イエスにとどまる:実を結ぶための鍵(ヨハネ15章)

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イエスにとどまる:実を結ぶための鍵(ヨハネ15章) | Efficient Church

はじめに

あなたはもう長い間クリスチャンかもしれません。情熱に満ちた季節や、イエスとの歩みの中で成長を実感した時期もあったでしょう。けれども今は、行き詰まりを感じているのではないでしょうか。実りが少なく、喜びも少なく、同じ古い習慣が繰り返し戻ってきて、周りにも大きな変化が見られない。ではどうすればいいのでしょうか。もっと努力する、規則を積み重ねる、知識を増やす、神秘的な体験を追い求める。ヨハネ15章1-17節で、イエスはもっとシンプルで、しかもより深い答えを与えてくださいます。「わたしにとどまりなさい」。クリスチャンの人生は何よりもまず規則の体系でも、神学でも、真似すべきモデルでも、感じるべき感情でもありません。それはイエスとの生きた関係であり、その中でイエスの愛があなたを満たし、そこから周りの人へと溢れ出ていくのです。

メッセージの構成

1. イエスにとどまる:イエスこそ真のいのちの源(1-8節)

  • イエスはご自分を「まことのぶどうの木」と示し、父なる神を農夫と示されます。このイメージは旧約聖書に由来します。ぶどうの木はイスラエルを表し、神のために実を結び、諸国民への祝福となるはずでした。しかしイスラエルはそれに失敗しました。イザヤ書27章は、いつかこの民がその使命を果たす日が来ると約束していました。
  • 「わたしはまことのぶどうの木である」と言うことで、イエスはご自分がその約束の成就であると宣言しておられます。もしあなたが信仰によってイエスにつながっているなら、あなたは神の真の民の一員であり、この世界で実を結ぶ運命にあります。
  • 農夫である父なる神は、ぶどうの木を世話されます。それは手入れをするということです。つまり、切り取るのです。もしあなたがクリスチャンなら、より多くの実を結ぶために、人生のある部分が切り取られることを覚悟しておく必要があります。それは時に痛みを伴いますが、愛の行為なのです。
  • 神はどのように手入れをされるのでしょうか。3節にはこうあります。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話した言葉によって、既にきよくされている。」父なる神の道具は御言葉であり、それはあなたを正し、教え、導き、励まします。
  • 7節。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしの言葉があなたがたにとどまっているなら、望むものを何でも求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにかなえられる。」「イエスの名によって」とは、祈りの最後に付け加える魔法の言葉ではありません。それは、イエスのアイデンティティ、使命、優先順位、栄光にかなうように祈るということです。御言葉があなたの内にとどまるほど、あなたの願いと祈りはイエスの願いと重なり、神はそのような祈りに答えてくださいます。
  • 優先すべきことは、無理に実を生み出そうとすることではありません。枝は自分の力でぶどうを実らせようと頑張るのではなく、ただ木につながっていればよいのです。イエスにとどまり続けてください。御言葉によって養われ、祈りの中でイエスに語りかけてください。実はふさわしい時に結ばれます。

2. 他者を愛すること:イエスにある人生の本質(9-17節)

  • 9節。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した。わたしの愛にとどまりなさい。」イエスにとどまることは、具体的にはイエスの愛にとどまることです。イエスが自分を深く愛してくださっていることを、しっかりと確信することです。父と子を結ぶこの完全な愛こそが、あなたを支え、あなたを運んでくれるのです。
  • この愛は感傷的なものではありません。それは従順という形で表されます。「もしあなたがたがわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまるであろう」(10節)。戒めを守ることは、本当にイエスにとどまっていることの目に見えるしるしとなります。
  • この世は愛を、自分を突き動かす感情として描きます。しかし聖書は愛を、意志による行為、感情を伴いながらもそれ以上のもの、代価を伴う選択として描きます。イエスこそその最高の模範であり、父の御心から一度も逸れることがありませんでした。
  • 牧師はこう語ります。娘たちが何度も禁止されていたのに、洗面台の下の家具によじ登ってしまいました。結果、家具は壊れ、休みの日は修理に費やされました。牧師は娘たちにこう言いました。「私があなたたちに指示を出すのは、あなたたちを愛しているからだよ。もし私を愛しているなら、聞いて従ってほしい。」神が私たちに戒めを与えられるのは、私たちを困らせるためではなく、私たちの益と喜びのためです(11節)。
  • 12-13節。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はない。」イエスはその翌日、十字架の上で実際にこれを行われます。イエスは弟子たちに、旧約聖書ではアブラハムとモーセだけに与えられていた「神の友」という特別な立場を開いてくださいました。
  • 16節。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」誰もこの愛に値する者はいません。この関係を始め、支え続けておられるのはイエスご自身です。

3. 満たされた愛は周りの人へと溢れ出る

  • 牧師はこんなたとえを語ります。水で満たされたコップを想像してみてください。神の愛が本当にあなたを満たすとき、それは他の人の人生へと溢れ出ていきます。「渇いた」状態から、犠牲を伴う愛を生み出すことはできません。その愛は、十字架で示され、御言葉と祈りによって日々生き続けている、神があなたを愛しておられるという事実を意識することから汲み出されます。
  • イエスはヨハネ13章でも同じことを語っておられます。「もしあなたがたの間に愛があるなら、それによってすべての人は、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう。」あなたが愛する姿こそ、あなたがイエスに属していることの確かな証拠です。そしてその美しさが、周りの人を引きつけるのです。
  • イエスが語る「実」とは、人格の実(義、聖さ、愛)のことですが、同時に弟子たちが増え広がっていくことでもあります。使徒たちに語りかけながら、イエスは彼らが生きる愛を通して教会が広がっていくことを見据えておられました。
  • もしあなたが家族や隣人、同僚がイエスのもとに来るのを見たいと願うなら、最初の鍵は最高の伝道方法を編み出すことではありません。イエスとの生きた関係にとどまり続けることです。あとのことは時間とともに育っていきます。

4. イエスの警告:つながり続けることは選択肢の一つではない

  • 2節と6節。とどまらない枝は切り取られ、投げ捨てられ、燃やされます。真の弟子は実を結びます。聖書を一度も読まず、祈ることもなく、イエスとの生きた関係を一度も育まないまま「自分はクリスチャンだ」と言うだけでは十分ではありません。
  • ユダはその悲劇的な例です。彼は何年もイエスに従いながら、本当の意味でイエスにつながってはいませんでした。パウロも、今の世を愛したためにパウロを見捨てたデマスについて語っています。新約聖書は、私たちに偽りの教師たちへの警戒を促しています。
  • しかし、この警告はまず、不安を抱える本物の弟子たちに向けられたものではなく、表面的にしか関わっていない聞き手に向けられたものです。反対に、十一人の使徒たちに対して、イエスは大きな確信を与えておられます。彼らこそ神の真の民であり、彼らの実は残り続けるのです。

要点のまとめ

  • クリスチャンの人生は何よりもまず規則の体系でも、神学でも、真似すべきモデルでも、引き起こすべき体験でもありません。それはイエスとの生きた関係です。
  • イエスにとどまることとは、具体的には御言葉を自分の内にとどまらせ、祈りの中でイエスに語りかけることです。実はそこから自然に結ばれます。
  • 「イエスの名によって」祈ることは、魔法の言葉ではありません。イエスのアイデンティティ、使命、栄光にかなうように祈ることであり、それは御言葉があなたの心を形作るときにのみ実現します。
  • とどまることは、イエスの愛にとどまることでもあります。その愛は戒めへの従順として表され、それは感情に流されるのではなく、感情を伴いながらもそれを導く選択です。
  • 「渇いた」状態で犠牲を伴う愛を注ぐことはできません。イエスの愛で満たされ続けてください。そうすれば、その愛は家族、友人、同僚、教会の人々へと溢れ出ていきます。

あなた自身への適用

  • 今、あなたと主との個人的な時間はどうなっていますか。短くてもよいので、毎日聖書を読み、祈る時間を持てていますか。
  • 今、神があなたの人生の中で「手入れ」をしておられることはありませんか。ある習慣、ある関係、ある趣味、ある時間の使い方など、より多くの実を結ぶために手放すよう求められているものはありませんか。
  • 今週、あなたの周りの誰に対して、神は具体的に愛を示すよう求めておられますか。奉仕の行動、優しい言葉、赦し、訪問など、どんな形が考えられますか。
  • あなたは今、聖書の学び会や週の集まり、ホームセルグループなど、他の人と共にクリスチャンとしての人生を育める場にいますか。もしいないなら、どんな最初の一歩を踏み出せますか。
  • 今、あなたにとってイエスのどの戒めが、代価を伴う本当の従順の場となっていますか。今日、その点をどのようにイエスに委ねますか。

引用聖句

  • ヨハネ15:1-17 ・ わたしはまことのぶどうの木である、わたしにとどまりなさい、互いに愛し合いなさい
  • ヨハネ14章 ・ イエス、道であり、真理であり、いのちである方
  • ヨハネ13:35 ・ 「もしあなたがたの間に愛があるなら、それによってすべての人は、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」
  • イザヤ27:2-6 ・ 世界をその実で満たすぶどう畑についての約束
  • 箴言21:1 ・ 王の心は主の御手のうちにある水路のようなもの
  • 詩篇1篇 ・ 主のおしえを昼も夜も口ずさむ人は幸いである

よくある質問

具体的に「イエスにとどまる」とは日常でどういうことですか。

それは、イエスご自身がこの箇所で示している、とてもシンプルな二つのことです。御言葉を自分の内にとどまらせることと、祈りの中でイエスに語りかけることです。短くてもよいので、聖書を読み祈る時間を毎日決めて持ちましょう。大切なのは量や完璧さではなく、続けることです。また、教会の週の集まりやセルグループにも参加して、他の人と共に成長してください。実は自然に結ばれていきます。

「イエスの名によって」祈るとは、神が求めることは何でも叶えてくださるという意味ですか。

いいえ、違います。「イエスの名によって」は魔法の呪文ではありません。それは、イエスのアイデンティティ、使命、優先順位、そして神の栄光にかなうように祈るという意味です。イエスにとどまり、その御言葉に自分が形作られるほど、あなたの願いはイエスの願いと重なっていきます。そのとき祈りはイエスの御心にかなうものとなり、神はそのような祈りに答えてくださいます(7節、16節)。

神が私の人生の何かを「切り取っている」ように感じて、それがつらいです。これは普通のことですか。

はい、普通のことです。父なる神は農夫であり、より多くの実を結ばせるために枝を手入れされます(2節)。それは決して無意味でも、悪意によるものでもありません。神はあなたの成長を妨げているもの、ある習慣や関係、気を散らすもの、時間を取りすぎる趣味などを取り除かれます。抵抗せず、神に協力してください。この手入れの主な道具は御言葉です(3節)。その結果として、より多くの実と、より深い喜びが与えられます(11節)。

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