本物の指導者とは:神が長老に求めること

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はじめに

パウロはテトスに手紙を書き、彼をクレタ島に残して一つの明確な使命を託しました。それは、まだ整えられていない事柄を整え、それぞれの町に長老たちを任命することです。この背景には、クレタの詩人エピメニデスの言葉が置かれています(12節)。「クレタ人はいつも嘘つき、悪い獣、怠け者の腹」。つまり、そこは決して簡単な土地ではありませんでした。それでも神は、ご自分の教会を通してこの民にご自身を現そうとしておられます。そのためには、神の美しさを映し出す指導者たちが必要なのです。

もしあなたが以前、権力を乱用する指導者に傷つけられた経験があるなら、あるいは周りで責任者たちが道を踏み外していく姿を見てきたなら、このみことばはあなたの心を癒してくれるはずです。この箇所は安心を与えてくれます。神ご自身が基準を定めておられるからです。同時に、私たちを問いただすものでもあります。自分自身を振り返らざるを得なくなるからです。あなたが長老であっても、将来長老になる人であっても、教会員であっても、あるいはただ興味を持って読んでいるだけであっても、パウロがここで語っていることはあなたに関係があります。説教者自身がこう語っています。長老に求められていることは、本来、神の民の100パーセントについて言えるべきことなのです。

この箇所は三つの流れで展開されます。本質的な必要、忠実な反映、そして命に関わる資格です。先に進む前に、テトス 1:5-9 を読んでみてください。

説教の構成

1. 本質的な必要(5節)

「あなたをクレタに残しておいたのは、残っている仕事を整理し、私が命じておいたように、それぞれの町に長老たちを任命してもらうためでした。」ここでの「任命する」ということばは、飾りではありません。これは本質的な必要であり、神ご自身が、ご自分の民が正しく導かれるために必ず整えておきたいと願っておられることです。

この節には三つの大切なポイントが隠されています。まず、任命されるのは男性です。これは女性を無視するためではなく、神が定められた完全に等しい価値の中で、役割はそれぞれに異なるものとされているからです。男性たちはその立場をしっかりと担わなければなりません。多すぎず、少なすぎず。最初のアダムのように、そこにいながら不在であり、守るべきものを守らず、みことばに堅く立たなかった、そのような姿とは逆です。

次に、彼らはそれぞれの町にいなければなりません。神は、この世界のあらゆる場所を、ご自身を映し出すもので覆いたいと願っておられます。遠くの領域に漠然と結びついているだけの牧師ではなく、目に見え、身近で、評価できる、そして自分の民を間近で世話できる責任者たちです。

最後に、彼らは複数でなければなりません。それぞれの町に「長老たち」が複数形で置かれています。共同で導くという体制は、昔からの神のご計画であり、古いイスラエルの中にも、パウロが自らの働きを行った仕方の中にも、すでに見られるものです。神の民を一人だけで導く者はいません。

2. 忠実な反映(6-8節)

6節と7節に二度繰り返されることばは「非難されるところがない」です。これは完全であることを意味するのではありません(福音はまさに罪人のためにあるものです)。そうではなく、社会的にも道徳的にも非難されるところのない評判を持つということです。長老のせいで、教会と神が中傷されることがあってはならないのです。

興味深いのは、パウロがどこから語り始めるかということです。それは家庭の中、脚光からは遠く離れた場所です。「一人の妻の夫であり、その子どもたちが信者であって、放蕩を責められたり、不従順であったりしてはいけません。」結婚している長老は、まず自分の妻を大切にしなければなりません。そして自分の家庭の中に、美しく良い権威の雰囲気を作り出さなければなりません。それは放蕩にも不従順にも向かわせず、むしろ導かれる喜びへと導くものです。パウロはⅠテモテ 3:5でこう語っています。「自分の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。」

7節でパウロは、ギリシア・ローマ世界に由来することばを用います。「監督は、神の家を管理する者として、非難されるところがあってはなりません。」監督とは、都から派遣されて、その都のために一つの地域を世話する監視者のことでした。ここで彼を派遣する都は、ローマでもエルサレムでもありません。天のエルサレムです。長老とは、神ご自身が大切にしておられる民について、神の前に責任を負う管理者なのです。

そこには恐るべきリストが二つの並びで続きます。長老がそうであってはならないもの、それは、傲慢、怒りっぽい、酒に溺れる、乱暴、利益をむさぼる、というものです。言い換えれば、脚光を求めて競うことなく、衝動を行動の指針としないこと、何かの依存に支配されないこと、押しつぶし支配する鉄の手を持たないこと、務めを自分の利得のために使わないこと、です。主はすでに弟子たちにこう言われました。異邦人の支配者たちは民を支配しますが、あなたがたの間ではそうであってはならない。人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるため、また多くの人のための贖いの代価として自分のいのちを与えるためです(マルコ 10:42-45)。

長老がそうであるべきもの、それは、もてなし好きで、善を愛し、慎み深く、正しく、聖く、自分を制することのできる人であることです。もてなし好きとは、文字通りには「見知らぬ人を愛する者」という意味です。キリストが先に私たちを温かく迎え入れてくださったからです。善を愛するとは、善そのものを愛することです。どこに行っても、その善を連れて行くのです。慎み深いとは、実際的な判断において知恵があることです。正しいとは、はっきりと判断を下し、善を求める人を評価し、悪を求める人を戒めることができることです。聖いとは、神のために取り分けられていること、祈りとみことばのうちに、隠れた場所で、真っ先にひざまずく人であることです。自分を制することができるとは、自分の力で自分を抑えているという意味ではなく、御霊によって制していただいているという意味です。自制は御霊の実の一つです。

このリストは、スーパークリスチャンのための到達不可能な理想ではありません。これはイエスの姿を描いた肖像です。イエスが来られる何世紀も前に書かれたイザヤ 11:1-5を見てください。「その上に主の霊がとどまる。知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊。」主はこれを完全に生きられました。そして、ご自分の教会の中に、この方を映し出す人々を置かれます。それは、恵みによって変えられた人生とはどのようなものかを、誰もが見ることができるためです。

3. 命に関わる資格(9節)

「教えられたとおりの、信頼できるみことばをしっかりと守る人であり、健全な教えによって励まし、反対する者たちを論破することができる人でなければなりません。」

これが命に関わる資格です。人格は決定的に重要ですが、それだけでは十分ではありません。長老は、みことばにしっかりと結びついていなければなりません。妥協なく、です。なぜでしょうか。それは、嘘をつかれない神(2-3節)が、ご自身のみことばによって教会を導いておられるからです。長老たちは、自分自身の声や、その時々のやり方、お気に入りのテーマを押しつけるためにいるのではありません。彼らは、自分から出たものではないみことばの、忠実な伝達者にすぎないのです。

この、信頼できるみことばへの結びつきには、二つの働きがあります。一つは励ますこと(神に喜ばれる生き方のために民を整えること)、もう一つは反対する者たちを論破すること、つまり福音に逆らって語られる言葉に応答することです。

これはまた、教会を操作から守るものでもあります。あなたの長老たちが、あなたに対して自分の権威を築こうとしていないかどうか、どうすれば分かるでしょうか。答えは単純です。権威はキリストにあり、キリストはご自分のみことばによって治めておられます。あなたの責任は、長老たちがみことばに従って歩んでいるかどうかを見るだけではありません。彼らがみことばに従って語っているかどうかを聞くことも、あなたの責任です。聖書を開いて確かめてください。そして、あなたを導く人々が、何よりもまず、このみことばに結びついていることを期待してください。

覚えておきたいポイント

  • 長老を任命することは本質的な必要です。神は、目に見え、身近で、決して一人ではない指導者たちによって、ご自分の民を導きたいと願っておられます。
  • 神がまず求めておられるのは、学歴やカリスマ性ではなく、福音によって形作られた人格です。それは脚光から遠く離れた家庭の中から始まります。
  • 7-8節のリストは、長老だけに課された特別な天井ではありません。これは、変えられつつあるすべての弟子の姿を描いた肖像です。
  • 人を益する権威とは、イエスを映し出す権威です。自分を与え、仕え、決して支配しない王のような権威です。
  • 命に関わる資格とは、信頼できるみことばへの結びつきです。それがなければ、教会を逸脱と操作から守るものは何も残りません。

個人的な適用

このみことばは、責任者たちだけに向けられたものではありません。あなたにも向けられています。主の御前で自分自身を吟味するために、いくつかの問いを用意しました。

  • あなたは自分の家庭の中で、自分の立場をどのように生きていますか。正しくその場に立っていますか。それとも、控えすぎ、あるいは出しゃばりすぎになっていませんか。
  • あなたの日々の生活を「導いている」ものは何ですか。怒り、何らかの依存、承認への渇望、お金、それとも御霊でしょうか。
  • あなたは善を愛する人ですか。あなたの周りにいる人たちは、あなたを通して善を受け取っていますか。
  • あなたは自分の長老たちをどのように扱っていますか。彼らのために祈っていますか。彼らが教会を世話できるように、彼らを世話していますか。
  • あなたは、説教で語られることを聖書を開いて確かめていますか。それとも、みことばではなく、ある一人の人についていっているのではありませんか。

引用された聖句

よくある質問

長老になるためには、必ず結婚していて子どもがいなければなりませんか。

いいえ。パウロは、長老が結婚していなければならないとは言っていません。パウロが言っているのは、もし結婚しているなら、自分の妻に対して誠実であること(「一人の妻の夫」)、そして妻を大切にすることです。子どもについても同じです。問題は子どもがいるかどうかではなく、子どもがいる場合に自分の家庭をどう治めるかです。根本にある考えはシンプルです。家庭の中で起こっていることは、教会の中で起こることを映し出すのです。

「非難されるところがない」とは、「完全である」という意味ですか。

いいえ、そうではありません。もしそうであれば、誰一人として資格を持つ人はいなくなり、福音はその意味を失ってしまいます。このことばが指しているのは評判です。道徳的にも社会的にも非難されるところがなく、その人の態度のせいでキリストと教会が中傷されることがない、ということです。長老も悔い改め続ける罪人であることに変わりはありません。ただ、その生き方が、自分の語る内容とあからさまに矛盾していないということなのです。

自分の長老がテトス1章の肖像に当てはまらない場合、どうすればよいでしょうか。

まず、その人のために祈ることから始めてください。完全な長老は一人もいません。パウロのこのリストは、一つの基準であると同時に、変えられていく道筋でもあります。しかし、もし深刻で継続的な矛盾、たとえば根深い傲慢、押しつぶすような怒り、道徳的な逸脱、貪欲、みことばに結びつくことへの拒絶などが見られる場合は、これは軽く扱ってよい問題ではありません。教会の秩序を尊重しながら(Ⅰテモテ 5:19-20を参照)、真剣に取り扱うべき事柄です。放置してはいけません。

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