導入
マルコ11章で、イエスはついにエルサレムに到着します。わずか数節の間に、イエスはメシアとして歓迎され、実のないいちじくの木を呪い、神殿から商人たちを追い出し、そして弟子たちに信仰と祈りと赦しについて教えられます。一見すると、この箇所はあちこちに話が飛んでいるように見えます。しかし、イエスがしていることは一つだけです。それは、私たちの信仰を診断することです。イエスは私たち自身についての真実を見せてくださいます。それによって私たちは、自分が信じていると言っていることを、実際に生きることができるようになるのです。
メッセージの構成
1. 私たちが自分について思っていることは、必ずしも真実ではありません
- ジェイソンは個人的な例からメッセージを始めます。昨年2月に自閉症スペクトラム障害とADHDの診断を受けた彼は、自分自身について思っていたことが真実ではなかったことに気づきました。彼は「少し愚か」なのではなく、単にいくつかの助けとなる道具が足りなかっただけだったのです。
- この診断は贈り物です。なぜなら、本当に真実であることを見ることで、成長し、物事を違ったやり方で扱えるようになるからです。
- 私たちの信仰についても同じことが言えます。多くのクリスチャンは、自分の信仰について、現実と一致しない考え方をしています。
- マルコ11章はまさにそのような箇所です。イエスは、私たちが神との関係において実際にどこにいるのかを診断する助けをしてくださいます。
2. 勝利のエルサレム入城(マルコ11:1-11)
- イエスはエルサレムの東にあるベタニアに到着し、二人の弟子を遣わして、誰も乗ったことのないろばの子を連れて来させます。すべてはイエスが予告した通りに進みます。十字架へと向かう道の途中でさえ、すべてを支配しているのはイエスご自身なのです。
- そのろばの子に乗ることで、イエスはゼカリヤ書9章のメシアについての預言を成就されます。群衆はイエスの通る道に上着や枝を敷き、まるで王のためのレッドカーペットのようにします。
- 「ホサナ」という叫びは文字通り「私たちを救ってください」という意味です。「私たちの父ダビデの国」について語ることで、群衆はイエスをメシア、約束された王、神の民を救うために来られる方として認めています。
- この人々はイエスに対してまさに正しい応答をしています。イエスは確かに待ち望まれていた救い主なのです。
3. 呪われたいちじくの木と清められた神殿(マルコ11:12-19)
- 翌日、イエスは遠くに葉の茂ったいちじくの木を見られます。近づいてみると、葉しかなく、実は一つもありませんでした。そこでイエスはその木を呪われます。マルコはあえて記します。それはいちじくの季節ではなく、そしてイエスはそのことをご存じだったのです。
- これは機嫌の悪さから来る一時的な怒りではなく、計算された行動です。旧約聖書では、預言者たちは物を使ってメッセージを示しました。アモスは下げ振り、エレミヤはくびきを用いました。イエスも同じことをしておられます。いちじくの木は、イスラエルの民について語るための伝統的なイメージなのです。
- 神殿に着くと、イエスは両替人の台を倒し、鳩を売る者たちを追い出されます。イザヤ書56章を引用して、「わたしの家はすべての国民の祈りの家と呼ばれるべきである」が、それが「強盗の巣」になってしまったと言われます。
- これらの商人たちは、異邦人が祈ることのできる唯一の場所である外庭を占拠していました。彼らの祈りの場所が奪われ、商売の場所にされてしまっていたのです。イエスは諸国民のために神殿を清められます。
4. 枯れたいちじくの木―生きたたとえ話(マルコ11:20-21)
- 翌朝、ペテロは根まで枯れたいちじくの木を見て驚きます。ここでマルコは、ジェイソンが「サンドイッチ」と呼ぶ構成を用いています。いちじく―神殿―いちじく、という構成です。この構造は意図的なもので、そこにあるつながりを私たちに示そうとしています。
- いちじくの木には葉がありましたが実がありませんでした。神殿は神の家という外観を保っていましたが、実質的には神はそこから締め出されていました。指導者たちの偽善のせいで、神殿本来の目的全体が覆い隠されてしまっていたのです。
- イエスが行った唯一の破壊の奇跡は、一つの警告です。敬虔さの見せかけを持ちながら実を結ばない民を、神は裁かれるということです。
5. 真の信仰の二つのしるし―祈りと赦し(マルコ11:22-26)
- イエスはペテロの驚きに応えて言われます。「神を信じなさい」。「この山」に「動いて海に入れ」と言うとき、イエスは漠然とした山について語っているのではありません。オリーブ山から、おそらく神殿の山かオリーブ山そのものを指し示しておられるのでしょう。ゼカリヤ書14章は、裁きの日にオリーブ山が裂けると告げていました。
- メッセージは明白です。神のご計画は成就するということです。神殿は破壊されます。それは実際、紀元70年にローマ軍によって起こりました。しかし真の弟子たちは、あの実のないいちじくの木のようにはならないのです。
- 内面的な側面―祈り。イエスは、確信を持って祈り、神が本当に応えてくださることを実際に期待するようにと励まされます。避けるべき二つの落とし穴があります。一つは「信仰の言葉」という考え方(祈ったのだから神は私に駐車スペースを与える義務がある、というような)、もう一つはより微妙な、私たちの間でよく見られる落とし穴、すなわち本当の希望なしに義務感だけで祈ることです。ジョン・パイパーが言ったように、神は私たちが祈りの中で求めるものを常にそのまま与えてくださるか、あるいはさらに良いものを与えてくださるのです。
- 外面的な側面―赦し。「もしあなたがたが誰かに対して何か恨みを持っているなら、その人を赦しなさい。」イエスはここで感情について語っているのではなく、意図的に赦すことを拒む態度について語っておられます。キリストにあって私たちを赦してくださった神に祈りながら、自分は他者を意図的に赦そうとしないというのは、深く偽善的な行為なのです。
覚えておきたいポイント
- イエスが行った唯一の破壊の奇跡は、一つの鏡です。葉はあっても実のない民が裁かれることを、私たちに示しています。
- いちじく―神殿―いちじくというサンドイッチ構造は偶然ではありません。マルコは、本当の主題が見せかけと現実の間のギャップであることを私たちに見せるために、この物語を構成しているのです。
- 信仰が動かすことのできる山とは、漠然とした願い事のことではありません。それは、神殿への裁きを含めて、成就する神のご計画のことです。
- 真の信仰には内面的な側面(神との本物の親密さから生まれる、確信に満ちた祈り)と外面的な側面(自分が受けた赦しに似た、意図的な赦し)があります。
- 自分が本当はどのような者であるかを見ることは、悪い知らせではありません。それは、変わり始め、本当の実を結び始めるための条件なのです。
個人的な適用のための問い
- もしイエスが、あのいちじくの木に近づかれたように、あなたの人生に近づかれたら、そこに実を見出されるでしょうか、それとも葉だけでしょうか。
- 今日、あなたの神との関係の中で、祈りは実際どのような位置を占めていますか。あなたは義務感から祈っていますか、それとも子どもが父に対して持つような信頼を持って祈っていますか。
- あなたが意図的に赦すことを拒んでいる相手はいますか。その拒絶は、あなたがキリストにあって受けた恵みについての理解について、何を物語っていますか。
- あなたのクリスチャン生活のどの領域で、あなたは実際には神を知ることなく、その役割だけを演じていますか。神が何を求められるかを知っているために、どこで神を距離を置いて扱っていますか。
- もし親しい友人が、外から見たあなたの信仰について語るとしたら、その人は花咲き誇る木について語るでしょうか、それとも葉はあっても実のない木について語るでしょうか。
引用された聖句
- マルコ11:1-26
- ゼカリヤ書9章(ろばの子に乗ったメシア)
- イザヤ書56:7(すべての国民のための祈りの家)
- ゼカリヤ書14章(裁きの日に裂けるオリーブ山)
- マルコ11:22-26(信仰、祈り、赦し)
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よくある質問
いちじくの季節ではないのに、なぜイエスはいちじくの木を呪われたのですか。
イエスは朝の気まぐれな怒りに駆られたのではありません。いちじくの木は、旧約聖書の時代から神がイスラエルについて語るために用いてこられたイメージです。葉は茂っていても実が一つもない木は、遠くから見れば健康そうに見えますが、近づいてみると期待外れであることがわかります。それはまさに、その直後に神殿で起こることと同じです。そこにあるべき実のない、敬虔さの見せかけです。枯れたいちじくの木は、見せかけだけで実質を伴わない民に対して、これから下される裁きを示す生きたたとえ話なのです。
もし私たちに十分な信仰があれば、神は私たちの求めるものを何でも叶えてくださると、イエスは本当に約束しておられるのですか。
いいえ、そうではありません。イエスは、ご自分が立っている場所から見える、神殿の山かオリーブ山のどちらかと思われる、特定の山について語っておられます。イエスは弟子たちに、神のご計画が成就することを告げておられます。すなわち、神殿とエルサレムが裁かれるということです。23-24節は白紙の小切手ではなく、神の善良さと知恵に対する本当の信頼をもって祈るようにという招きなのです。ジョン・パイパーが言うように、神は私たちが求めるものをそのまま与えてくださるか、あるいはもっと良いものを与えてくださるのです。
誰かに傷つけられて、その人を赦すことができない場合はどうすればよいですか。
イエスはここで、赦しに伴う感情や気持ちについて語っておられるのではありません。傷から回復するには時間がかかりますし、赦さなければならない瞬間に恵みに満ちた気持ちになれないのは普通のことです。イエスが咎めておられるのは、意図的に赦すことを拒む態度です。私たちが神に近づくとき、それはキリストが私たちの代わりに罰を受けてくださったからだということを、私たちは知っています。自分自身のためには恵みを求めながら、他者を意図的に赦そうとしないことは、その恵みと深く矛盾しているのです。
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