はじめに:今朝のためのシンプルな祈り
今朝、あなたは心配事や重荷、不安を抱えて礼拝に来られたかもしれません。周りで起きていることを見ると、不安がすぐに湧き上がってきますよね。それでも、奇跡や癒し、山を動かす信仰について耳にすると、こう思うのではないでしょうか。「では、私の平凡な日常の中で、神様はどこにいらっしゃるのだろう」と。
2月8日の日曜日にお招きした説教者、元病院チャプレンの方は、一つの祈りを通奏低音として語ってくださいました。それは「主よ、私の信仰を増してください」という祈りです。この祈りは、福音書に出てくるある父親の叫びから取られています。子どもをイエス様のもとに連れてきたその父親は、こう言いました。「信じます、私の不信仰をお助けください」と。この祈りを軸に、説教者はイザヤ書38章とマルコによる福音書6章を用いながら、最初から最後まで語ってくださいました。
彼が分かち合ってくれたのは、癒しについての理論的な講義ではありません。病院の廊下で培われた牧会的なまなざしです。それは、神様に大きなしるしだけを期待してしまい、日常の中で働かれる神様を見失いそうになっているあなたを、そっと軌道修正してくれるものです。
メッセージの構成
1. ヒゼキヤ王:祈りが宣告を変えるとき
最初に読まれたのはイザヤ書38章です。ヒゼキヤ王は死に至る病にかかっていました。預言者イザヤは彼のもとに来て、こう告げます。「あなたの家に遺言をしなさい。あなたは死ぬ、生きながらえることはない」と。ヒゼキヤは顔を壁の方に向け、主に祈り、自分が誠実に神様の前を歩んできたことを思い起こしながら、激しく泣きました。
主の答えはすぐに届きます。「あなたの祈りを聞いた。あなたの涙を見た。あなたの命に十五年を加えよう」と。そしてイザヤは、王の腫れ物に当てるためにいちじくの菓子を持ってくるよう求めます。
この細部は決して些細なことではありません。神様は祈りに応え、命の年数を加えてくださると同時に、とても具体的な治療法も用いておられます。信仰は行動を排除するものではないのです。信仰は神様と医学を競わせるものでもありません。むしろ、すべてを主の御手に委ねるものなのです。
2. マルコ6章:神様の三つの働き方
マルコによる福音書6章で、著者は三つの場面を並べて見せてくれます。ナザレでは、イエス様は「そこでは何の奇跡もすることができず、ただ少数の病人に手を置いていやされただけ」で、人々の不信仰に驚かれました(5〜6節)。次に、イエス様は十二人を遣わし、彼らは「多くの悪霊を追い出し、多くの病人に油を塗っていやした」とあります(13節)。最後に、ゲネサレでは(53〜56節)、人々があちこちを走り回り、病人を広場に運んで来て、「せめて衣の房にでも触れさせてほしい」とイエス様に懇願しました。
三つの箇所、三つの働き方です。手を置くこと。油を塗ること。衣に触れるだけのこと。説教者はこう繰り返しました。神様は一つの働き方だけに限定されているわけではありません。もしあなたがただ一つの形の奇跡だけを求めているなら、あなたの周りで神様がすでに用意しておられる働きを、見過ごしてしまうかもしれません。
3. 信仰は奇跡の自動的な条件ではありません
「信仰があれば癒される」とよく言われます。説教者は、これを慎重に正していきます。マルコ6章のナザレの場面では、不信仰があってもイエス様は何人かの病人をいやされました。他の箇所でも、イエス様は内面の状態が分からない人々をいやしておられます。信仰は心理的な条件でも、交換のための通貨でもないのです。
「信仰は、奇跡の意味を受け止め、理解するための環境を提供します。奇跡が必ずしも信仰を生み出すわけではありません。奇跡は、信仰が働く機会を与えるだけなのです」。この視点の転換は、すべてを変えてくれます。特に、もしあなたがかつて「癒されないのは、私の信仰が足りないからだ」と思ったことがあるなら、なおさらです。説教者ははっきりと言いました。これは信仰の量の問題ではありません。この考えは人を苦しめるものであり、聖書的でもないのです。
4. 手を置くこと:魔法ではなく、しるしです
手は実にさまざまなことができます。祝福のために手を上げます。「私は武器を持っていません、あなたに心を開いています」と伝えるために手を差し伸べます。祈るために手を合わせます。イエス様ご自身は、いやすために手を必要とはされません。ただ言葉だけで、遠く離れた場所からいやされたこともあります。手を置くという行為は不可欠なものではありませんが、それでも何かを伝えています。それは、臨在、思いやり、そして祈りです。
説教者は、故郷から遠く離れ、家族からも離れて暮らす、ある心臓病の男性のことを語ってくれました。「私が彼の病室に着いたとき、彼にとって私はまったくの他人というわけではありませんでした。私は手を差し伸べ、軽く手に触れることで、自分がそこにいることを伝えました。彼はほとんど話すことができませんでした。手術後の疲労が見て取れました。この静かで、ほとんど気づかれないほどのしるしは、私たちの友情と支えを思い出させるものでした。置かれた手は、祈りと祝福を意味し、主の善良さについて病人を安心させてくれたのです」。
あなたが差し伸べる手、思いやりのまなざし、贈り物、難民申請者への歓迎:これらもまた、祝福する手です。「私たちは癒しの器です。私たちは、神様のまなざしであり、神様の手なのです」。
5. 油を塗ること:魔法の治療薬ではなく、共同体のしるしです
マルコ6章13節には、油を塗ることについて語られています。説教者はこう強調しました。いやすのは油ではなく、主ご自身です。この行為は、聖霊、喜び、そして約束された満たしを指し示しています。これは見せびらかすためのものでもなければ、最後の望みとしての行為でもありません。
彼はこう証ししてくれました。ある病気のとき、彼は自分の教会の牧師と役員たちに家に来てもらい、按手を受けたそうです。その兄弟はとても気前がよく、「額に数滴垂らすだけでなく、その量からすると、まるでシャンプーをしてくれたようでした」とのことです。その日、彼はすぐには癒されませんでした。数か月後に手術を受けることになります。しかし、彼は安心し、支えられ、共同体に励まされました。まさにそこにこそ、この行為が果たす役割があります。孤立という破壊的なものを打ち破り、病人を教会という家族の中に組み入れてくれるのです。
6. 癒しと救い:同じ言葉、より広い救い
ゲネサレでの場面(マルコ6章56節)では、「触れた者はみないやされた」と記されています。ここで使われているのは「救う」という動詞で、これは「いやす」とも訳せる言葉です。私たちの救いそのものが、一つの癒しの形なのです。
主に心を向けることは、しばしばあなたの心の健康、人間関係、自分自身への信頼に良い影響を与えます。説教者は、ひどい仕打ちを受けたために自信を失っている女性たちのことを思い起こしていました。イエス様は、そうした傷からも彼女たちを立ち上がらせたいと願っておられます。そして彼は、病気や事故と個人的な呪いとを直接結びつけてはいけないと注意を促しました。イエス様ご自身が、崩れ落ちた塔の犠牲者について、ルカによる福音書13章でこう語っておられます。彼らの死は、他の人々より罪深かったことの証明にはならない、と。
覚えておきたいポイント
- 神様は毎日働いておられます。大きなしるしの中だけではありません。神様が昇らせてくださる太陽、住まい、家族、健康、あなたが祈り、御言葉に耳を傾けることができること。これらすべてが認めるべき本物の恵みです。
- マルコ6章に見る三つの働き方:手を置くこと、油を塗ること、ただ触れること。同じ主が、さまざまな方法で働かれます。
- 信仰は奇跡を引き起こす機械的な原因ではありません。信仰は、神様がなさることを受け止めるための場所です。もしあなたが癒されていないとしても、それはあなたの信仰が小さすぎる証拠ではありません。
- 救いは肉体の癒しよりも広いものです。それは赦し、恥からの解放、信頼の回復、交わりにも及びます。
- あなたも癒しの器になることができます。差し伸べる手、思いやりのまなざし、祈り。神様はあなたの手を用いて、その愛を伝えてくださいます。
あなた自身への適用
- 今、あなたが神様に絶対に求めている「しるし」は何ですか。その期待が、神様がすでに日常の中でなさっていることを見えなくしてはいませんか。
- あなたは、自分の病気や試練、事故が罰であるという考えを、密かに抱いていませんか。ルカによる福音書13章のイエス様の言葉は、そこからあなたをどう解放してくれるでしょうか。
- 今週、主があなたに、ただ手を差し伸べることや短い祈りをもって訪ねるよう招いておられる兄弟姉妹、病気の人はいますか。
- あなたはこれまでに、牧師や教会の長老たちに、油を塗って(ヤコブの手紙5章)祈ってもらうよう頼んだことがありますか。それを妨げているものは何ですか。
- 「主よ、私の信仰を増してください」という祈りは、神様からの答えがどうであれ、あなたの今週をどのように変えるでしょうか。
引用された聖句
- イザヤ 38:1-6 ・ ヒゼキヤが祈り、主が彼の命に十五年を加えられる。
- イザヤ 38:21 ・ 腫れ物に当てられたいちじくの菓子。
- マルコ 6:5-6 ・ ナザレでのイエス様:不信仰の中でも数人に手を置かれる。
- マルコ 6:12-13 ・ 遣わされた十二人:油を塗っていやす。
- マルコ 6:53-56 ・ ゲネサレで、イエス様の衣に触れた者はみな救われる。
- マルコ 16:17-18 ・ 使徒たちへの約束:病人に手を置く。
- ルカ 13:1-5 ・ 悲劇の犠牲者は、他の人々より罪深かったわけではない。
- ヤコブ 5:13-16 ・ 油を塗ってもらうために教会の長老たちを招く。
よくある質問
癒されるためには、大きな信仰が必要ですか。
いいえ、必要ありません。マルコ6章では、ナザレの人々の全体的な不信仰にもかかわらず、イエス様は何人かの病人をいやされました。信仰は奇跡の機械的な条件ではありません。量の問題でもないのです。「私が癒されないのは、信仰が足りないからだ」と考えることは、心を傷つけるものであり、聖書的でもありません。あなたの祈りは聞かれています。その答えは主にゆだねられています。
病人への油を塗る行為は、今日でも行われるものですか。
はい、行われます。ヤコブの手紙5章が招いているように、病人本人の求めに応じて、教会の責任者たちと共に行われます。これは魔法の治療薬ではなく、また中世の終油の秘跡のような「最後の望み」の行為でもありません。これは、聖霊の臨在、教会の祈り、そして病人を取り囲む兄弟姉妹たちの交わりを表すしるしです。立ち上がらせてくださるのは主ご自身です。
私の病気や試練は、神様からの罰なのでしょうか。
いいえ、そうではありません。ルカによる福音書13章で、イエス様ははっきりとこう語っておられます。崩れ落ちた塔の犠牲者たちは、他の人々より罪深かったわけではない、と。あなたの苦しみと個人的な罪とを直接結びつけることは、正しくもなく、牧会的でもありません。神様があなたを招いておられるのは、自分のものではない罪悪感の重さを背負うことなく、信頼をもって神様に心を向けることです。
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