はじめに
「EMR、私たちを近づける教会」。Assemblée de Dieu de Montpellier Richter の牧師にとって、これは単なるスローガンではなく、実際に生きるべきものです。神に近づき、互いにも近づく教会です。牧師は断食と祈りの期間中にこのメッセージを語り、神がご自分の教会の中でみわざを行おうとしておられると確信しています。
丸一年のあいだ、牧会チームと約40人が毎週土曜日に集まり、モンペリエの町で教会がどのような存在であるべきか、神が教会に何を望んでおられるかを考えてきました。そこから三つの柱が生まれました。使命、ビジョン、価値観です。この日曜日、説教者は主に使命について語ります。
使命は単純な問いに答えるものです。教会はなぜ存在するのか。これは一つの地域教会だけでなく、大文字の「教会」全体にかかわることです。そして、その使命を定めたのは主ご自身であり、マタイ28:18-20に記されています。
メッセージの流れ
1. イエスは道に迷った弟子たちに進むべき方向を与える
- 「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28:18-20、口語訳)
- この言葉が語られたのは、およそ二千年前です。それでも今なお働き続けています。それは永遠の言葉だからです。
- なぜイエスは、天に上られる前にあえて進むべき方向を示されたのでしょうか。弟子たちが迷わないためです。復活の後、彼らは道を見失っていました。クレオパともう一人の弟子はエマオへ向かい、ペテロは「わたしは漁に行く」と言い、ほかの弟子たちも混乱していました。
- 主は事を明らかにされます。これがあなたがたのすべきことであり、進むべき道だと。エルサレム、ユダヤ全土、サマリヤ、そして地の果てまで、主の証人となることです(使徒の働き1:8)。
- 今日の私たちにとって、地の果てはさらに遠くなっています。この使命は、私たちの心と生活に響かなければなりません。
2. 士師記17章:各自が自分の目に正しいと見ることを行うとき
- 説教者はイスラエルの困難な時代にさかのぼります。エフライムの山地に住むミカは、のろいの言葉を口にした母から銀千百シケルを盗んでいました。彼はそれを母に返します。
- 母はその銀を主にささげて、彫像と鋳像を造らせます。ミカは神の家を持ち、エポデとテラピムを作り、息子の一人を祭司に立てます。
- この言葉は士師記の中で何度も繰り返されます。「そのころイスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところを行った。」(士師記21:25、口語訳)民に進むべき方向を示す権威がなかったのです。
- 動機は良いものに見えたかもしれません。母は感謝を表したいと思い、ミカは主の栄誉のために神の家を持ちたいと思いました。しかし、そのやり方は正しくありませんでした。彼らはレビ族ではなくエフライム族であり、神が祭司の務めをゆだねたのはアロンだったからです。
- 神のみこころと計画を求めずに、各自が最善と思うことを行うなら、神が望んでおられることを必ず外してしまいます。
- やがてサウル、続いて神の心にかなう王ダビデ、そして神殿を建てるソロモンが現れます。枠組みと方向性が整えられていきます。
3. イザヤ書6章:地上の王座は空いていても、天の御座は空いていない
- 「ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられた御座にすわっておられるのを見た。」(イザヤ書6:1、口語訳)ウジヤは死に、イスラエルの王座は空になりました。どちらへ進めばよいか分からなかった士師の時代に、どこか似ています。
- 神がイザヤの目を開かれたのは、まさにそのときです。地上で王座が空いていても、主は今もご自分の御座についておられます。地上に欠けがあっても、天には何一つ欠けがありません。
- 「私たちの人生に不確かなことがあるときは、神が今も治めておられることを思い出しましょう。」主は昨日も今日も永遠に変わらない方であり、まだ最後の言葉を語り終えてはおられません。主を待ち望む者は新たな力を得ます。
- 神は語り、方向を示されます。「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか。」(イザヤ書6:8、口語訳)説教者は補足します。この複数形は、父、子、聖霊という三位一体の神を思わせます。
- 神には計画があります。神は、聞き従う人、父の心を動かすものに心を動かされる人、そして「ここにわたしがおります。わたしをつかわしてください」と答える人を探しておられます。
- 遣わすということには、使命、行くべき場所、動きがあります。どのように、どこへ、なぜ行くのかを知っておられるのは神だけです。神は、主のくびきを負い、指示を受ける用意のある人を探しておられます。
4. 弟子をつくるには、一枚のチラシ以上のものが必要
- 神が望んでおられたのは、祭司の王国でした。イスラエルが生きられなかったことを、神はイエス・キリストによって成し遂げられ、ペテロもそう語っています。私たちは「選ばれた種族、王なる祭司」なのです(ペテロの手紙第一2:9、口語訳)。
- 主の目的は、触れられた者が出て行って他の人に触れ、その人がさらに別の人に触れていくことです。使命は明確です。行って、弟子をつくりなさい。
- だからこそ、地域教会が誠実に現状を見つめることが大切です。私たちの役割は何か、強みは何か、弱みは何か、改善すべき点は何か。パンと杯にあずかる前に自分を吟味するのと同じです。
- 説教者は、路上で新約聖書を配っていたある兄弟の話を聞きました。受け取りを断った人に、その兄弟は「あなたは地獄に落ちる」と答えたというのです。牧師は彼をたしなめました。「それは福音ではありません。神の愛ではありません。」
- 目的は、人に「クリスチャンにならない限り、あなたを迎え入れることはできない」と言うことではありません。愛は、まだ信仰に入っていない人をも迎え入れます。イエスは罪人たちの家で食事をされ、それを非難したのは宗教家たちでした。
- 「私たちは、だれとなら一緒に食卓につく用意があるでしょうか。」人を回心させるのは私たちではなく、罪を悟らせるのは聖霊です。私たちは、その態度、ふるまい、思いやりによって、よい香りを放つよう召されています。
- 目指すのは、団体やクラブのように会員を増やすことではなく、イエスの弟子をつくることです。つまり、イエスを愛することを学び、イエスがどなたかを知っていく人たちです。
5. 神が教えてくださる忍耐
- 説教者は、フランスが経験したリバイバルの時代が好きです。ある牧師が青年の集会で語った話を覚えています。自ら命を絶とうとしていた女性が、祈り会の賛美に引き寄せられて中に入り、その場で回心したというのです。
- 説教者は、今は必ずしもそのようにはいかないと認めます。神は変わっておられません。けれども神は、ご自分の子どもたちが、まだ神を知らない人たちに対して、衝動的でなく、より勇気をもち、より忍耐強くあることを望んでおられます。
- ある日、ときどき教会に来る男性が入ってくるのを見ました。その人は携帯電話を充電するためにコンセントにつなぎます。牧師は最初の反応を正直に打ち明けます。「教会に携帯を充電しに来るなんて、本当に?」そのとき、主が「そのままにしておきなさい」と語られるのを感じました。
- 後で、その人が最前列に座り、まるで主に語りかけるかのように画面を見つめているのに気づきます。「ここは私の家でも、あなたの家でもありません。神の家です。」その人はそこで静けさや平安を見つけたのかもしれません。
- ある金曜日、祈り会の終わりに、この青年が牧師のところに来て、いつかイエスが自分の人生にしてくださったことを証ししてもよいかと尋ねました。
- 弟子をつくるには、パンフレット以上のものが必要です。もっとも、パンフレットも一つの入り口にはなります。その背後には、私たちが引き受ける責任と、腰を下ろして語り合い、分かち合うために差し出す時間があります。
6. ビジョン:温かく迎え入れる教会
- ビジョンとは、私たちが向かう先、使命を果たすために私たちがどうあるべきかということです。それは牧会チームの共同の作業から生まれました。「EMR教会、私たちを近づける教会は、温かく迎え入れる教会でありたいと願います。そこでは、だれもが神の愛を知り、平安を見いだし、イエスへの信仰において成長し、喜びを分かち合い、惜しみなく人に仕えることができます。」
- これが福音です。サマリヤ人は傷ついた人を宿屋、つまり迎え入れる場所に連れて行き、世話をしてもらいました。来る人に「神はあなたを愛しておられます」と伝えることです。これまでに何があったか、人生の中でまだ整っていないことがあっても関係ありません。
- 神はクリスチャンをも愛しておられます。私たちのだれも「私は到達した」とは言えません。神は私たちが成長するよう忍耐を注ぎ、不完全な賛美であっても受け入れ続けてくださいます。
- これがアガペーの愛、神の見返りを求めない愛です。神は世を愛されました。肌の色も、学歴も、成功も、失敗も見ておられません。教会は、神が愛しておられるこの世を愛さなければなりません。
- 「甘ったるい愛」ではありません。すべてうまくいっている、だれもが美しいと言うような愛ではないのです。神の愛は力強く、死のように強いものです。拒まれたと感じている人に、神はこう言われます。「そのままで来なさい。わたしがあなたの人生を変えよう。」
- 平安。たった一言なのに、条約が結ばれてもなお、この世では得るのがとても難しいものです。平和の君であるイエスの平安に並ぶものはありません。教会は、人が平安を感じられる場所でなければなりません。
- 新しく信じた人に寄り添うこと。その朝、教会は生まれたばかりの赤ちゃんのために祈りました。両親が「いちばん大変なところは終わった、生まれたのだから、ベッドに寝かせておこう」と言ったとしたら、どうでしょう。その子は生きていけません。キリストにあって生まれたばかりの人の世話をするのは、教会の責任です。成熟した信者が、その人のために時間を使うのです。
- 使徒パウロは教会を建て、ある時点からは、聖霊だけがおできになることを聖霊に任せました。「主よ、あなたのおできになることをなさってください。」
7. 神のさまざまな恵みの良い管理者として
- ペテロの手紙第一4:10-11:それぞれが受けた賜物を、神のさまざまな恵みの良い管理者として互いに仕えるために用い、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるようにするためです。
- 管理者とは、ゆだねられたものを大切に扱う人のことです。すべての良い贈り物、完全な賜物は、上から、光の父から下って来ます(ヤコブの手紙1:17)。教会には、神から恵みを受けた男女があふれています。
- 一人ひとりに問いかけられています。あなたの手には何がありますか。神はあなたに何を与えられましたか。ある人が受けたものと別の人が受けたものは同じではなく、教会の豊かさは、神が各自に与えられたものを見分けることにあります。
- 教会としては決して入ることのできない場所でも、兄弟姉妹はそこにいます。説教者は数年間、刑務所の教誨活動に携わっていました。彼は召しを呼びかけます。神は、ヴィルヌーヴ・レ・マグロンヌの刑務所やほかの場所にいる人々に触れたいと願っておられるのではないでしょうか。
- ビジョンは価値観、つまりふるまいの上に立っています。平安と喜び、もてなし、惜しみなく与えることです。牧師は、これは聖書の言葉そのものではなく、ビジョンは常に新しくされなければならないと付け加えます。
- 目標は、教会の約40の奉仕がこれらを実践することです。牧師は、日曜学校の教師たちが子どもたちを迎えるために用意した飾りつけを挙げます。大人にはたいしたことに見えなくても、子どもにとっては心に響くものです。
- 最後の祈りで、牧師はイザヤのように「主よ、ここにわたしがおります。わたしをつかわしてください」と答える男女が起こされるよう願います。
この説教のポイント
- 教会の使命は、イエスご自身によって定められました。行って、すべての国民を弟子としなさい。
- 進むべき方向がなければ、各自が自分の目に正しいと見ることを行い、善意であっても神のみこころを外すことがあります。
- 地上の王座が空いていても、主は今も治めておられ、「だれをつかわそうか」と方向を示されるのは主です。
- 弟子をつくるには、迎え入れる心、忍耐、時間が必要です。罪を悟らせるのは聖霊であり、私たちはよい香りを放つよう召されています。
- だれもが神から恵みを受けており、良い管理者として、それを人々に仕えるために用いるのです。
私たちへの適用
- あなたの人生のどの領域で、神のみこころを本気で求めないまま、自分が良いと思うことをしていますか。
- まだイエスを知らない人であっても、あなたはだれとなら一緒に食卓につく用意がありますか。
- 将来の弟子として思い描く姿とは違う人に出会ったとき、あなたはさばきで応じますか、それとも忍耐で応じますか。
- あなたの周りに、最初の一歩を支えてあげられる新しい信者はいませんか。
- あなたの手には何がありますか。神はどのような恵みを与えてくださり、それをどのように教会への奉仕に用いられますか。
引用された聖書箇所
- マタイ 28:18-20
- ルカ 24:13-35
- ヨハネ 21:3
- 使徒の働き 1:8
- 士師記 17:1-6
- 士師記 18:1-2
- 士師記 21:24-25
- イザヤ書 6:1-8
- ヘブル人への手紙 13:8
- イザヤ書 40:31
- マタイ 11:29
- ペテロの手紙第一 2:9
- マルコ 2:16
- コリント人への手紙第二 2:15
- ルカ 10:30-35
- ヨハネ 3:16
- 雅歌 8:6
- ペテロの手紙第一 4:10-11
- ヤコブの手紙 1:17
よくある質問
なぜイエスは弟子たちに明確な使命を与えたのですか。
復活の後、弟子たちは道に迷っていました。二人はエマオへ向かい、ペテロは漁に戻ろうとしていました。去る前に、イエスは彼らが迷わないよう進むべき方向を与えられました。行って、すべての国民を弟子とし、バプテスマを施し、命じたいっさいのことを教えなさいということです(マタイ28:18-20)。
士師記17章から、教会生活について何を学べますか。
当時イスラエルには王がなく、各自が自分の目に正しいと見ることを行っていました。ミカの母は銀を溶かして偶像を造らせ、ミカはレビ族でもない息子を祭司にしました。動機は良いものに見えたかもしれませんが、神のみこころを求めなければ、神が望んでおられることを外してしまいます。
教会はどのように弟子をつくることができますか。
チラシを受け取らない人を脅すことでも、回心してからでなければ迎え入れないと求めることでもありません。イエスは罪人たちと食事をされました。罪を悟らせるのは聖霊です。教会は、よい香りを放ち、時間をかけ、忍耐をもって迎え入れ、バプテスマの後も新しく信じた人に寄り添うよう召されています。
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