はじめに
フランスでは、見知らぬ人とすぐに親しくなれる方法があることに、あなたも気づいたことがあるかもしれません。誰かを一緒にからかうことです。行列に並んでいて、レジの店員の動きが遅い。ちょっと辛口な一言を二言、三言、その人の陰で交わすだけで、アメリカ的な意味での「友達」になれてしまいます。話をした、だから友達だ、というわけです。これは文化的なもので、あちこちで起こります。でも、それがクリスチャンの生き方の最良の姿でしょうか。決してそうではありません。とはいえ、あなたがそんな状況に置かれたとき、どうすればよいのでしょうか。会話を遮って、そのレジ店員のために声に出して祈るべきでしょうか。それでは場の空気を壊してしまう、とあなたも思うでしょう。これは簡単な問題ではありません。「天の国民、地に足をつけて」シリーズの第3回として、Momentumマタイ7章7-12節を開き、こうした瞬間にあなたが必要とする資源を見つけていきます。それは、天の父の愛とキリストとの結合に根ざした、生き生きとした祈りの歩みです。
メッセージの構成
1. 求めなさい、探しなさい、たたきなさい――イエスがまとめる、世の中でのあなたの生き方
- 「求めなさい。そうすれば、与えられます。探しなさい。そうすれば、見つかります。門をたたきなさい。そうすれば、開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ出し、門をたたく者には開かれるのです」(マタイ7:7-8)。イエスはこのようにして、あなたがこの世でどう生きるべきかをまとめています。
- この箇所はしばしばルカ11章と結び付けられます。そこでは弟子たちがイエスの祈る姿を見て「わたしたちにも祈りを教えてください」と願います。あちらでは文脈は明らかに祈りそのものです。しかしマタイ7章は違います。ここは御国についての教えの中にあり、イエスはすでに人間関係について語っています。「人をさばくな。自分もさばかれないためです」。聖なるものを、それを踏みにじる者の前に投げてはならない。自分の価値観や生き方を他人に押しつけてはならない、と。
- これらすべてを語ったあとで、イエスは処方箋を与えます。求めなさい、探しなさい、たたきなさい。造られた世界には、いわば普遍的な法則があるからです。求めには応答が伴うのです。説教者はダラス・ウィラードのたとえを引用します。ある男性がおいしいサンドイッチを作り、コンピューターの前に座って食べようとしたとき、膝の上に犬の頭を感じます。サンドイッチに気づいた犬が、無言でおすそ分けを求めているのです。その日、二つの命が養われました。人間も動物も知っています。求めなければならないのです。
- 文法的には、これら三つの動詞はすべて現在命令形です。これは命令であって選択肢ではありません。同時に、継続を表す時制でもあります。「気が向いたら求めなさい」ではなく、求めて求め続け、見つかるまで探し続け、開かれるまでたたき続けなさい、という意味です。イエスはあなたを、一度きりの儀式ではなく、生き生きとした祈りの歩みへと招いておられます。
2. 真夜中の友人――忍耐を通して神があなたの内に働かれる
- 「開かれるまでたたく」とはどういうことか。ルカ11章5-8節で、しつこい友人のたとえを語ります。ある人が遠くから来た親戚を真夜中に迎え入れますが、もてなす食べ物がありません。中東の文化では、宿屋に行かせるなど考えられません。それはあなたとあなたの家族の恥になるからです。そこであなたは真夜中に隣の友人の家の門をたたきに行きます。
- ところが真夜中、村の小さな家では家族全員――子どもたちも――が同じ部屋で寝ています。三つのパンを取りに起き上がるのは容易なことではありません。もし友人が結局起き上がるとしても、それはもはや友情のためではなく、あなたを追い払って子どもたちとまた眠りにつくためです。イエスはこの日常の場面を用いて言われます。求めなさい、探しなさい、たたきなさい、と。
- 祈りと具体的な行動とを結び合わせて求め続けるとき、神はあなたの内に何かをなさることがあります。それは、あなたを純化する働きです。とりわけ、答えが「いいえ」であったり、「見つかるが、ここではない。もっと先を探しなさい」であったり、扉が閉ざされたりするときにです。そうした瞬間、神はあなたの内に、あなたの人生にとって貴重な忍耐を生み出してくださいます。
- 神はまた、あなたの願いのうちふさわしくないものを取り除かれます。あなたの望みを変えてくださるのです。主の兄弟ヤコブ――イエスと共に育ち、イエスの祈る姿と行いを見てきた人物――は率直にこう述べています。「あなたがたが求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからです」(ヤコブ4:3)。待つことは訓練の場です。この試練を通して、この忍耐の実践を通して、神はあなたの人生の中でとても美しいことをなさいます。
3. 祈りか行動か?イエスは偽りの二択を退ける
- あなたもこんな言葉を聞いたことがあるでしょう。「祈る人と、行動する人がいる」。まるで二つの陣営があるかのように。祈れば行動しなくていい、行動すれば祈らなくていい、というように。
- 正直なところ、たくさん祈っているのに機会を逃し、神が本当に応えてくださると信じていない人たちがいるのも事実です。また、形式的に祈るだけで、実際には何もしない人たちがいるのも事実です。
- しかし、それはイエスが求めておられることではありません。「求め続けなさい、探し続けなさい、たたき続けなさい」というその言い方自体が、逆のことを教えています。祈りと行動は一つに結び合わされているのです。もしかすると神は、あなたを通して、祈りの有効性を周りの人々に示そうとしておられるのかもしれません。生き生きとした祈りの歩みは、主との家族のような信頼関係を築いていきます。
4. 天の父は良いものを与えてくださる――そして聖霊も
- 「あなたがたのうちで、だれが、自分の子がパンを下さいと言うときに、石を与えるでしょう。魚を下さいと言うときに、蛇を与える者がいるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、天におられるあなたがたの父は、なおのこと、ご自分に求める者たちに良い物を下さらないことがありましょうか」(マタイ7:9-11)。
- なぜ石であり、なぜ蛇なのでしょうか。一世紀のガリラヤでは、人々は主に、あまり手を加えていない小麦から作られた、石のような形の小さなパンと、湖で獲れる魚――中には蛇のような形をした種類もありました――を食べていたからです。イエスは日常のイメージで語っておられるのです。想像してみてください。ある父親の子どもがお腹をすかせて「お父さん、お腹すいた」と言ったとき、父親がふざけて石を渡す。子どもは歯を折ってしまいます。あるいは蛇を渡す。子どもは噛まれてしまいます。そんなことをする人がいるでしょうか。誰もいません。それは完全な虐待です。
- ですから、イエスが「あなたがたは悪い者であっても」と言われても、あまり早く気分を害さないでください。あなたが今読んでいるのは、イエスがおそらく一気に語られた説教だということを思い出してください。山上の説教を最初の幸いの言葉から最後の一言まで通して読めば、自分がどれほどそのレベルに達していないかを感じるはずです。そうです、あなたは「悪い者」です。他人を裁くから、自分の意見を押しつけるから、思い悩むから、さばくから。あなたはそれを知っています。
- それでも、あなたでさえ自分の子どもに良い物を与えることを知っています。ましてやあなたの天の父はなおさらです。天の父は上から嘲笑いながら、あなたが地上で苦労するのを見ておられるのではありません。むしろその逆です。忍耐を続ける我が子を見て、誇りに思っておられるのです。「見よ、わたしが彼の内に育てているこの忍耐を」と言われるのです。それがあなたの父の姿です。
- ルカ11章13節の並行箇所は、父が求める者に与えてくださるものが何かをはっきりと示しています。それは聖霊です。あなたの内に忍耐と辛抱と愛という業を成し遂げてくださるのは聖霊だからです。最後までやり遂げる力を与えてくださるのも聖霊です。それが、あなたが求めるときにあなたの父が与えてくださるものです。父は善い方であり、あなたの益を望んでおられるからです。
5. 黄金律――方法と動機
- 「ですから、人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これが律法であり預言者です」(マタイ7:12)。これがこの箇所の要です。
- 裁かれたくないですか。だったら裁かないでください。他人に自分の価値観を押しつけられるのは嫌ですか。だったらそれをしないでください。イエスはご自分がこれまで語ってきたすべてを、あなた自身の生活のレベルに落とし込まれるのです。
- マタイ22章とのつながりは明白です。最も大きな戒めは何かと尋ねられたとき、イエスはこう答えます。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい。そして、隣人を自分自身のように愛しなさい。そしてこう付け加えられます。「律法全体と預言者は、この二つの戒めにかかっているのです」。
- 同じコインの両面です。黄金律は方法であり、神の愛は動機です。あなたが受け取る神の愛が、あなたに黄金律を守る力を与えてくれます。こうして律法と預言者の全体が一つに結び合わされているのです。
6. イエスとサマリアの女――裁かず、強いずに求める
- これは具体的にどのように生きられるのでしょうか。ヨハネ4章のイエスご自身の姿を見てみましょう。イエスはユダヤを去り、ガリラヤへ向かい、サマリアを通られます。疲れておられ、渇いておられます。ある女性が真昼に水を汲みに来ます。奇妙なタイミングです。暑い時間帯に水を運ぶ人などいないからです。
- イエスは彼女に言われます。「わたしに水を飲ませてください」(ヨハネ4:7)。私たちの聖書ではこれは命令のように響きますが、実際にはお願いです。「すみませんが、水を飲ませてください」。イエスは水がめを持っておらず、それなしでは水を飲めません。イエスは人を尊重される方だからこそ、お願いをされるのです。すべては問いかけから始まります。
- 続いてイエスは二つ目の問いを投げかけます。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(ヨハネ4:16)。イエスは100パーセント神であり、100パーセント人です。神性においては彼女の状況をご存じです。人性においては問いを投げかけられ、「たまたま」それが的を射たものになります。女性は答えます。「私には夫はいません」。「夫がいないと言ったのは、もっともです」とイエスは応じ、会話は続いていきます。
- 彼女は一瞬たりとも裁かれていると感じません。それどころか、サマリア人である自分に話しかけてくることに驚きます。断罪は一切ありません。イエスは自分の意見を彼女に押しつけません。ただ対話をされます。そして弟子たちが戻ってきたとき(25-27節)、彼らはイエスが彼女と熱心に語り合っているのを見て驚きます。結果はどうなったでしょうか。村全体が救われたのです。イエスは裁かず、強いず、問いを投げかけ、対話をされます。そして祈られます。
7. キリストとの結合――あなたのすべての人間関係の仲介者
- あなたはイエスではありません。しかしイエスは、あのサマリアの女に接したように生きるための、とても実践的な教理を残してくださいました。それがキリストとの結合という教理です。これは日常生活のために力強い教えです。
- この言葉が示すとおり、あなたはキリストにあるゆえに、キリストによって救われ、キリストはよみがえられ、あなたはキリストの内に生きています。あなたは人生のあらゆる領域において、キリストと結ばれて生きているのです。
- これはまず、キリストが仲介者であることを意味します。あなたは自分自身の罪のために死ぬことはできません。それは地獄に落ちることを意味するからです。キリストが間に立たれ、来てくださり、あなたと神との間の仲介者となってくださいました。
- しかし、そこで終わりではありません。キリストとの結合によって、キリストはあなたの人生のすべての人との間の仲介者でもあるのです。あなたが友人に電話をかける前から、キリストはすでにあなたとその友人との間の仲介者です。だからこそあなたは、その人を裁いたり断罪したりすることを止められるのです。「キリスト・イエスにある者は、罪に定められることが決してない」からです。だからこそあなたは、その人に何かを強いることをやめられるのです。だからこそあなたは、自分のために祈ってほしいと願うように、その人のために祈ることができるのです。
- キリストはあなたと子どもたちとの間の仲介者です。あなたが石を与えない父親であるために。キリストはあなたと上司との間の仲介者です。あなたが世の中でキリストを表す、ふさわしい社員であるために。これはあなたのすべての人間関係に当てはまります。
- こうしてすべてがつながります。求め、探し、たたく――イエスは、キリストとの結合という美しい現実によって世の中で生きることをまとめておられます。求め、探し、たたくから生きられるのではありません。キリストがあなたの内に生きておられるからこそ、あなたは求め、探し、たたくことができるのです。そして、キリストが本当にあなたの仲介者であるなら、あなたはよみがえられたキリストを、今ここで、あなたの日常生活の中で経験することになるのです。
覚えておきたいポイント
- マタイ7章の「求め、探し、たたく」は、ルカ11章のように祈りそのものについての教えではなく、裁かず強いずに人間関係を生きるための、天の国民の内なる資源です。
- 三つの動詞はすべて現在命令形です。求めて求め続け、見つかるまで探し続け、開かれるまでたたき続けなさい。クリスチャンの祈りは一度きりの儀式ではなく、生き生きとした歩みです。
- 待つ時間と「いいえ」という答えの中で、神はあなたの内に純化の業をなさいます。忍耐を生み出し、あなたの望みを変えてくださるのです(ヤコブ4:3)。
- 祈りと行動は対立する二つの陣営ではありません。イエスは偽りの二択を退けられます。求め続けながら、同時に行動しなさい。
- あなたの天の父は、あなたが苦しんでいるときに嘲笑ってはおられません。むしろあなたの内に育まれる忍耐を誇りに思っておられます。そして求める者に聖霊を与えてくださいます(ルカ11:13)。
- 黄金律(マタイ7:12)と二つの戒め(マタイ22:37-40)は同じコインの両面です。方法と動機です。
- サマリアの女とのイエスの姿(ヨハネ4章)は、これがどう生きられるかを示しています。求め、問いかけ、尊重し、裁かず、強いない。その結果、村全体が救われました。
- キリストとの結合の教理――キリストはあなたと神との間だけでなく、あなたの人生のすべての人との間の仲介者です。そこにこそ、あなたは日常生活の中でよみがえられたキリストを経験するのです。
あなた自身への適用
- あなたが見知らぬ人と親しくなるいつものやり方は何ですか。誰かを気軽にからかうことでしょうか、それとも祝福となる言葉でしょうか。今週、意気投合の笑いを静かな祈りに置き換えられる場面はどこにありますか。
- あなたはずっと何を「たたき」続けていますか。続ける覚悟がありますか、それとも諦めたい気持ちがありますか。この待つ時間の中で、神はあなたの内に何をなさっていますか。
- あなたは祈っても行動しない人ですか、それとも行動しても祈らない人ですか。今週、イエスはあなたにどのようにこの二つを一つに結び合わせるよう招いておられますか。
- あなたはだれに対して、パンを求められたときに「石を与えたい」誘惑を感じていますか。子ども、配偶者、同僚、あるいは信仰の兄弟姉妹でしょうか。
- 具体的な一つの人間関係を思い浮かべてください(友人、上司、家族の一員)。キリストはすでにあなたとその人との間の仲介者です。このことは、その人との次の会話に、具体的にどんな違いをもたらすでしょうか。
引用された聖句
- マタイ 7:7-8 · 求めなさい、探しなさい、たたきなさい
- マタイ 7:9-11 · 天の父は良いものを与えてくださる
- マタイ 7:12 · 黄金律
- マタイ 22:37-40 · 神を愛し、隣人を愛しなさい
- ルカ 11:5-8 · 真夜中のしつこい友人
- ルカ 11:13 · 天の父は聖霊を与えてくださる
- ヨハネ 4:7-27 · イエスとサマリアの女
- ヤコブ 4:3 · あなたがたが求めても得られないのは、悪い求め方をするから
- ローマ 8:1 · キリスト・イエスにある者は罪に定められることがない
よくある質問
マタイ7章7節で現在命令形を使っているのですか?
この文法形は、一度きりの行為ではなく、継続する行為を表しているからです。イエスは「気が向いたら一度だけ求めなさい」とは言っていません。求め続けなさい、見つかるまで探し続けなさい、開かれるまでたたき続けなさい、と言っているのです。これは忍耐への命令です。クリスチャンの祈りは唱える決まり文句ではありません。天の父にすがり続ける、生き生きとした歩みなのです。そしてこの歩みの中で、神は単に応えてくださるだけではありません。あなたを変えてくださいます。忍耐を生み出し、あなたの願いを純化し、あなたの望みを変えてくださるのです。
マタイ7章とルカ11章の「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」にはどんな違いがありますか?
文脈がまったく異なります。ルカ11章では、弟子たちがイエスの祈る姿を見て「わたしたちにも祈りを教えてください」と願います。つまりこの箇所は祈りそのものを直接扱っています。一方マタイ7章は山上の説教の中にあり、イエスは人を裁かないこと、自分の価値観を他人に押しつけないことを語り、12節では黄金律で締めくくっています。文脈は人間関係です。求め、探し、たたくことは、裁かず、自分の意見を押しつけずに世の中で生きていく天の国民の内なる資源となるのです。
説教者が語る「キリストとの結合」の教理とは何ですか?
クリスチャンは人生のあらゆる領域においてキリストと結ばれて生きている、という教えです。キリストはあなたと神との間の仲介者であるだけでなく、あなたが出会うすべての人との間の仲介者でもあります。この教理は人間関係のすべてを変えます。友人に電話をかける前から、同僚や上司に話しかける前から、キリストはすでに仲介者としてそこにおられます。だからこそあなたは裁くことも、強いることも、断罪することもしなくなるのです。だからこそ、自分のために祈ってほしいと願うように、相手のために祈ることができるのです。そしてまさにこの人間関係の具体的な場面の中で、あなたはよみがえられたキリストを今ここで経験することになります。
Église Protestante Évangélique Calvary Chapel Parisの説教を見逃さない
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