルーズは、騒動と恐怖を振りまいていました。ある日、彼は主の召しを聞き、短剣と十字架のどちらかを選ばなければなりませんでした。
- 「それが短剣と十字架かどうかは分かりませんが、とにかく十字架と何かがあります。十字架と何かのあいだで、選ばなければなりません」。主は、あなたに十字架と、主が備えられた道を選ぶように招いておられます。イエスこそ道であり、真理であり、命だからです。
- 「イエスは今日救ってくださいます。明日でも、明後日でもありません」。きょう、もし主の御声を聞いたなら、心をかたくなにしてはいけません。主は日を定めておられ、それが今日です。
5. 召しによって変えられた人生
- 湖の漁師たちに、イエスはこう言われます。「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4:19)。はっきりとした召しであり、主は語られたことを成し遂げられました。
- タルソのサウロは、脅迫と殺害の息をはずませ、宗教にかたくなになって、クリスチャンを迫害していました。ダマスコへの道で、主は彼を止められます。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。
- 神は彼を罰することもできましたが、罪人が死ぬことを望まず、悔い改めに至ることを望んでおられます。「あなたの名前は、今日の午後なんと呼ばれていますか。主はあなたの名前を呼んで、ただこう言われるかもしれません。わたしのところに来なさい、と」。
- ピレモンの奴隷だったオネシモは、おそらく主人の物を盗んでからローマへ逃げたのでしょう。獄中でパウロに出会い、福音を聞かされます。説教者はパウロの言葉を思い描きます。「神が私に向けておられる召しと同じ召しが、あなたにも向けられています。イエスはあなたの罪のために死なれました。たとえ盗みを働いたとしても、赦し、あなたの人生を回復してくださいます」。
- それがどれほどのことかを実感できるように、説教者は身近な例を挙げます。家に工事に来た職人がお金を盗んだら、私たちはまず被害届を出そうと考えるでしょう。
- 説教者は自らの証しも語ります。「ある日、主が私を、ご自分のもとへ、十字架のもとへ来るように、十字架を選ぶようにと召してくださいました」。神は、無から創造することができ、喜びのないところに喜びを、不幸のあったところに幸せを置くことができる方だと、彼に示されました。彼の答えはこうでした。「主よ、あなたにそれができるなら、ここにいます。無から創造できるあなたが、私の内に何かを造り出してください」。
- 説教者は、昔の賛美を思い起こします。「イエスのもとに来なさい。主は今日あなたを呼んでおられます」。あなたは長いあいだ神の言葉に逆らって歩んできましたが、主は今日あなたを呼んでおられます。しりごみしてはいけません。
- 金持ちの青年は、富と十字架のどちらかを選ぶ場面に立たされ、悲しみながら去って行きました。説教者は、私たちがむしろ使徒行伝3章の癒された人のように、躍り上がって神をほめたたえながら帰ることを願い、「主がこの人の心の中に何かを造り出してくださった」と言われるようになることを願っています。
6. 良い羊飼いは、一匹一匹の羊を呼ぶ
- 群衆を見て、イエスは彼らを飼う者のない羊にたとえられました(マタイ9:36)。イエスご自身は「わたしは良い羊飼である」と言われます。羊飼いが必要なら、必要なのはイエス・キリストです。主は緑の牧場へと導き、そこでは命が潤され、平安が見いだされます。
- 「わたしの羊はわたしの声に聞き従う」(ヨハネ10:27)。説教者は、聖霊がこの御声を人々の心に聞かせてくださるように祈ります。
- 羊は羊飼いの声を知っています。百メートル離れていても、その声を聞けば近づいてきます。「百メートル離れていても、二百メートル、あるいはもっと遠くにいても、主の御声を聞いてください」。
- イエスは、近しい関係を望んでおられます。弟子たちに、もはやしもべとは呼ばず、友と呼んだと言われました(ヨハネ15:15)。アブラハムは神の友と呼ばれました。「神に友になってくださいと願い出たのは、私たちではありません。主のほうから私たちのもとに来て、友情を差し出してくださったのです。なんという恵みでしょう」。
7. さらに先へ:満ちてくる水
- 約束は遠くにいる人々のためのものですが、まずここにいる人々から始まります。
- すでに悔い改めの召しに答えたなら、主はあなたをさらに先へと召しておられます。エゼキエル書47章の幻では、水がくるぶしまで、次にひざまで、次に腰までと満ち、ついには全身が水に浸ります。
- 目指すのは、主の御臨在にすっかり浸り、主に完全に頼る者となることです。
- この召しは、エルサレムから始めて、すべての国々に告げ知らされることになっていました。五旬節の日には、世界各地から来た巡礼者たちがそれを聞き、帰郷して語りました。イエスという名の人が、十字架につけられ、よみがえり、ひとつの召しを含むメッセージを残された、と。
- この召しには、神との平和があります。私たちに平和を与えるために主に下った懲らしめの恵みがあり(イザヤ書53:5)、永遠のいのちの望みがあります。イエスは復活であり、いのちだからです。
- 決断が必要です。「主よ、ここにいます」と言うのか、それとも黙ったまま背を向けるのか。メッセージは、祈りと、前に進み出て「ここにいます」と言うか、祈りを受けるようにという招きで締めくくられます。
覚えておきたいポイント
- 主はこれほど多くの人々を召しておられますが、その召しはつねに一人ひとりに向けられています。主はあなたの名を呼んでおられます。
- 主が待っておられる答えは、アブラハム、モーセ、イザヤの答え、「ここにいます」です。隠れることなく、主にすべてをささげる姿勢です。
- 神は、重荷と恥と罪責感を取り除くために召されます。他の人々に拒まれた人を、神は拒まれません。
- イエスは全世界のために死なれました。そして今日こそ、主が救い、癒し、回復してくださる日です。
- 一度答えるだけでは終わりではありません。主は、御臨在にすっかり浸るところまで、さらに先へと召しておられます。
自分への適用
- あなたの人生の中に、アダムのように、まだ神の前で隠れている領域はありますか。
- 今日、あなたが十字架と天秤にかけている「何か」とは何ですか。
- もし主が今日の午後、あなたの名前を呼ばれたら、あなたは何とお答えしますか。
- 今のあなたは、羊飼いの声からどのくらい離れていますか。近づくのを妨げているものは何ですか。
- すでに「ここにいます」と答えたなら、エゼキエルの水の中で、あなたは今どこにいますか。くるぶし、ひざ、それともさらに先でしょうか。
引用聖句
- 使徒行伝2章38-39節
- ヨエル書2章28節
- 使徒行伝1章8節
- 創世記3章8-10節
- 創世記22章1節
- 出エジプト記3章4節
- イザヤ書6章8節
- イザヤ書49章15節
- マタイによる福音書11章28節
- ヨハネの第一の手紙2章2節
- ヨハネによる福音書14章6節
- ヘブル人への手紙3章7-8節
- マタイによる福音書4章19節
- 使徒行伝9章1-5節
- ピレモンへの手紙10-16節
- マルコによる福音書10章17-22節
- 使徒行伝3章8節
- マタイによる福音書9章36節
- ヨハネによる福音書10章11-27節
- ヨハネによる福音書15章15節
- ヤコブの手紙2章23節
- エゼキエル書47章3-5節
- ルカによる福音書24章47節
- イザヤ書53章5節
- ヨハネによる福音書11章25節
よくある質問
「わたしたちの主なる神が召される者には誰にでも」とはどういう意味ですか?
使徒行伝2章39節で、ペテロは、この約束が聞いている人々にも、その子どもたちにも、また遠くにいるすべての人々にも与えられていると告げます。説教者によれば、主は地上のすべての人、およそ七十億から八十億の人々を召しておられますが、その召しはあくまで一人ひとりに向けられたものです。悔い改めへの召しであり、主のもとに来るようにとの召しです。
神が召されるとき、神はどのような答えを待っておられますか?
最もシンプルな答えは、アブラハム、モーセ、イザヤの「ここにいます」です。園の中のアダムのように隠れるのではなく、神の前にありのままの姿で出て、自分を神にささげ、神に人生を造り変えていただくことです。
すでに神の召しに答えました。それでも神は何を求めておられますか?
説教者は、水がくるぶしからひざ、さらに腰へと満ち、ついには全身が浸るというエゼキエルの幻に基づいて語ります。すでに悔い改めの中で「ここにいます」と答えたなら、主はあなたをさらに先へと召しておられます。御臨在にすっかり浸り、主に完全に頼る者となるところまでです。
メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。