何の権威でイエスは私たちに信じるよう求めるのか

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はじめに

「あなたは何の権利があって、他国に行って宗教を変え、イエスを信じるように言うのですか。傲慢で不寛容ではないですか」。ジェイソン・プロコピオは、かつてノンクリスチャンの同僚からこう言われたことを語ります。それは、彼女が知り合いが宣教旅行に出発したことを知った時のことでした。同じ問いは繰り返し戻ってきます。クリスチャンは何の権威によって、イエスを信じるべきだと言えるのでしょうか。実は、マルコによる福音書11章27-33節でイエスご自身に投げかけられた問いです。マルコ11章27節から12章27節にかけて、イエスは三段階で答えられます。まず告発者たちの本当の動機を暴き、次にご自分が裁く権威を持っていることを確認し、そして最後に自分こそが最終的な発言権を持つと宣言されます。恐るべきテキストであり、また彼の上に人生を築く者たちにとっては良い知らせでもあります。

メッセージの構成

1. 提示される裁き主の裁判(マルコ11.27-33)

  • イエスは神ご自身が宮の時代に幕を引いたかのように、宮の中で行動されたばかりでした。祭司長、律法学者、長老たちが問いただします。「何の権威によってこのようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」(マルコ11.28)。
  • 一見この問いは正当に見えます。しかし彼らの口から出るとき、それは罠です。もし彼が「神から」と答えれば、彼らは彼を冒涜だと非難し、もし「人から」と答えれば、彼は正当性を失います。
  • イエスは罠を逆手に取ります。「ヨハネのバプテスマは天からのものであったか、それとも人からのものであったか」(マルコ11.30)。彼らは自分自身を追い詰めずに答えることができません。彼らは「わかりません」と言うにとどまり、イエスもその問いに答えることを拒まれます。
  • 指導者たちの本当の動機は権力です。彼らは民衆に対する支配権を保ちたいのです。真理よりも人気の方が彼らにとって重要です。これは非常に人間的なことです。私たちも、神の承認よりも他人の承認をしばしば気にかけます。

2. 確認される裁き主の告発(マルコ12.1-27)

  • ぶどう園の農夫のたとえ(マルコ12.1-12)。ある人が見事なぶどう園を作り、農夫たちに貸し、旅に出ます。彼が自分の分け前を受け取るために僕たちを送ると、農夫たちは彼らを打ち、辱め、殺します。最後に彼は愛する息子を送ります。彼らは息子も殺してしまいます。所有者とは神です。ぶどう園とはイスラエルに与えられた特権です。農夫たちとは指導者たちです。僕たちとは預言者たちです。息子とはイエスです。このたとえは神の計り知れない寛大さと忍耐を明らかにすると同時に、指導者たちの罪がいかに大きいかを浮き彫りにします。
  • 税金についての問い(マルコ12.13-17)。パリサイ人とヘロデ党の人々は、イエスを罠にかけようと新たな一団を送ります。「カエサルに税金を払うのは律法にかなっているか」。イエスは硬貨を求め、カエサルの肖像を示してこう答えられます。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」。つまり、神の像を帯びているのはあなた自身だという意味です。神はあなたの人生のわずかな領域ではなく、あなたの全存在を求めておられます。
  • 復活についての問い(マルコ12.18-27)。復活を信じないサドカイ派の人々は、七人の兄弟が次々と同じ未亡人を娶るという荒唐無稽な例を想像します。復活のとき、彼女は誰の妻になるのか。イエスは答えられます。あなたがたは聖書も神の力も知らないから、間違っているのです。復活のとき、人は娶ったり嫁いだりしません。そして神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神として、彼らの死後四世紀を経てもなおご自身を示しておられます。だから彼らはよみがえらなければならないのです。
  • 三つの攻撃、三つの答え。そのたびに指導者たちは自分たちの本当の問題を露呈します。彼らは自分自身のために生き、イエスの権威を拒みたいのです。信じない頭の背後には、しばしば従いたくない心があります。

3. 保証される裁き主の勝利(マルコ12.9-11)

  • ぶどう園の主人は何をするでしょうか。「彼はやって来て、農夫たちを滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えるであろう」(マルコ12.9)。神の裁きという考えは今どき流行りませんが、それは正しいのです。神の計り知れない忍耐にもかかわらず、御子を拒み続けるなら、神にこれ以上何ができるでしょうか。
  • 自分自身でイエスを十字架につけなくても、イスラエルの指導者たちと同じ状況に置かれることはあり得ます。彼の権威にひれ伏さない限り、同じ裁きにさらされます。神は御子の権威を拒む者たちを退けられます。
  • しかしもっと喜ばしい選択肢があります。「家を建てる者たちが捨てた石、それが隅のかしら石となった」(マルコ12.10、詩篇118篇からの引用)。イエスは工事現場に投げ捨てられたコンクリート塊のようなものです。それが取り上げられ、新しい宮の土台として据えられます。その宮は石ではなく、彼を信じた人々によって造られるのです。
  • したがってイエスの裁きの最終目的は、単に罰することではありません。それは神の栄光のために、彼の上に人生を築いた人々によって家を建てることです。私たちは選ばなければなりません。自分自身の主人として生きるか、それとも最終的な勝利を得る方の上に人生を築くかを。

覚えておきたいポイント

  • 指導者たちが「何の権威によってこのようなことをしているのか」と尋ねるとき、その問いは罠です。イエスは本当の動機を暴きます。それは権力を保つことです。真理よりも人気の方が彼らにとって重要です。
  • ぶどう園の農夫のたとえは、神がいかに善良であるか(ぶどう園は最高品質です)、いかに忍耐強いか(僕を次々と送ります)を示すと同時に、御子を拒むことが正当な裁きを招くことを示しています。
  • 税金についての問いは、神が私たちの人生のわずかな領域だけを求めておられるのではなく、神の像を帯びているすべて、つまり私たち自身の全存在を求めておられることを明らかにします。
  • 復活についての問いは、永遠のいのちを無視することが、神ご自身が啓示されたことを無視することであり、来るべき人生が今のものとは根本的に異なることを示しています。
  • イエスに対する私たちの困難は、まず何よりも議論や事実の問題ではありません。信じない頭の背後には、しばしば従いたくない心があります。
  • イエスは恵みに満ちた救い主であり、威厳ある王であり、そしてすべての者の裁き主でもあります。彼の上に人生を築くことは、最終的な勝利が保証されている方に自分を合わせることです。

個人への適用

  1. 私は神の承認よりも人々の承認を恐れていないでしょうか。イエスが語られたことに忠実であるよりも、人気を保つために沈黙しているテーマはないでしょうか。
  2. 本当に知りたいわけではなく問いを発した指導者たちのように、私にもイエスに問いを投げかけながら、実は心の中ではすでに従わないと決めている領域はないでしょうか。
  3. 神の像を帯びるすべて、つまり私自身の全存在を求めておられるのに、私はイエスの権威を週の一部の時間や人生の一部の領域だけに限定していないでしょうか。
  4. もし誰かに、自分の信仰は傲慢だ、不寛容だと言われたら、謙遜さを保ちながらも、イエスがすべての者の裁き主であるという事実から後退せずに、どう答えるでしょうか。
  5. すでにイエスの上に人生を築くことを選んでいるなら、周りの世界がそれに逆らっているように見えるときでも、最終的な勝利を得る側に属している者としての確信を持って生きているでしょうか。

引用された聖句

よくある質問

なぜイエスは自分の権威についての問いに直接答えることを拒まれたのですか。

それは、その問いが罠であり、真理を本当に求めるものではないと見抜かれたからです。指導者たちはすでにイエスの奇跡を見、その教えを聞き、その人格を目の当たりにしていました。彼らはすでに彼の権威がどこから来ているかを知っていたのです。ヨハネ・バプテスマについての反問は、彼らを自分たちの本当の動機と向き合わせます。彼らは真理を知ろうとしているのではなく、権力を保とうとしているのです。聞く耳を持たない人々に率直に答えることは、彼らに攻撃するための新たな武器を与えるだけでしょう。それゆえイエスは、彼らが受け入れないであろう答えを与えることを拒み、ぶどう園の農夫のたとえに代わりに語らせるのです。

救われるためにイエスを信じなければならないと言うのは傲慢なことですか。

いいえ、ぶどう園の農夫のたとえのメッセージを理解するならそうではありません。世界は神のものです。神はそれを良いもので満たし、私たちがそれを享受することを望んでおられます。しかしそれは神の世界であって、私たちのものではありません。もし神が御子に返すべきものを返す機会を私たちに与えてくださるなら、それは神の側の傲慢ではなく、神の忍耐のしるしです。そしてもし私たちがそれでもなお拒み続けるなら、神がその拒絶をいつまでも容認しないのは当然のことです。真のクリスチャンは、自分が優れていると思ってイエスを宣べ伝えるのではなく、自分が誰よりも優れているわけではなく、ただ恵みによって救われたことを知りながら宣べ伝えるのです。

「それが真実であってほしくない」と言う人にどう答えればよいですか。

それは私たちが受け取ることのできる最も正直な言葉であり、まさにイエスがここで明らかにしていることと重なります。イエスに対する私たちの困難は、まず何よりも議論の問題ではありません。信じない頭の背後には、従いたくない心があります。あらゆる問いを発し、あらゆる事実を検討することはできますが、心が神に返すべきものを返そうとしない限り、どんな証拠も十分ではありません。最善の答えは、愛し続けること、謙遜さをもって証しし続けること、そして私たちにはできない働きを聖霊にゆだねることです。

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