御言葉を効果的に学ぶ
「あなたの御言葉は、わが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119篇105節)
この詩篇記者の言葉が出発点です。もしあなたがここにいるなら、それはこの御言葉があなたの心にまで届き、あなたを変えたからです。それは単に文字として残されたのではありません。あなたの内で明らかにされ、あなたが暗闇の中でよろめいていたまさにその瞬間に、一つの光が灯ったのです。しかし、今日私たちが向き合う問いは、もっと具体的なものです。どうすればこの御言葉を効果的に学ぶことができるでしょうか。どうすれば聖書が単なる印刷された紙にとどまらず、本当にあなたの歩みのための灯火となるでしょうか。
1. 御言葉はただ読まれるだけであってはならない
聖書は、書棚に置かれているというだけであなたの家を祝福してくれる宗教的な物品ではありません。ただ読むだけにとどまるなら、それはただの紙にとどまります。ただ学ぶだけにとどまるなら、それでもまだ十分ではありません。御言葉は、黙想され、自分のものとされ、消化され、生きられ、実践されなければなりません。そうして初めて、それが宿している祝福を享受することができるのです。
あなたがこれらの言葉を自分の糧とするとき、それはあなたの内で生き始めます。あなたがそれを実践するとき、それは尽きることのない祝福の源となります。御言葉にとどまるとは、自分の人生をその上に築くことであって、ただそれを目の前に通り過ぎさせることではありません。
2. ヨシュアの例、昼も夜も黙想する
主は、民を約束の地へと導き入れるという壮大な使命の中で、ヨシュアを励まされます。その言葉は明確です。「ただ強く、また雄々しくあって、わがしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲がってはならない。……この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もこれを口ずさみ、その中にしるされていることをことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。」(ヨシュア記1章7〜8節)
私たちはしばしば逆に考えてしまいます。「主よ、私の人生を祝福してください。そうすれば、あなたの御言葉を学ぶ時間がもっと持てるでしょう」と。しかし、ここで神はまさに正反対のことを語っておられます。とどまりなさい、御言葉を昼も夜も黙想しなさい。祝福はその自然な結果としてもたらされます。気を散らすものは数多くあり、毎日、あなたを他の道へと導こうとする声が届きます。あなたは目を覚ましていなければなりません。とどまり続けなければなりません。
3. 数々のものにたとえられる御言葉
聖書自体が、あなたが手にしているものを理解させるために、力強いイメージを用いています。
- 道を照らすともしび(詩篇119篇105節)
- あなたの本当の姿を映し出す鏡(ヤコブの手紙1章23節)
- 心の思いと考えを判別する剣(ヘブル人への手紙4章12節)
- 清める火(エレミヤ書23章29節)
- 新しい命を宿す種(ルカの福音書8章11節)
- 命を芽生えさせる雨(イザヤ書55章10節)
- 魂のための糧であるパン(マタイの福音書4章4節)
- この世のあらゆる富にまさる宝(詩篇19篇11節)
これらはまだ続けることができます。これらのイメージの一つひとつが、あなたを御言葉に、受け身ではなく積極的に近づかせる招きなのです。
4. 御言葉は光である、なぜなら御言葉は神だからである
ヨハネは自分の福音書をこう始めます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。……この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネの福音書1章1〜5節)
御言葉は神です。御言葉は光です。だから神は光です。そしてイエス御自身がこう言われます。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。」(ヨハネの福音書8章12節)
港にある灯台を思い浮かべてください。その役目は、船が無事に方向を定め、たどり着けるように光の合図を送ることです。しかし灯台がその目的を果たすのは、船を操る者がその光を目印として見るときだけです。あなたの灯台は何ですか。どこに足を置けばよいかを知るために、あなたはどの光を見つめていますか。
5. 光であることの責任
イエスはさらに、心を揺さぶることを付け加えられます。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない。」(マタイの福音書5章14節)。そしてまたこう言われます。「あかりをつけて、それを穴蔵の中や、ますの下に置く者はいない。むしろ燭台の上に置いて、はいって来る人に光を見えるようにするものである。」(ルカの福音書11章33節)
イエスは御自分を光と定義され、その後、その召命を御自分に従う者たちに手渡されます。それはあなた自身が光を持っているからではなく、あなたの内にある神の御霊が輝くことができるからです。パウロがこう語ったとおりです。「もはや、わたしが生きているのではなく、キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ人への手紙2章20節)。そして幾度も、パウロはあえてこう言います。「わたしにならう者になりなさい」(コリント人への第一の手紙4章16節、11章1節、ピリピ人への手紙3章17節)。これは思い上がりではありません。キリストの御霊が自分のうちに住んでおられるという自覚なのです。
時々、あなたは偽りの謙遜のわなに陥り、「私は誰にとっても光になどなれない」と思い込んでしまうことがあります。確かに、あなたは一日に何度も間違いを犯します。しかし、それが、神の子としての責任を引き受けないための言い訳になってはいけません。
6. ともしびが灯り続けているために必要なもの
十人の乙女のたとえ(マタイの福音書25章1〜13節)を思い出してください。問題は、ともしびそのものではありませんでした。問題は油でした。もし光が消えていれば、その物は本来の役目を果たせず、目的に到達しません。あなたの召命を超えて、あなたの賜物を超えて、あなたの個人的な経歴を超えて、本当に違いを生み出すのは、神の御霊があなたの人生を満たしていることです。
油が必要です。御霊が必要です。そしてこの油は、店で買うことのできるものではありません。それを見出せるのはただ一つの場所だけです。生ける神の御前です。そこで主はそれを注いでくださいます。あなたの人生の中で、そしてあなたの人生を通してあふれ出ることのできる油を。
7. 詩篇記者が結びとする
詩篇43篇3節はこう語ります。「あなたの光とまこととを送って、わたしを導かせ、あなたの聖なる山、あなたのいますところに導かせてください。」光とまこと。神御自身が御自分の御言葉です。御言葉は神です。神は光であり、まことです。そして、光とまことだけが、本当にあなたを導くことができるのです。
覚えておきたいポイント
- ただ読むだけの御言葉では十分ではありません。それは黙想され、自分のものとされ、実践されなければなりません。
- ヨシュアは明確な命令を受けました。御言葉を昼も夜も黙想すること。祝福が先で御言葉が後ではなく、その逆でした。
- 聖書はともしびであり、鏡であり、剣であり、火であり、種であり、雨であり、パンであり、宝です。それぞれのイメージが、それに近づく一つの方法を示してくれます。
- 御言葉は神であり、神は光です。イエスは世の光であり、あなたにも今度は光になるようにと招いておられます。
- 油、つまり聖霊がなければ、ともしびは消えたままです。神の御前を求めてください。そこにこそ油があります。
自分への適用
- 今週、私は自分の聖書を実際にどのように扱っているだろうか。ただ参照する物としてか、それとも噛みしめる糧としてだろうか。
- ここ最近、主が私に示しておられる箇所はあるだろうか。それを昼も夜も黙想する時間を取っているだろうか、それとも急いで読んでしまっているだろうか。
- 御言葉以外の道へと私を向かわせる気を散らすものは何だろうか。とどまり続けるために、何を一旦止めることができるだろうか。
- 神がヨシュアに求められたように、私は御言葉よりも先に祝福を求めているだろうか、それとも逆だろうか。
- 私の周りで、小さな光、一言の正しい言葉、一つの抱擁を必要としている人は誰だろうか。私は自分のともしびを目に見えるようにしているだろうか、それとも、ますの下に隠しているだろうか。
引用聖句
- 詩篇119篇105節
- ヨシュア記1章7〜9節
- ヤコブの手紙1章22〜25節
- ヘブル人への手紙4章12節
- エレミヤ書23章29節
- ルカの福音書8章11節
- イザヤ書55章10〜11節
- マタイの福音書4章4節
- 詩篇19篇10〜11節
- ヨハネの福音書1章1〜5節
- ヨハネの福音書8章12節
- マタイの福音書5章14〜16節
- ルカの福音書11章33節
- マタイの福音書25章1〜13節(十人の乙女)
- ガラテヤ人への手紙2章20節
- コリント人への第一の手紙11章1節
- 使徒の働き2章1〜4節
- 詩篇43篇3節
よくある質問
聖書を「読む」ことと「黙想する」ことの違いは何ですか。
読むとは、目をその文章の上に通過させることです。黙想するとは、その箇所にとどまり、それを繰り返し、それを心の中に入らせ、それが神について何を語り、あなたについて何を語っているかを自問し、最後にそれを実践することを意味します。ヨシュアは、それを時々読むのではなく、昼も夜もそれを黙想するようにという命令を受けています。
なぜ御言葉は「ともしび」であり「光」であると呼ばれるのですか。
それは、あなたが次に踏み出すべき一歩がどこにあるかを示し、より長い道のりの方向をも与えてくれるからです。ともしびは一歩一歩を照らし、光は道全体を照らします。この二つが合わさって、あなたが正しい道を選び、障害を避け、暗闇の中を歩かないように助けてくれるのです。
私がよく間違いを犯すのに、本当に「世の光」になれるのでしょうか。
あなたが光であるのは、あなた自身の功績によるのではなく、キリストの御霊があなたの内に住んでおられるからです。パウロのように、あなたもこう言うことができます。「もはや、わたしが生きているのではなく、キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」と。あなたの責任は、ともしびを油で満たし続けること、つまり神の御前を求め続けることです。そうすることで、あなたの人生を通してその光を輝かせることができるのです。
メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。