チャールズ・ケイによるマタイ25:14-30の説教・2025年9月14日の礼拝より。
はじめに
マタイ25:14-30を開くと、イエス様は旅に出る主人が三人のしもべに財産を預けるたとえ話を語っておられます。一人には5タラント、もう一人には2タラント、もう一人には1タラント、それぞれの能力に応じて預けられました。最初の二人は預かったものを増やしましたが、三人目は恐れて穴を掘り、お金を土に埋めて主人の帰りを待ちました。
このたとえ話は、まず第一にお金の話ではありません。これはあなたの人生全体、つまり時間、お金、能力、信仰、教会について、イエス様があなたに語りかけておられる言葉です。すべてはあなたに委ねられたものです。いつかあなたは報告をする日を迎えます。そして父なる神様が願っておられるのは、あなたがこの言葉を聞くことです。「よくやった、良い忠実なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから、主人の喜びをともに喜んでほしい。」
ここでは、チャールズ・ケイがこの箇所で強調した三つの原則と、神様があなたに何を委ねておられるかについて、マラキ書3章から導かれる具体的な適用を紹介します。
この記事の構成
1. 経済の原則:責任と実り
2. 関係の原則:主人への信頼と恐れの間で
3. 資源の原則:あなたは管理者であって所有者ではない
4. 適用:十分の一献金、従順と信頼の試し
1. 経済の原則:責任と実り
イエス様がまず示しておられるのは、チャールズ・ケイが「責任ある資本主義」と呼ぶものです。この言葉は今の時代、警戒されがちですが、正しく理解する必要があります。神様は財産を顔の見えない集団に委ねるのではありません。一人ひとりの名前を持つ個人に、それぞれの能力に応じて委ねられます。それぞれのしもべは、自分自身が責任を負うべき個人的なものを受け取るのです。
この原則はすでにモーセの律法の中にあります。出エジプト記20章で、神様は盗みと欲を禁じておられますが、これは私有財産が存在し、それが守られていることを前提としています。あなたは誰かのものでなければ盗むことはできません。神様は、あなたが受け取ったものに責任を持つことを真剣に受け止めておられます。
しかし、所有そのものが目的ではありません。神様が関心を持っておられるのは実りです。神様は、あなたの手から、時間から、創造性から、実が出てくることを望んでおられます。最後に主人は、タラントをただ大事にしまっておいた者を褒めません。実りをもたらした者たちを褒めるのです。三人目のしもべが厳しく裁かれたのは、お金を失ったからではなく、何も生み出さなかったからです。タラントを土に埋めることは、使命を拒むことなのです。
2. 関係の原則:主人への信頼と恐れの間で
このたとえ話は次に、一つの関係を描き出します。主人はしもべたちのことをよく知っており、それぞれの能力に応じて財産を与えます。最初の二人は、信頼の関係の中から行動します。しかし三人目は恐れから行動しました。「あなたは厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、あなたのお金を隠しておきました。」
ここが大切なところです。あなたのクリスチャン人生は、あなたが父なる神様をどのように思い描いているかに左右されます。もし神様を、あなたのあら探しばかりしている厳しい主人だと見るなら、あなたは委ねられたものを土に埋めてしまうでしょう。用心深く、身構えたまま、何も冒険しないほうがよいと考え続けるでしょう。しかし、聖書が描くとおりの父なる神様(あわれみ深く、恵みに満ち、慈しみに富む方)を見るなら、たとえ少ししか持っていなくても、受け取ったものを実らせる勇気を持てるようになります。
旧約聖書のヨセフは、その美しい模範です。彼はエジプトでファラオの管理者となりました。豊作の七年間と飢饉の七年間を通して、他人の事業を忠実に管理したのです。彼は恐れではなく、神様への信頼から行動し、その管理はやがてイスラエルの民を救うことになりました(創世記41章から47章)。
3. 資源の原則:あなたは管理者であって所有者ではない
新約聖書で「管理者」や「執事」と訳されるギリシャ語は、二つの言葉から成り立っています。「オイコス」(家)と「ノモス」(法)です。ここから私たちの言葉「経済」が生まれました。クリスチャンにとっての経済とは、神の家の法則です。あなたは、父なる神様の家を、神様ご自身のルールに従って管理するように召されています。
パウロはコリント人への第一の手紙4:1-2でこう書いています。「こういうわけで、人は自分をキリストに仕える者、また神の奥義を管理する者と考えるべきです。この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。」管理者とは執事のことです。彼は家を所有しているのではなく、他の方のために家を管理しているのです。
イエス様の時代、1タラントはおよそ40キログラムの銀に相当し、現代の金額にすると数万ユーロにもなります。たとえ1タラントしか受け取らなかった者でも、莫大な額を受け取ったことになります。今日、神様があなたに委ねておられるものは、あなたが想像する以上に大きなものです。健康、年月、家庭、子ども、財産、教会、そして福音そのものです。すべては神様のものです(詩篇24:1)。あなたは所有者ではありません。あなたは管理者なのです。
このことは、お金の管理の仕方も含めて、すべてを変えます。チャールズ・ケイは説教の中で、自分は若いころに財産の管理を学んでいなかったと分かち合いました。聖書は実に多くのことをお金について語っています。クレジットカードは、身の丈以上の生活をさせてしまうとき、罠になりえます。負債は、聖書が警告するとおり(箴言22:7)、一種の奴隷状態です。忠実な管理者はそこに閉じこもらず、その日その日に神様が与えてくださるもので生きることを学ぶのです。
4. 適用:十分の一献金、従順と信頼の試し
説教の終わりに、一つの箇所が繰り返し語られます。マラキ書3:7-10です。神様は、離れてしまった民に語りかけ、こう呼びかけられます。「わたしのところに帰れ。そうすればわたしはあなたがたのところに帰る。」民は答えます。「何において帰るべきでしょうか。」すると神様は、ほとんど衝撃的なほどにこう答えられます。「人は神のものを盗むだろうか。しかしあなたがたはわたしのものを盗んでいる……十分の一と奉納物によって。」そして続けて言われます。「十分の一をすべて倉に携えて来て、わたしの家に食物があるようにせよ。今それをもってわたしを試し、天の窓を開いて、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐか、どうか見よ、と万軍の主は言われる。」
チャールズ・ケイは、十分の一献金について流れているいくつかの誤解を指摘しました。
- 誤解1:「十分の一献金は旧約聖書のもので、今の私たちには関係ない。」新約聖書のどこにも、これを廃止する記述はありません。律法における献げ物は、時には収入の20%を超えることさえありました。
- 誤解2:「献げれば、神様が私を豊かにしてくださる。」これは取引ではありません。神様は必要を満たすと約束しておられるのであって、あなたを億万長者に変えると約束しておられるのではありません。
- 誤解3:「献げるだけの余裕がない。」だからこそ、十分の一は割合なのです。それは公平です。誰もが同じ割合で献げるのです。
チャールズ・ケイは印象的な数字を挙げました。アメリカでは、実際に十分の一献金をしているクリスチャンはわずか4%ほどだと言われます。もしすべての人がそうしていたら、宣教や牧師、地域の教会のための資金不足など起こらなかったでしょう。神の国を動かす核心は、お金そのものではなく、すべては神様から来たものだと認め、その一部を神様の家に献げる心なのです。
十分の一献金は魔法ではありません。あなたが所有者だという錯覚から抜け出すための、信仰の訓練です。それはまた、連帯の行為でもあります。あなたは、教会の営みに、あなたを教える人々に(ガラテヤ6:6)、そして神の家に仕える働きに(ネヘミヤ10:32)、具体的に加わることになるのです。
覚えておきたいポイント
- 神様はあなたに、お金、時間、賜物、信仰など、個人的なものを委ねておられ、それを実らせることを望んでおられます。
- あなたの管理の仕方は、あなたが神様をどう見ているかを映し出します。逃げるべき厳しい主人としてか、信頼できる良い父としてか。
- あなたは管理者であって、所有者ではありません。あなたが手にしているものも含め、すべては神様のものです。
- 十分の一献金は料金表ではありません。それは従順と信頼を学ぶ学校です。
- いつかあなたは報告をする日を迎えます。目的は成果ではなく、忠実さです。
自分への適用
- 今あなたは、恐れや快適さのために土に埋めてしまっている「タラント」は何ですか。
- あなたは神様を厳しい主人として見ていますか、それとも良い父として見ていますか。それは今週のあなたの決断にどう影響していますか。
- あなたは実際にどのようにお金を管理していますか。負債、支出、貯蓄について、神様の前で整えるべき点はありますか。
- あなたは、神様から与えられたものに応じて、地域の教会の営みに経済的に加わっていますか。
- もし今日、主人が帰って来られたら、この一年についてどのような報告をしますか。
引用された聖句
- マタイ 25:14-30
- エペソ 2:1-9
- ミカ 6:6-8
- 出エジプト記 20章
- コリント人への第一の手紙 4:1-2
- マラキ 3:7-10
- ガラテヤ 6:6
- ネヘミヤ 10:32
- ルカ 22:14-20
よくある質問
マタイ25章のたとえ話における「タラント」とは何を表していますか。
イエス様の時代、1タラントは重さの単位で、およそ40キログラムの銀に相当し、現代の金額にすると数万ユーロになります。1タラントであっても、それは大変な金額です。このたとえ話では、それは神様があなたに委ねてくださるすべてのもの、つまりお金、時間、能力、賜物、信仰、機会を表しています。
十分の一献金は、新約聖書のクリスチャンにとって今も義務ですか。
新約聖書は、十分の一献金を明確に廃止しているわけではありませんが、厳密な割合を定めているわけでもありません。むしろ、喜びをもって、惜しみなく、神様があなたの心に置かれたものに応じて献げることを勧めています(コリント人への第二の手紙9:6-7)。それでも十分の一は、とても具体的な目安として残っています。10%を出発点とし、必要や受けた恵みに応じて、さらに献げ物として加える自由があります。
三人目のしもべは何も盗んでいないのに、なぜあれほど厳しく裁かれたのですか。
このたとえ話における罪は、お金を失うことではなく、仕えることを拒むことだからです。彼は恐れから行動し、主人を誤って判断し、何も生み出しませんでした。タラントを土に埋めることは、神様の計画に加わることを拒むことなのです。この裁きの厳しさは、神様があなたに委ねられたものをどれほど真剣に受け止めておられるかを示しています。
この記事は、チャールズ・ケイによるマタイ25:14-30の説教(2025年9月14日の礼拝)と、ポール・ジョルジュによる礼拝式文をもとに作成されました。
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