はじめに
マルコは福音書の最後を不思議な場面で締めくくります。三人の女性たちが墓から出て、恐れに震えながら、誰にも何も言わなかったのです。ステファヌ・ギエは、マルコ16章1〜8節のこの箇所から、イースターを貫く一つの問いをあなたに投げかけます。あなたがまだ日常の中で「神はすでにそこを通られた」ことを実感していないとき、どうやってこれほど力強いメッセージを人に伝えられるのでしょうか。キリストはよみがえられました。あなたより先にガリラヤへ行かれます。そして、あなたが墓を出て、自分自身の人生の中でご自分に出会いに来るのを待っておられます。
メッセージの構成
1. 驚くべきメッセージを託された者たち
- レバノン人牧師ハディ・ガントゥスは、教会がトンネルの先に光を見出せない世界の中で、希望の器となるよう召されていることを思い起こさせます。
- 「キリストは復活された」という言葉は非常に古い言い回しで、おそらくビザンチン正教会に由来しますが、今日のわたしたちにも大きな挑戦を突きつけています。
- 死は最後の言葉ではありません。いのちは神のもの、御子はいのちであり、御霊はいのちの御霊です。いのちは勝利するために造られています。
- このメッセージは弟子たちに託されていますが、マルコ16章の三人の女性たちのように、分かち合う勇気を持つ前に、しばしば逃げ出したくなるものです。
2. 未完成な味わいを残す福音書
- マルコは8節で物語を止めます。女性たちは震え、驚きながら逃げ去り、誰にも何も言いませんでした。
- 専門家のほぼ一致した見解によれば、9節から20節は2世紀に付け加えられた部分です。最良の写本にはこの結びがなく、現代の聖書の多くはこれを角括弧に入れて示しています。
- マルコは福音書をあえて開いたままにすることで、読者に「この先をどう続けるか」を問いかけます。神の子イエス・キリストの良い知らせが、逃げ出す弟子たちで終わるはずがないからです。
- 本当の問いはこうです。なぜこの女性たちは恐れを抱えたまま去っていったのでしょうか。イースターの朝の出会いに、何が欠けていたのでしょうか。
3. すでに転がされていた石:小さなことの中に神を見る
- 道すがら、三人の女性たちの気がかりはただ一つ、「だれが石を転がしてくれるでしょうか」でした。墓を閉じる石は非常に重かったからです。
- 現場に着くと、石はすでに転がされていましたが、彼女たちは立ち止まって理解しようとせず、そのまま墓の中に入って行きました。
- 動詞は受動態で書かれています。「石は転がされていた」、その後には「彼はよみがえらされた」とあります。専門家がいうところの「神的受動態」です。神が石を転がされ、神がイエスをよみがえらせたのです(ダニエル・ブールジェもその注解でこの点を指摘しています)。
- もし彼女たちが少し立ち止まっていたなら、神がすでに自分たちより先にそこを通り、心配していた障害をすでに取り除いておられたことに気づけたはずです。
- 最後の晩餐で、イエスはパンとぶどう酒のために感謝をささげます。ご自分が退けられ、十字架で死ぬことを知っていながらです。最後まで、イエスは小さなことの中に神を見ておられました。
- もしあなたが日常の小さなことの中に神を見分けることを学ばないなら、どうして大きなことの中で神を認められるでしょうか。
4. 正しい場所でイエスを探す
- 御使いは女性たちにこう言いました。「あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。彼はよみがえって、ここにはおられません。」
- イエスを探すことは弟子としての根本的な歩みです。しかし彼女たちは正しい場所で探していませんでした。イエスはもう墓の中にはおられず、いのちの中におられるのです。
- 御使いは彼女たちの探し方の向きを変えさせます。墓の外へ、復活されたお方が引き寄せようとしておられる場所へと押し出すのです。
- 神にとって、イエスがよみがえられただけでは十分ではありません。あなたもまたイエスと共によみがえる必要があります。そうでなければ、その計画は未完成のままです。
- これがバプテスマの意味です。キリストと共に葬られ、キリストと共によみがえり、キリストと共に墓を出て、いのちの中へと入るのです。
5. 復活されたお方はガリラヤであなたより先に行かれる
- 「あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれます。かねて言われたとおり、そこでお会いできます。」
- 最初の弟子たちにとって、ガリラヤは自分たちの日常生活の場所、いつもの日々を過ごす場所でした。
- あなたにとってのガリラヤとは、あなたの日常の世界です。そこでこそ、イエスはあなたにご自身の臨在を見分け、いかにご自分が本当に生きておられるかを実感するよう招いておられます。
- あなたより先にすでに人生の場に来ておられる復活のキリストと、あなたの背後にある開かれた墓との間には、一つの空間があります。それがあなたの人生という空間です。福音を未完成のままにしないために、あなたはそこを満たすよう招かれているのです。
覚えておきたいポイント
- マルコは8節であえて福音書を開いたままにしました。その続きを生きるのは、今日を生きるわたしたち弟子です。
- 「石は転がされていた」。これは神的受動態であり、女性たちより先に神がすでにそこを通り、彼女たちを心配させていた障害を取り除いておられたことを示しています。
- 日常の小さなことの中に神を見ることを学べば、大きな試練の中でも神を認められるようになります。
- 空になった墓はゴールではありません。復活されたお方があなたより先に行かれる日常のガリラヤへと向かう出発点です。
- 神のご計画が未完成のままで終わらないために、キリストがよみがえられただけでなく、あなたもまたキリストと共によみがえる必要があります。
個人への適用
- 今あなたの歩みの中で気にかかっている障害は何ですか。もしかすると、あなたが気づかないうちに、神はすでに「その石を転がして」おられるかもしれません。
- 今週、あなたの日常の小さなことの中で神に感謝をささげる時間を持ってみましょう。食事、出会い、思いがけず解決した出来事などです。
- あなたは正しい場所でイエスを探していますか。それとも、もうイエスがおられない「墓」の中を探し続けていませんか。
- あなたにとってのガリラヤ、つまり今週、復活されたお方があなたを待っておられる日常の場はどこですか。
- 具体的に、あなたの復活の生き方の中で何が「未完成」のまま残っていますか。あなたの人生のどの部分が、まだ復活されたお方のいのちに触れられていませんか。
引用された聖句
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よくある質問
なぜマルコは、震えながら逃げる女性たちの場面で福音書を8節で終えているのですか。
聖書学者のほぼ一致した見解によれば、マルコ16章9節から20節は2世紀に加えられた後代の部分です。最良の写本にはこの結びがなく、現代の聖書の多くはこれを角括弧に入れて示しています。マルコはあえてこの開かれた場面で物語を止めることを選びました。まるで読者にこう語りかけているかのようです。「福音の続きは、あなた自身が書くのだ。あなたもまた、キリストがよみがえられたことを告げ知らせに行きなさい」と。
御使いが女性たちに告げたメッセージの中の「ガリラヤ」とは何を意味していますか。
最初の弟子たちにとって、ガリラヤは宗教的・劇的な場所ではなく、自分たちの日常生活の場、毎日働き、暮らしていた場所でした。御使いがイエスは彼女たちより先にガリラヤへ行かれると告げたとき、復活されたお方は特別な霊的瞬間だけでなく、日常の中で出会ってくださることを伝えているのです。あなたにとっての「ガリラヤ」とは、あなたの毎日の世界のことです。
「神的受動態」とは何ですか。なぜマルコ16章で重要なのですか。
聖書では、主語が明示されない受動態の動詞が、しばしば神の働きをさりげなく示す方法として使われます。これは「神的受動態」と呼ばれます。マルコ16章では、石は「転がされていた」、イエスは「よみがえらされた」と記されています。つまり、石を転がしたのは神であり、イエスをよみがえらせたのも神なのです。これは、わたしたちが一見ただの出来事としか見ないところに、神の目立たない働きを見分けるよう招いています。
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