1515年のマリニャンの戦い。1789年7月14日のバスティーユ襲撃。1918年11月11日の休戦協定。1945年5月8日の第二次世界大戦終結。あなたもこうした日付を知っているのではないでしょうか。ある民族はこうした日を心に刻み込みます。自分たちを生み出した誇りも、もう二度と繰り返したくない傷も、忘れないために必要だからです。
なぜでしょうか。忘れることは、自らを滅ぼすことにつながるからです。アイデンティティを失うことにつながります。同じ過ちを繰り返すことにつながります。1918年の後、人々は第一次世界大戦を「すべての戦争を終わらせる戦争」と呼びました。塹壕の恐怖を二度と忘れないと確信していたのです。しかしその一世代後、第二次世界大戦が勃発しました。1945年の後、人々は「二度と繰り返さない」という言葉を三つの言語で石に刻みました。それでもスターリンが現れ、ポル・ポトが現れ、さらなる大虐殺が起こりました。人間とは、忘れてしまう生き物なのです。
出エジプト記12章29節から13章16節は、神の民にとってすべてが変わった日をあなたの目の前に示しています。主がエジプトの初子を打たれた夜、ファラオが屈服した夜、イスラエルが奴隷の家から出て行った夜です。この箇所は偶然そこにあるのではありません。あなたの神こそが歴史を動かすことのできる唯一の方であり、神はあなたにこの出来事を決して忘れてほしくないのだと、この箇所は教えてくれます。
メッセージの構成
1. さばきと救いの日(出エジプト記12:29-41)
2. 記念の日(出エジプト記12:42~13:10)
3. 感謝の日
4. 希望の日(出エジプト記13:5、11)
5. 本当の転換点:イエス・キリストの十字架
1. さばきと救いの日
「真夜中に、主はエジプトの国のすべての初子を撃たれた。王座に座るファラオの初子から、地下牢にいる捕虜の初子まで、また、家畜の初子もすべて撃たれた。」(出エジプト記12:29)
この箇所を一言でまとめるなら、救いが訪れるためにはさばきが必要だった、ということです。それ以下でも以上でもありません。このファラオは、ヘブライ人の初子たちをナイル川に投げ込んで殺していました。神はモーセの口を通して警告しておられました。「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もしあなたが去らせることを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。」(出エジプト記4:22-23)ファラオが手を放すためには、さばきが必要でした。彼が民を去らせるためには、さばきが必要だったのです。
そしてついに、救いが訪れます。その夜のうちに、ファラオはモーセとアロンを呼び寄せて言いました。「立って、わたしの民の中から出て行け。あなたがたも、イスラエルの子らも。行って、あなたがたが言ったとおりに主に仕えよ。」(出エジプト記12:31)聖書は、この瞬間の重みを丁寧に記しています。「イスラエルの子らがエジプトに住んでいた期間は四百三十年であった。四百三十年が終わり、ちょうどその日に、主の全軍はエジプトの地を出て行った。」(出エジプト記12:40-41)
四百三十年、その日その夜まで正確に。イメージしていただくために言えば、四百三十年前といえば、イギリスのエリザベス一世、フランスのアンリ四世、スペインのフェリペ二世の時代です。信じがたいほどの長さです。しかし、主がその力強い御手をもって介入されるとき、歴史は動きます。神の時が来たなら、何ものも、誰ひとりとして、それに逆らうことはできないのです。
2. 記念の日
12章42節から13章にかけて、神は繰り返し強調しておられます。この日を決して忘れてはならない、と。「あなたがたがエジプトから、奴隷の家から出て来たこの日を覚えよ。」(出エジプト記13:3)「これはあなたの手の上のしるしとなり、あなたの目の間の記念となる。」(出エジプト記13:9)「これはあなたの手の上のしるしとなり、あなたの目の間の飾り額となる。」(出エジプト記13:16)肉に刻まれ、子孫にまで刻み継がれていくのです。
神はただ言葉で語られるだけではありません。記念するための具体的な三つの方法を与えてくださいます。
過越の食事です。「異国人はこれを食べてはならない。」(出エジプト記12:43)この食事は、契約の民だけに与えられたものです。イスラエルが他の民より優れているからではありません。ただ、主がこの民を救い出されたからです。世代から世代へと受け継がれる、感謝と誇りに満ちたひとときです。
種を入れないパンです。「ふくらませたパンを食べてはならない。」(出エジプト記13:3)パン種は、民が急いで出発したことを思い起こさせます。この物語の脚本を書いているのはイスラエルではなく、神ご自身です。種なしパンは、この転換点における神の主権を指し示しています。同時に、かつての奴隷としての生活が終わったことも思い起こさせます。あなたが食べるパンには、古い世界のかけらすら残っていません。新しい人生が始まるのです。
初子の聖別です。「すべての初子をわたしのために聖別せよ。イスラエルの子らのうちの初子は、すべてわたしのものである。」(出エジプト記13:2)これは何気ないことではありません。初子を失ったのはエジプト人であって、イスラエルではないのです。それなのに、なぜヘブライ人の初子を聖別する必要があったのでしょうか。それは、イスラエルがエジプトより優れているわけではないことを、イスラエル自身に思い起こさせるためです。エジプトのすべての家庭は、初子がその命をもって代償を払いました。もしイスラエルの長子が守られたのなら、それは一頭の子羊がその身代わりとなったからです。血のゆえに、すべての肉に対して行われるさばきのゆえに、主が守ってくださったのです。
3. 感謝の日
すべてを成し遂げてくださった神を前に、民のふさわしい応答は感謝です。「その日、あなたは自分の子にこう告げなければならない。『これは、私がエジプトから出て来たときに、主が私にしてくださったことのためである。』」(出エジプト記13:8)
日本語で「感謝」という言葉には、二つの意味が含まれています。まず、心からありがとうと言うこと。他の誰にもできないことを成し遂げてくださった神を礼拝することです。歴史を動かすことができるのは主おひとりです。民族全体を新しい時代へと導き入れることができるのも、主おひとりなのです。
もうひとつは、認めることです。あなたが救われたのは、あなたの力によるのでも、あなたの価値によるのでも、他の誰かにはできないことをあなたがしたからでもない、ということを認めるのです。この物語の主役は主ご自身です。神の民の一員として生きるとは、あふれる感謝(ありがとうございます、ありがとうございます、主よ)のうちに生き、すべてが主から来ていることを認めることなのです。
これは一つの文化を形作ります。一つの姿勢を形作ります。あなたの人生の始まりに与えてくださったのが神であり、人生のただ中で備えてくださっているのも神であり、これからの未来もまた神が備えてくださると知っているなら、傲慢に、自慢げに、支配欲に取りつかれたままでいることなど、どうしてできるでしょうか。
4. 希望の日
13章5節と11節を見てみてください。神には、さらに大きなご計画がありました。物語は脱出だけで終わりません。「主が、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の地、すなわち乳と蜜の流れる地、あなたの先祖たちに誓われた地にあなたを導き入れられたなら、あなたはこの月にこの礼拝を行わなければならない。」(出エジプト記13:5)
主は、ただ民を連れ出すことだけを望んでおられたのではありません。導き入れることを望んでおられました。主はご自分の民を希望へと導いておられます。記憶に満ち、感謝に満ち、そして希望に満ちた民です。なぜなら、あなたを奴隷の身分から解放するために真実であられた神は、あなたを目的地まで導くためにも真実であられるからです。ファラオを打ち破られた方であるなら、この先に立ちはだかる巨人たちや、恐るべき民族たちをも必ず打ち破ってくださいます。それは確かなことです。
5. 本当の転換点:イエス・キリストの十字架
残念ながら、その後のイスラエルの歴史は、失敗の連続でした。主を忘れ、主のなさったことを忘れ、約束を忘れる民でした。あの日は、本来もたらすはずだった転換を、十分にはもたらしませんでした。
なぜでしょうか。私たちの外側にある奴隷状態は、外からだけ来るのではないからです。それは、どんな外的な解放をもってしても解き放つことのできない、内なる奴隷状態から来るのです。それは、私たちの罪の結果であり、神に対する反逆の結果です。エレミヤはこう言っています。「主よ、私を癒やしてください。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ私の賛美だからです。」(エレミヤ書17:14)主よ、何かをしてください、そうでなければ私は奴隷のままです。
だからこそ神は、出エジプトの型を再び取り上げ、預言者イザヤを通して新しい出エジプトを告げ知らせられます。「その日、あなたは言う。『主よ、私はあなたに感謝します。あなたは私に対して怒っておられましたが、その怒りは去り、あなたは私を慰めてくださいました。見よ、神は私の救いです。私は信頼して恐れません。主、主こそ私の力、私の賛美であり、私の救いとなってくださったからです。』」(イザヤ書12:1-2)
この大いなる出エジプトは、イエス・キリストとともに実現します。種を入れないパンの祭りの初日、イエスはパンを取ってこう言われました。「これはわたしのからだである。」杯を取ってこう言われました。「これはわたしの血である。」ご自分が十字架の上で、身を献げる神の子羊となることを、こうして告げ知らせておられたのです。
十字架の日こそ、本当のさばきと救いの日です。イエスは、あなたの初子のためだけでなく、あなた自身のために、さばきをその身に受けて死なれました。そして、ここに初子をめぐる栄光に満ちた奥義があります。イスラエルをご自分の初子として示し、エジプトの初子を打ち、ヘブライ人の初子の身代わりに子羊を求められたことを通して、神はご自分の初子の到来を備えておられたのです。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」イエスは、多くの兄弟の中の長子です(ローマ人への手紙8:29)。あなたの兄が、あなたの身代わりとなってくださいました。これこそが、本当にすべてが変わった日なのです。
覚えておきたいポイント
- 救いが訪れるためには、さばきが必要でした。神は、悪を罰しないまま御民を解放することはできません。
- 神は覚え続けることを強く求めておられます。忘れることは、アイデンティティを失い、同じ過ちを繰り返すことにつながります。
- 感謝とは、ありがとうと言うことであり、認めることです。あなたを救ったのは、あなたの力ではなく、神の力です。
- あなたを連れ出してくださる神は、あなたを導き入れたいと願っておられます。希望は、神の民のアイデンティティの一部です。
- ユダヤ教の過越は十字架を指し示しています。イエスは、あなたの身代わりとしてさばきを受ける子羊であり、長子です。
あなたへの適用
- 自分の人生を振り返ったとき、神との間で「すべてが変わった日」を挙げることができますか。あなたはその日をどのように記念していますか。
- 神があなたのためにしてくださったことのうち、あなたが忘れがちなことは何でしょうか。今週、リストを作って読み返してみましょう。
- あなたの感謝の生活は、機械的な「ありがとう」に近いでしょうか、それとも「すべてはあなたから来ています」と認め、日々の生き方を変えるものになっているでしょうか。
- 誇り、怒り、依存、恐れなど、外的な解放を待ち望んでいる内なる奴隷状態はありませんか。神は、その内側からあなたを解放したいと願っておられます。
- 主の晩餐にあずかるとき、あなたの兄があなたの身代わりとなってくださったことを意識していますか。そのことは、あなたの感謝と希望をどのように育んでいますか。
引用聖句
- 出エジプト記 12:29-42
- 出エジプト記 13:1-16
- 出エジプト記 4:22-23
- 出エジプト記 7:4-5
- エレミヤ書 17:14
- イザヤ書 12:1-2
- ローマ人への手紙 8:29
- コロサイ人への手紙 3:16-17
よくある質問
なぜ神はエジプトの初子を打たれたのですか。
ファラオ自身が、ヘブライ人の初子たちをナイル川に投げ込んで殺していたからであり、また、神の民を去らせることを頑なに拒み続けていたからです。このさばきは、救いが訪れるために必要なものでした。聖書はこう語っています。このさばきがなければ、ファラオは屈服しなかったでしょう。そしてこれは、もっと大きな真理を思い起こさせます。神は、悪を見過ごしたまま御民を解放することはできず、悪をさばかなければならないのです。
なぜ過越の祭りと種を入れないパンはこれほど重要なのですか。
神が、ご自分の民に忘れてほしくないと願っておられるからです。過越は記念のための食事であり、契約の民だけに与えられ、一頭の子羊がヘブライ人の初子の身代わりとなったことを思い起こさせます。種を入れないパンは、二つのことを思い起こさせます。ひとつは、この物語の脚本を書いておられるのが神であるがゆえに、民が急いで出発したこと。もうひとつは、かつての奴隷としての生活が終わり、古い世界の痕跡を残さない、新しい人生が始まるということです。
出エジプトの過越とイエス・キリストには、どのようなつながりがありますか。
直接的なつながりがあります。イエスは、種を入れないパンの祭りの初日に主の晩餐を制定し、パンを取って「これはわたしのからだである」と言い、杯を取って「これはわたしの血である」と言われました。ご自分が十字架の上で神の子羊となることを、こうして告げ知らせておられたのです。イエスはまた、エジプトの初子たちとは対照的に、兄弟たちを解放するために、その身代わりとしてさばきを受けてくださった長子でもあります。十字架こそ、本当にすべてが変わった日なのです。
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